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  • 属人化

    Aさんしか知らない業務内容を作らぬこと。

    仮にAさんが熟練の人だったとしてもブラックボックス化しないこと。

    理由は簡単。

    そのAさんが何かの事情で急にいなくなれば、混乱するからだ。混乱までいかなくても戸惑うことは間違いない。

    そこまで極端な例でなくても、普通に配置転換があったときに引継ぎができないからだ。

    代わりが利かないAさんは素晴らしい人材かも知れないが、代わりがいないのはその企業にとって大打撃だ。

    例えば、店舗開発のようにいい物件を探してくるような仕事だと、いまだに不動産屋相手の仕事は人間関係が重視されるそうな。金を積めばとはいかない世界なんだそうな。

    もちろん、某ドラッグストアが相場の3倍の家賃を出してとある物件を落札したなんて話は現実にあるから、金さえ積めばという部分もあるにはある。

    ただ、それをやり続けるにはとてつもない資本力が必要になるし、単純に長くは続かない。

    そうすると郷には従えで、その業界の体質に従えば、3倍も出す必要はなくなる…だがしかし、マニュアル云々でマネできる話ではなくなる。人間力のある人間にしか引き継げないということになるし、前任者から後任者に多少の挨拶をしたからといって、”担当者交代”とはならない。前任者の”顔”があって、その”顔”に泥を塗らない人物と評価されないと後任者も仕事はもらえないんだろう。

    これはやむを得ない属人化だと思う。

    極めて稀な例としての。

    しかし、ひとりの人が長くある業務に居座ったおかげで他の誰にもわからなくなってしまうようなケースはままある。マニュアルがその人の頭の中にしかないような状態。

    非上場だとそういうことは起こり得るかも知れない。業務分掌がなければ、そもそも業務の守備範囲もはっきりしないかも知れない。そういう人の場合、ひとりの守備範囲がやたら広いことが多い。

    一見有能に見えるけど、近い将来問題になる。いずれにしてもいつかのために後任を見繕っておくか、組織的に分担する仕組みを導入することを計画しておかなくてはならない。

    これも少々難しい問題ではあるが、整理してしまえばひとりの熟練者を配置し続けるより安全な組織にはなる。

    いつでも代行者をあてがえるように仕事のサイズを切り分けておく、業務フローを整理しておく、仕事のボリュームが小さめになっておれば、後任もマニュアルとOJTで慣れるまでの時間が最短化できる。

    Lynyrd Skynyrdが飛行機事故でメンバーの大半が亡くなったことを思えば、まだなんとかなる話だ。

    どちらかというと飛行機事故よりずっと予見できるし、計画的に対策できる。

    つまり、属人化を放置したなら、それは自業自得なのだ。

  • 教える側の責任80%

    いや、何%でもいい。
    教える側の責任が大多数であり、教わる側はせいぜい一生懸命メモを取って、なるべく同じことを訊ねなくても済むように努力すること。

    と言ったのは私の仕事の師であり、のちに様々なOJTの書に、教育担当養成の研修の場で言われたことでありました。

    つまり、特別変わった話ではありません。

    OJTが作業手順を教えることくらいの意味しかないとしたら、責任はいらないんだけど、この責任がないと、その作業手順すらいい加減な教え方になる。

    尤もその作業手順を書き取る時間も与えない教育は教育と呼ぶに値しないんだけれど。

    そもそもOJTとは一定のパフォーマンスを発揮するまでの時間を最短化することです。

    そのためには仕事の意義から始まり、全体像と体系的な流れを示し、これから教わる手元の手技との関連性や位置づけを理解しないと始まるものも始まらない。


    OJTという概念のない場所では日常業務の合間に、作業手順を点で教える…というより”言う”だけで、初心者初学者が短期間にできるようになる可能性は極めて低く、一部の天才か要領のいいタイプだけが自力で習得できるのみだろう。日頃の作業手順の通り”伝える”ならまだしも、その手順すら無視して断片的に”伝えて”も結局”慣れる”のを待つしかない。

