投稿者: kmngr_kasumi_eater_0607

  • 善光寺(信濃國)

    釈迦如来は現世を守り、阿弥陀如来は来世を守るんだそうです。観光ガイドさんの説明が偶然聴こえてきて、ふむふむ(笑)

    現当二世安楽という仏教の考え方のようです。

    もっとも”来世”が生まれ変わりを指すのか、輪廻を解脱してあの世に行くことを指しているのかは…恐らく両方の意味がありそうですが。

    当地、善光寺の御本尊は阿弥陀如来です。ちなみに南向き。仏教建築は基本、南向きなので取り立てて言うことでもないのでしょけど、別所温泉の北向観音とセットでお詣りするものなんだそうです。

    北向観音は現世利益。

    一方、善光寺に釈迦堂があって。

    いずれにしても現世利益と来世利益はセット…というか、庶民の人気を得るには現世利益は必須でしょうから、現世寄りになっていった…。

    そもそも生きていくこと自体が困難過ぎた時代のよりどころだったのでしょうから、”解脱”して、しんどい生から逃れたかった頃の思想。尤もお釈迦様自身がそうおっしゃったのか…個人的には疑問を持っていますし、お釈迦様は現世を生き抜く知恵を説いた哲学者だと感じていますので、仏教教団としては…現世ではなく、来世、解脱、往生がキーワードだったんじゃないかと…。

    前回、善光寺にお詣りしたのは2019年9月23日。丸7年ぶりの参拝となりました。

    この時は台風の雨風を搔い潜りながら、諏訪まで行き、戻りながら、天気の好転を見計らいながら行った記憶があります。この時もなかなか行けてなかったので、なんとか行く方向で考えていたとは思いますけど。

    今回は2026年9月21日。

    本当は武田信玄が善光寺を欲しがっていたとか、諏訪を攻略したのはやっぱり宗教的権威が欲しかったからだとか、そういう話も載せようと思っていましたが、毎度長くなり過ぎますので、今回はこの辺で。

  • 体重管理の威力

    9月8日の検査でほぼ異常値はなくなりました。

    医師も体重管理の重要性を実感したと仰っておりました。

    検査項目のうち特に着目してきたのはLDL、TG、UA、HbA1C、ALT、AST、γ⁻GTP、eGFRあたりです。

    このブログではどこかでお伝えしてきていると思いますが、食事改善はかなり前から取り組んでいたもののなかなか数字に表れる効果はなく、本年5月の抗うつ薬の退薬で一変。

    食事改善の方向性に間違いはなく、ただそれ以上に抗うつ薬による代謝低下、食欲異常亢進の比率が圧倒的だったと言えます。故に薬の影響がなくなった途端に体重はするすると落ち、10Kg弱減少しました。

    自分自身も驚いています。

    血液検査の結果を載せるかどうか…ですが、この歳になるとひとつやふたつ、良くない値はあるものですが、体重管理ひとつでかなりの効果があることを実証できました。

    ただ…若干の我慢はしました。

    今年の夏はアイスは一度も食べていません。

    ポテチも最後に食べたのはいつだったか?

