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  • 安宅住吉神社(加賀國)

    令和8年9月6日(日)

    ☆難関突破の御利益のあるお社であるということ。

    ☆勧進帳ゆかりの地であるということ。

    こちらのお社はもう何年もお詣りしているお社ではありますが、この数年、特にこの2~3年は何かとお邪魔することが増えました。

    難関突破の御利益があること、海の神様、ひいては航海の神様をお祀りする住吉神社であることと海岸に面していることは無関係ではありません。

    安宅住吉神社が鎮座する安宅町は小松市に属しており、その昔は高麗津(コマツ)と書いたとも言われており、日本海を表玄関とした港のひとつだったことが窺えます。

    若干脱線しますが、この頃は日本海側が表日本です。尤も太平洋側に国交を持つような国も貿易先も認識されていない時代なので、言わずもがなですが。

    そもそもの創建は782年だそうですので、日本という国(だったかどうか疑問はありますが)の海路と言えば、日本海か或いは瀬戸内海だったことでしょう。

    いつからこの”難関突破”を謳うようになったかはわかりませんが、長距離移動が困難な時代に生まれたものと思います。

    なぜ、こんなことを言うかと言えば、勧進帳の存在です。義経一行が兄・頼朝の追っ手から逃れる際の勧進帳の演目にもなった安宅関の突破劇です。

    この出来事が”難関突破”の謂れのように思っていたのですが、歴史から言って、このお社は奈良時代から存在しており(遷座は繰り返しているようですが、陸路海路の安全を祈願してきたことに変わりはないでしょう)、勧進帳事件はかなり最近の出来事です。

    つまり、後付けのエピソードのように思えます。更に歌舞伎の演目であれば十中八九江戸時代の創作です。

    しかも、こんな話があります。

    関所を抜けるために武蔵坊弁慶が主君義経を殴打したエピソードは安宅の関ではなく、富山県の小矢部川河口の「如意の渡り」の話として「義経記」には書かれています。

    その後、北上に山形県鶴岡市の鼠ヶ関(念珠関)も通っているため、まぁ簡単ではなかったでしょうね…。

    とにかく、安宅の関のエピソードは創作であることは通説なのでしょうけど、この関所の関守の冨樫泰家は実在の人物で、名君だったようで、義経・弁慶主従を情を以て見逃すのに適役だったのは確かなようです。

    かくいう私自身も何かと難関が続きながらもなんとか乗り越えてきているので、昨年夏前でしたか、本家住吉大社にお詣りし、前後して、安宅の方にも通うようになった次第です。

    この日はお祭だったようで…結局何のお祭だったのか調べておりませんが、境内に入った途端、参拝客は誰もいない状態になり、お詣りが終わるとともに観光バスの一団が押し寄せてまいりました。

    まったくタイミングがいいというか、神様に好かれているのか、いずれにしてもありがたいことです。

    更にお相手というべき人とまったく別の神社で引いたおみくじが同じ番号で同じ内容で大吉だとしたら、皆さんはどうお感じになりますか?

    ちなみにその番号は…この1年くらい何かにつけ目にするゾロ目です。

    あまりにも出来過ぎです。

  • 住吉神社(信濃國安曇郡)

    創建は大同年間(806~810年)に、かの坂上田村麻呂が勧請したと伝わるお社です。

    山の中に海の神様はこの安曇野においてはむしろ定番ですから、ここでは特に違和感はないとしましょう。

    むしろ、坂上田村麻呂の東征に興味が湧きます。しかし、パッと軽く検索してみても征討の経路は出て来ないようです。陸奥國での出来事はそれなりに記録があるようなのですが。

    当地、安曇野関連でいうと八面大王を征伐した話が残っていますが、どうやら伝承の域は出ないようです。何かしらの勢力いて坂上田村麻呂と対抗したとしてもなんら不思議ではありませんが、田村麻呂が当地を通って北上したのか、八面大王あるいは象徴するような勢力がいたのか、実際田村麻呂と摩擦があったのか、貼面大王は統治者だったのか、山賊のような位置付けだったのか、どれもはっきりしないようです。