    教える…できるまで習得できるまで面倒を見ること。

    言う…言葉にして発する。



    点で…というのは作業の前後関係なしで、「それはこうやって」言ってくるようなケースで、連続性がないから、何の後”こうやる”のかまるでわからないことになる。それではどんなときに「こう」やって、どういうときは「そう」やるのか、受け手(教わる側)がかなりの努力をして整理しなくてはならない。もちろん、「そう」とか「こう」とか様々なバリエーションを自分の中で蓄積させる必要がある。教える側は全部(全体)を知っているはずなのに、それを整理せずに断片で話をする。

    決して、珍しい話ではない。

    A→B→Cがスタンダードな手順ならば、まずそれスタンダードであることとその手順を習得しないと次はない。

    仮にイレギュラーとしてA→B’→C’という工程があったとして、B’のみ、C’のみ教えられても仕方ない。

    文字通り仕方ない。

    つまり、どこから教えるかも法則がある。考えるまでもない。

    一番スタンダードなやり方からしかあり得ない。もし仮に一番スタンダードなやり方の難易度が高いとしたら、スタンダードなやり方を切り分けて、それぞれの位置関係を確認しながら、教えていくか、イレギュラーではあるけど、導入しやすい簡単なものから教えるに如くはなし。



    教える側に責任がないと、できなければできない側の責任になってしまい、それが原因で辞めてしまっても居なくなれば覚えの悪い奴でしたね、で終わる。教える側の成長の機会も失われる。

    最後に残った者が勝ちなのは何もリングの上だけではないけれど、貴重な費用をかけて採用した正に貴重な人材を自分たちの無知のせいで捨てることになるかも知れない。受け入れる会社にとってもなにひとついいことがない。

    教育も採用もやるとわかるけど、教育できないなら採用するな、と思う。

    教わる側、採用される側が気の毒なだけでなく、教える側、採用する側にもいいことがないだけでなく、相当な経費を使っているだけに損しかない。

    何も手取り足取りとは言わない。けれど、採用した以上、道筋をつける責任か必要はあるのではないか。これはあくまでも採用した側、教える側の姿勢として、という話だ。現場ではなかなか経営上の損得まで見えていないことが多いだろうけど、人として、も現場の実務上もそれほど間違っていまい。

    だから、本来現場では”教えてできるようにする必要性”があるはずなんだ。にしても、その辺りの理屈と行動が一致していないのが不思議でならない。

    時々困ったことに教わる側がふんぞり返っていることがある。「さあ、上手に教えてごらんなさい」と言わんばかりの。仕事の不出来を指摘すると「教え方が悪いんじゃないですか?」とくる。”教える側の責任”云々と言っている以上、怯まないでもないが、結局のところ、教える側が教える側の責任を果たし、教わる側も仕事を覚えることに専念する、その関係性、構造がなければ、成り立たない。それにどちらかがふんぞり返っていたら、それぞれの人生もそこまでだろう。

    いずれにせよ、教える側が教えることに責任を持ち、教わる側もそれに喰らいついていく、そして周囲も何を教わって、何をまだ伝え切れていないかを把握して、面倒を見る風土こそが、ひとりの新入社員なり初学者を育てる環境となる。

  • OJTの原則

    (1)やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。


    (2)話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

    (3)やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

    (1)はOJTの基本プロセス。手順書。

    (2)は上に立つ人、教える側の姿勢。上司観。

    (3)は最終的に教え教わる文化が醸成された組織の話。組織論。

    やってみせ:まず手本を見せる。ときどきできないくせに口だけで説明して、教えたことになっていることがある。手本とは本来あるべき姿であり、本来要求されるスピードやクオリティーを示すことになる。つまり到達点。ただし、かっこよくスマートな状態だけを見せて、ほらやってみろは違う。動きがわかるようにゆっくり見せる必要もある。”やってみせ”だけですでにこれだけのボリュームがある。