    食事改善のコンセプトは習慣化です。都度都度気を付けるとか、今日はいいけど、明日からは…とか日によって判断の余地を入れないことです。

    基本は習慣。何を食べるか、どの栄養素を組み込むか。すべて習慣化。

    具体的には肉・魚・野菜。

    肉は豚か鶏。豚は鶏より元気が出ますが、脂が多め。鶏は脂は少ないですが、ビタミンが豚より少ない。だから、豚も鶏も大事。ただ、蛋白源と言意味では豆腐や豆類も。

    植物性の食材も野菜は遠慮なく、鍋を満たし、エリンギなどのキノコ類、こんにゃく…。

    そもそも何を作るかと言えば、鍋です。夏はせいろ。

    検査数値的には若干、尿酸値とLDLの下がり具合が弱いので、豆腐>鶏>豚、のように比率を変えてみて経過観察です。

    あとは食費…が問題ですかね…。

  • 引き際が肝心

    ではあるけれど、この御時世、よほど裕福な人でない限り働き続けなければならない。

    ただ、その社会との付き合い方は変わってきていい。

    戦う必要はない。

    争う必要はない。

    何か言って聞かせて糺してやる必要もない。

    仮令、それが自分の生き様に反しようとも、主張してまで、相手にわからせてまで、筋を押し通す必要もない。

    仮令、そやつが無法者だとして、聞き分けのないクズだとして、正しい道に導いてやる必要もない。

    それが仮に他者に害を及ぼすものとしても、俺自身が何とかしてやらなければと責任を感じる必要はない。

    別に痛い目に遭えばいいと突き放しているわけじゃない。俺が俺という人間の身の程を知っているだけで、そこにエネルギーを使う筋合いはないと思うだけ。

    きっとそういう人は適切な時に適切な人に導かれていくものと思いたい。そう、俺の出番ではないと思うだけのこと。

    ただ、そういった巡り合わせが必ずあるわけではないようで、自分より年上の人でも弁えというものを持ち合わせていない、改心する機会に恵まれなかったのか…、見るにつけこちらが恥ずかしくなる人間も少なくない。

    それはきっと私への戒めなんだろうと思い、誰かが遣わした先生なんだろう。

    いずれにしても、あれにもこれにも責任を負う必要はない。あれもこれもできる必要はない。

    ただ、何かひとつだけ守らなきゃならないモノ(またはコト)があるように思う。

  • 安宅住吉神社(加賀國)

    令和8年9月6日(日)

    ☆難関突破の御利益のあるお社であるということ。

    ☆勧進帳ゆかりの地であるということ。

    こちらのお社はもう何年もお詣りしているお社ではありますが、この数年、特にこの2~3年は何かとお邪魔することが増えました。

    難関突破の御利益があること、海の神様、ひいては航海の神様をお祀りする住吉神社であることと海岸に面していることは無関係ではありません。

    安宅住吉神社が鎮座する安宅町は小松市に属しており、その昔は高麗津(コマツ)と書いたとも言われており、日本海を表玄関とした港のひとつだったことが窺えます。

    若干脱線しますが、この頃は日本海側が表日本です。尤も太平洋側に国交を持つような国も貿易先も認識されていない時代なので、言わずもがなですが。

    そもそもの創建は782年だそうですので、日本という国(だったかどうか疑問はありますが)の海路と言えば、日本海か或いは瀬戸内海だったことでしょう。

    いつからこの”難関突破”を謳うようになったかはわかりませんが、長距離移動が困難な時代に生まれたものと思います。

    なぜ、こんなことを言うかと言えば、勧進帳の存在です。義経一行が兄・頼朝の追っ手から逃れる際の勧進帳の演目にもなった安宅関の突破劇です。

    この出来事が”難関突破”の謂れのように思っていたのですが、歴史から言って、このお社は奈良時代から存在しており(遷座は繰り返しているようですが、陸路海路の安全を祈願してきたことに変わりはないでしょう)、勧進帳事件はかなり最近の出来事です。

    つまり、後付けのエピソードのように思えます。更に歌舞伎の演目であれば十中八九江戸時代の創作です。

    しかも、こんな話があります。

    関所を抜けるために武蔵坊弁慶が主君義経を殴打したエピソードは安宅の関ではなく、富山県の小矢部川河口の「如意の渡り」の話として「義経記」には書かれています。

    その後、北上に山形県鶴岡市の鼠ヶ関(念珠関)も通っているため、まぁ簡単ではなかったでしょうね…。

    とにかく、安宅の関のエピソードは創作であることは通説なのでしょうけど、この関所の関守の冨樫泰家は実在の人物で、名君だったようで、義経・弁慶主従を情を以て見逃すのに適役だったのは確かなようです。

    かくいう私自身も何かと難関が続きながらもなんとか乗り越えてきているので、昨年夏前でしたか、本家住吉大社にお詣りし、前後して、安宅の方にも通うようになった次第です。

    この日はお祭だったようで…結局何のお祭だったのか調べておりませんが、境内に入った途端、参拝客は誰もいない状態になり、お詣りが終わるとともに観光バスの一団が押し寄せてまいりました。

    まったくタイミングがいいというか、神様に好かれているのか、いずれにしてもありがたいことです。

    更にお相手というべき人とまったく別の神社で引いたおみくじが同じ番号で同じ内容で大吉だとしたら、皆さんはどうお感じになりますか?

