


創建は大同年間(806~810年)に、かの坂上田村麻呂が勧請したと伝わるお社です。
山の中に海の神様はこの安曇野においてはむしろ定番ですから、ここでは特に違和感はないとしましょう。
むしろ、坂上田村麻呂の東征に興味が湧きます。しかし、パッと軽く検索してみても征討の経路は出て来ないようです。陸奥國での出来事はそれなりに記録があるようなのですが。
当地、安曇野関連でいうと八面大王を征伐した話が残っていますが、どうやら伝承の域は出ないようです。何かしらの勢力いて坂上田村麻呂と対抗したとしてもなんら不思議ではありませんが、田村麻呂が当地を通って北上したのか、八面大王あるいは象徴するような勢力がいたのか、実際田村麻呂と摩擦があったのか、貼面大王は統治者だったのか、山賊のような位置付けだったのか、どれもはっきりしないようです。
わかっているのは在地勢力仁科氏の『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に比較的詳しく載っているようで、何かしらの勢力があったのかも知れません。ちょうど、仁科氏が勢力を張った仁科神明宮と八面大王がいたとされる有明山神社付近は平地を挟んで東西の関係です。『仁科濫觴記』によると有明山に巣食う鬼賊をを討ったのは田村守宮という人のようで、だからと言って田村麻呂と間違えるか?と思うんですよね。
”意図的に”ビッグネームの名を借りた。
そんなところじゃないでしょうか。
まぁ、そんな仮冒があったとしてもこの住吉神社はそれなりの規模があり、当時もこの安曇野の地で勢いのある存在だったのではないでしょうか。そんな感じはします。
既に安曇氏が奉斎する穂高神社があり、別系統ながら海にまつわる神様を勧請したのには何も意図がなかったはずがありません。
少なくともこの山国で安曇氏と肩を並べるだけの価値が”住吉神”にあったはずです。もちろん、格だけでいえば諏訪系でも構わないような気もしますが、海神である必要性を感じますね。
だとすると田村麻呂がなぜ?と思ってしまいます。田村麻呂は東漢氏(やまとのあやうじ)出身です。大陸にルーツのある人なのですが、海神族のイメージはないですよね。もちろん、田村麻呂のイメージに引きずられすぎて”武官のお家柄”と決めつけるのは間違いの元のような気はしますが、この時代海外勢は武人か文官として立身を狙ったのではないでしょうか。安曇氏ですら外洋に出ることより、陸地に生業を求めていったのですから、坂上氏の素性を知らないだけかも知れません。
ただ、田村麻呂がこの安曇野の地にやってきたかどうかは何も証拠はないようです。八面大王を征伐したのも別人のようです。
現段階では”伝承”の域を出ないのは確かです。