    わかっているのは在地勢力仁科氏の『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に比較的詳しく載っているようで、何かしらの勢力があったのかも知れません。ちょうど、仁科氏が勢力を張った仁科神明宮と八面大王がいたとされる有明山神社付近は平地を挟んで東西の関係です。『仁科濫觴記』によると有明山に巣食う鬼賊をを討ったのは田村守宮という人のようで、だからと言って田村麻呂と間違えるか?と思うんですよね。

    ”意図的に”ビッグネームの名を借りた。

    そんなところじゃないでしょうか。

    まぁ、そんな仮冒があったとしてもこの住吉神社はそれなりの規模があり、当時もこの安曇野の地で勢いのある存在だったのではないでしょうか。そんな感じはします。

    既に安曇氏が奉斎する穂高神社があり、別系統ながら海にまつわる神様を勧請したのには何も意図がなかったはずがありません。

    少なくともこの山国で安曇氏と肩を並べるだけの価値が”住吉神”にあったはずです。もちろん、格だけでいえば諏訪系でも構わないような気もしますが、海神である必要性を感じますね。

    だとすると田村麻呂がなぜ?と思ってしまいます。田村麻呂は東漢氏(やまとのあやうじ)出身です。大陸にルーツのある人なのですが、海神族のイメージはないですよね。もちろん、田村麻呂のイメージに引きずられすぎて”武官のお家柄”と決めつけるのは間違いの元のような気はしますが、この時代海外勢は武人か文官として立身を狙ったのではないでしょうか。安曇氏ですら外洋に出ることより、陸地に生業を求めていったのですから、坂上氏の素性を知らないだけかも知れません。

    ただ、田村麻呂がこの安曇野の地にやってきたかどうかは何も証拠はないようです。八面大王を征伐したのも別人のようです。

    現段階では”伝承”の域を出ないのは確かです。

  • 住吉大社(摂津國)

    2025年4月16日7:00

    いろいろとお力をお貸し頂きたくて、住吉大社のみの一点集中遠征でした。1年ほど前のこと。このあと、いろんなことが変わり始めたのは確かです。もちろん、自分からアクションを起こした部分も多々あります。お預かりしたお力をお返しに行かねば…。

    2019年5月22日

    最初にお詣りしたのも似たような季節だったんですね。もう7年が経っていました。本格的に遠征を始めた頃の最初期の遠征地。

    なので、ひとり遠征部の原点のような場所でもあります。

    さて、住吉大社は新羅征伐の記念碑的に創建されたお社で、それを任されたのが津守氏の祖・田蓑宿禰であり、いわゆる神官が神官家の祖先神を祀るというパターンではありません。住吉大社は住吉三神(と神功皇后)を祀り、津守氏の祖先神は天火明命…? あれ?そうだっけ? 

    住吉大社境内の大海神社は津守氏の祖先神をお祀りしていると記憶していましたが、天火明命だった記憶がない…。失礼ながら、そんなビッグネームをお祀りしていた印象がない。改めて、住吉大社のHPを見ますと、現在の御祭神は豊玉彦と豊玉姫のようです。こちらもビッグネームですが。でも、延喜式では「津守安人神」となっているらしいので、こちらの方がリアルな祖先神って感じがします。

    同じく、住吉大社境内の志賀神社には神社名があらわすように海神がお祀りされています。安曇氏の本拠地が志賀海神社ですから、普通に綿津見三神がお祀りされています。

    綿津見三神(綿津見豊玉彦)→宇都志日金拆命(穂高見命)→安曇氏…系譜で繋がるように志賀海神社と安曇氏、穂高神社と安曇野。神社と地域、氏族が無理なく繋がっている感じがします。

    一方、津守氏は綿津見神も天火明命と両方のつながりを匂わせつつ、繋がらないと思わせるニオイも出しています。

    綿津見系の人たちとも天火明系の人たちとも繋がっておきたかった…そんな雰囲気が見え隠れします。

    あまり仮冒という言い方はしたくないのですが、海に生きる人たち同士で同族意識とまでいかなくても仲間意識はあったでしょう?

    実際、津守氏が津守氏を称したのが遣唐使の頃のようなので、安曇氏、尾張氏と比べるとだいぶ新しい氏族です。一方で、ご先祖様は住吉大社創建の誉れにあずかる一族として大きく出世した歴史があるので、若干箔をつけたい気持ちが働いた可能性も…。

    でも、堂々と「津守安人神」をお祀りしたほうが、誇らしくていいと思うのですが、いかがでしょう。