    ちなみにその番号は…この1年くらい何かにつけ目にするゾロ目です。

    あまりにも出来過ぎです。

  • いつでも休める職場

    いつでも好きな時に休める環境は羨ましいと思うかも知れないけれど、これは休みたい人がある日に集中すると、残った人はどんな人時であろうとやらなくてはならないことを意味する。

    休んだ人の分をどこからか補給されるのであればいいが。

    最低限の運営人時を確保するという概念がなければ、さきほどの残った人だけでなんとかやるしかなくなる。

    連休明けや休日にお客さんが集中する商売なら、営業が忙しいと当然予想される日に人時を投入するのがお客さん相手の仕事なら当然だろうけど、休みたい日に休めるとしたら、安定的な運営は難しくなる。

    かといって、休んだ分の補填に腐心していてはそれも大変な労力だ。

    もし、変更可能な休日希望なら一旦交渉なり調整があってもいい。

    お客様は神様だとは言わないが、やはりお客様あっての売上だということを考えるとお客様対応する運営側の人時確保は必要最低限のことだろう。

    確かに、まわりを気にせず、好きな日に好きなように休めるのは働く側にとっては好都合かもしれない。ライブのチケットでも海外旅行の飛行機のチケットでもとってしまえばいい。とは言ってもどうしても行きたいライブや旅行のチケットは取ってしまうしかないんだけど、経験上、それなりに社歴がないと取りづらかったりする…。と遠慮するのは今日無駄なことのようで、新入社員でもアイドルのライブに長期休むんだから、気にしちゃいけないのかも知れない。

    ただ、さすがに全員が休むとどうにもならないから、早く言ったもん勝ちになる。まったく公平も平等もない。下手したら、後で予定が決まったばかりに冠婚葬祭よりアイドルが優先される事態になる。

    ここまで言わなくても早いもん勝ち制度が無秩序な間違いであることは言うまでもない。秩序のある会社なら、優先順位はあって然りであろうし、早いか遅いかで休めるか休めないかが決まるという不平等を招くなら、100%欠員を埋める仕組みが必要だし、あるいは臨時休業も可としなくては遺恨も禍根も残すだろう。

    ここまで言って思うのはこういった環境では決断力がないのだろうと思う。あるいは制度を構築する知恵がない。会社が小さいとそこまで経費が掛けられないということは十分起こり得るのに、”休む”という部分だけを(摩擦を避けたいためか安易に)check freeにしてしまって、対策がないのだから始末が悪い。

    労働者としては休む権利も義務も両方あって両方主張したいし、それで支障がなければ何も文句はないのだけれど、ただし、”いつ”の部分は若干の幅があるから、会社としては最低限の運営人時が確保できないのであれば、調整に動くのは至極当然だと思う。

    支障というのは現場が円滑に動くことだと思う。

    お客さん相手の商売なら必要以上に待たせないことだろうし、日によってサービスの質が変わらないことだろうし、それが運営側の不手際で簡単に変動するとしたら、それはまったく好ましくない。

    だから、必要人時、最低人時という概念がどうしても必要なんだ。

  • 面倒見のいい職場

    初学者が戸惑っているときに周囲がタイミングよく気付き、救いの手を差し伸べること。

    この一点ですべてを物語っていると言えまいか。

    過剰なおせっかいではなく、過剰な管理でもなく。

    組織としては最終的には初心者であってもできるように仕立て、できることを認めて、任せていかなくてはならない。

    OJTという。

    業務がうまく回る、その一点のために必要なことは今回たまたま初学者、初心者目線で話したけれど、通常業務にしても同じことが言えまいか。

    トラブルが発生した時、イレギュラーが発生した時、いつもと違う判断に迫られたとき、相互の関係が円滑な方がいいに決まっている。

    こちらから相談しないと答えない、報告を挙げておかないと聞いてないと言われる、それら報連相・コミュニケーションは下から上に上げるものだと職位が上がれば上がるほどそっくり返っているような環境ではコミュニケーション自体が余計な負荷をはらんでしまう。