    言って聞かせて:いわゆる動機付けの部分。その仕事をやる理由、必要性。仕事には必ず理由があるのだから、それを伝えてできれば内発的動機付けに持っていく。ただ…いまどきはそれがうまくいかない可能性がある。仕事上必要なことと自分がやるかどうかがきれいに分離している人間が割といる。会社なんだから、とか、仕事だから、とか、給料もらっているんだから、とか、そんな話はイチミリも動機にはならないし、これらは外発的な動機付けであり、言い続けないと失われる動機。一方、決まっていることなら理由が何であれやる、という人種もいる。理由なんてどうでもよくて、クオリティーもどうでもよくて、よりよくとか熟練にも関係がなく、決められたとおりに動くのみ、というパターン。だから、動機の在り方も会社目線とかお客様目線とかが通用しない時代。

    ほめてやらねば:ここで誤解してはいけないのは、そのままほめるという意味ではなく、評価するとか、その前に認知するという意味に置き換えておきたい。サンドイッチ話法とかそういうアドバイス方法が端的には出てくるカテゴリーなんだけど、もう少し深い。出来た出来ないの前に、やってるね、と認知する。腕前を向上させるかどうかはその次の話でね。

    話し合い、耳を傾け、承認し:議論できる時点でそうとう出来上がっている観はあるけど。少し前から聞かれるようになった話に「僕の考えでは」をごり押しする若者の話。ここでも会社とか組織の中にいるということをすっかり忘れているのだけれど、会社で決まったことに対し、意見を求められているような状況でもないのに「僕の考えでは」が出てくる。多くはそれって、先人たちによって失敗したこととか、法律に触れることとか、とにかく「やってごらん」すら上司が許可できない内容を堂々と、且つ頑迷に主張してくるパターン。

    任せてやらねば、人は育たず:いわゆる権限移譲。権限を適切に移譲するのは難しい。権限の範囲を設定して、適切な人材に移譲するわけだ。そして組織として成り立つように権限を振り分けなければならない。どうやっても権限と権限の間に隙間もできる。逆に集権化する組織もなくはない。以前投稿した教育に重点を置かない組織では適切な人材に乏しい。正しい判断ができるのは階層が高い人だけ…。まぁ、能力の良し悪しというより情報量の多寡なんだろうけど。集権化すれば、少ない人間で権限を行使できる。スピードが上がるような気もするが、いちいち下位層は上位層にお伺いを立てなければならない。稟議が増える。書類が増える。会議が増える…。下位層や若い層を教育する手間と経費を減らすことは短期的には利益に反映するだろうけど、権限という点では機能不全に陥りやしないか。一応、皮肉を言っておくと上位層が優秀であればいいね。

    やっている、姿を感謝で見守って:資本主義経済の中では、この感謝で見守ってが難しいんじゃないか…。上位層は下位層の仕事をやって当たり前とみている。事実そういう当たり前の面もあれば、当たり前と思ってくれんなよ、と思う面もあろうな。

    信頼せねば、人は実らず:私が初めて平社員から平社員じゃなくなったとき、「信じて頼るな、信じて用いよ」と言われた。人を管理するとはそういうことだと。具体的に人に仕事をさせるとはそういうことだと。

    制御して使うものだと。ずっと平社員だとこの感覚はわからない。ひどいとか言われそうだが、それはあなた方の上司が表に出さないだけで、少なからずそう考えているか、頭を使っていない無能な上司かだ。無能な上司でも務まる組織なら、その組織はその程度のものだろうし。

    では、この場合の”信頼せねば”は如何なる意味だろう。これはもうそれなりの権限を移譲して責任とともに委ねられるほどの存在だろうから、信頼し切って失敗したとしても上司の知ったことではないんだよ。恐らく権限だけでなく、立場(職位)、報酬を頂いてのことだろうからね。守ってもらう立場じゃないんだ。だから、そこに覚悟もあろうから、育つ。

    それをわきまえないと上司は責任を取ってくれるひと、守ってくれるひとという勘違いが生まれる。権限移譲とはそういったドラスティックな面もある。

    この山本五十六元帥の格言とされる言葉は教育の至言の如く語られるけれど、深く考えれば考えるほど、”責任”とかシビアな話と切り離せなくなる。

    決して甘い話ではない。