読書は他人の経験を自分の経験にする可能性がある有意義で簡単な方法だと思う。
それをやらない理由はほとんどないだろうと思う。
ただ、そのほとんどと言うのは時々手放しでは喜べないこともあるからだ。
読み手にも見識がいる。見識を身に着けるための読書だろうから、こは如何に、という話ではあるけれど、読み手に読む能力を求められる…と感じることもなくはない。
ストーリー性のある小説などなら、読み手が読み間違いや勘違いをしていたら、辻褄が合わなくなり、自分で気付くことができるが、それ以外の場合、文字が読めればいいというわけではなく、読み込む力が必要となる。
読み手に読む力がなく、読書を断念するなら致し方ないが、誤解したまま読み進め、間違った理解をしてしまうとこれは最悪だ。
つまり、読み手は自分ではこういう理解をしたが、その理解で合っているだろうか?という振り返りというか自己確認が難しい。
勘違いでも納得でいたならそれでもいいのかも知れないし、そこまで心配する必要もないのかも知れない。
ただ、中には曲解しかしないタイプの人間もいて、そうなるともう読まない方がいいと思えてくる。
人様の経験を自分のものにできるのが読書であろうに、素直に著者の考えを理解できず(決して共感する必要はない)、曲げて理解するのであれば、何も得られないし、昨日と今日とで何も変わらなかったというより毒にすらなるのではないかとさえ思う。
例えば、資産形成のための投資の指南書があったとしよう。
例えば、人生をよりよく生きるための哲学というか心のよりどころとなるようなエッセイがあったとしよう。
例えば、健康に関連して食事や栄養を指南する書籍があったとしよう。
こういった指南書は最初特に理解しづらいかも知れない。〇〇株を買えと具体的な戦法が書かれているわけではなく、”考え方”を示唆するタイプの指南書もあれば、具体的に〇〇株を買え、と書かれているものもあろうけど、それならそれで、その銘柄の話が現在も通用する話なのか、その買うべき根拠は今現在の市場にあった話なのか、よくよく精査しなくてはいけない。指南書の内容が難しいからといって、結局ろくに読まずに、買えと言われる銘柄を考えなしに買っても理屈がわかっていないと次にはつながらないし、次に買うときにまた誰かに訊かないと選べない。一定の理屈は必要なのに、難しいからといって放棄してしまうと…かといって株の配当のことが魅力的で無知のまま、どこかで聞きかじったことを頼りに投資なるものを始めたとしたら…、株などの投資はギャンブルではないから、ある程度の基本的な知識、大局をつかめばギャンブルのように大損したりせずに安全に始められるだろうけど、誰かの個人的な意見を聞きかじっただけで始めることほど危ないことはない。
人は生きていくにはときに迷いや行き詰まりを感じることがあるけれど、他人様の人生論は時に役に立ち、困難を突破するきっかけになる可能性はあるけれど、ひとりとして同じ人生を歩むことはないのだから、やはり大局や本質をつかんで自分の状況に応用するのが正しいのだろうけど、エッセイに書かれているまま転用することはできない。
健康に関することは特に厄介だ。根拠のある定説だけでなく、宗教染みた偏った説にのめり込むように信じてしまっている人が少なくない。医学や薬学ならまだしも、栄養学は学問と一般人にとっての実践学にまで落とし込まれていない。浸透しているとは言えないから、いろんな人がいろんなことを言う。薬剤師は栄養成分も含めたすべての化学物質をひと通り履修はしているけれど、調理法とリンクしていない。もちろんこの栄養成分は熱を加えるとほとんどが壊れてしまうとか知っていることもあるけど、断片的だと思うし、学部時代の授業もそれほど時間が割かれなかった記憶がある。では現在、何で正しい知識を得るのだろう。料理本はおいしそうには見えるけど、栄養学の根拠は薄いだろうし、医師にコレステロールを控えましょうと言われても具体的にどうしたらいいのかすぐわかる人はいないのではないだろうか(医師もよくそれでわかるはずのないことを言うよなとは思うけど)。少なくともおいしそうな写真が載っている料理本の著者は自称料理家なのか、管理栄養士なのか、栄養士なのか、調理師なのか、栄養学者なのか、料理好きのタレントなのか…それぞれ持っている知識は違うと思わなければならない。