    尤も適切な報告連絡相談ができることも大切なスキルではあるけれど。

    だから、報連相は大事だけれど、周囲が気付く面倒見の良さは何倍も力になるし、結果的には業務効率も何倍にもなろう。

  • 染まることと染まらないこと。

    新鮮さを感じること、学びたいことがあるとき、学ぶことが楽しいとき、学ぶことが自分のためにもまわりのためにも世の中のためにもなるとき、そのままその環境に染まればいい。

    対して、真似してはいけないこと、悪い見本だと感じること、染まることが自分のためにならないと感じる場合はもちろん、その場の環境のためになるか否かはどうでもよく、世の中のためにもならないと感じるなら、それでもやむを得ずその環境に居なくてはならないのなら、染まってはいけない。

    たいてい、そういう場所は得するのが世の中じゃないことが多い(もちろん存在している以上、まったく世の中に貢献していないとは言わないけど)。感覚的には組織の中間層の誰かさんとかそんなところだね。

  • 読書を手放しで勧められないわけ

    読書は他人の経験を自分の経験にする可能性がある有意義で簡単な方法だと思う。

    それをやらない理由はほとんどないだろうと思う。

    ただ、そのほとんどと言うのは時々手放しでは喜べないこともあるからだ。

    読み手にも見識がいる。見識を身に着けるための読書だろうから、こは如何に、という話ではあるけれど、読み手に読む能力を求められる…と感じることもなくはない。

    ストーリー性のある小説などなら、読み手が読み間違いや勘違いをしていたら、辻褄が合わなくなり、自分で気付くことができるが、それ以外の場合、文字が読めればいいというわけではなく、読み込む力が必要となる。

    読み手に読む力がなく、読書を断念するなら致し方ないが、誤解したまま読み進め、間違った理解をしてしまうとこれは最悪だ。

    つまり、読み手は自分ではこういう理解をしたが、その理解で合っているだろうか?という振り返りというか自己確認が難しい。

    勘違いでも納得でいたならそれでもいいのかも知れないし、そこまで心配する必要もないのかも知れない。

    ただ、中には曲解しかしないタイプの人間もいて、そうなるともう読まない方がいいと思えてくる。

    人様の経験を自分のものにできるのが読書であろうに、素直に著者の考えを理解できず(決して共感する必要はない)、曲げて理解するのであれば、何も得られないし、昨日と今日とで何も変わらなかったというより毒にすらなるのではないかとさえ思う。

    例えば、資産形成のための投資の指南書があったとしよう。

    例えば、人生をよりよく生きるための哲学というか心のよりどころとなるようなエッセイがあったとしよう。

    例えば、健康に関連して食事や栄養を指南する書籍があったとしよう。

    こういった指南書は最初特に理解しづらいかも知れない。〇〇株を買えと具体的な戦法が書かれているわけではなく、”考え方”を示唆するタイプの指南書もあれば、具体的に〇〇株を買え、と書かれているものもあろうけど、それならそれで、その銘柄の話が現在も通用する話なのか、その買うべき根拠は今現在の市場にあった話なのか、よくよく精査しなくてはいけない。指南書の内容が難しいからといって、結局ろくに読まずに、買えと言われる銘柄を考えなしに買っても理屈がわかっていないと次にはつながらないし、次に買うときにまた誰かに訊かないと選べない。一定の理屈は必要なのに、難しいからといって放棄してしまうと…かといって株の配当のことが魅力的で無知のまま、どこかで聞きかじったことを頼りに投資なるものを始めたとしたら…、株などの投資はギャンブルではないから、ある程度の基本的な知識、大局をつかめばギャンブルのように大損したりせずに安全に始められるだろうけど、誰かの個人的な意見を聞きかじっただけで始めることほど危ないことはない。

    人は生きていくにはときに迷いや行き詰まりを感じることがあるけれど、他人様の人生論は時に役に立ち、困難を突破するきっかけになる可能性はあるけれど、ひとりとして同じ人生を歩むことはないのだから、やはり大局や本質をつかんで自分の状況に応用するのが正しいのだろうけど、エッセイに書かれているまま転用することはできない。

    健康に関することは特に厄介だ。根拠のある定説だけでなく、宗教染みた偏った説にのめり込むように信じてしまっている人が少なくない。医学や薬学ならまだしも、栄養学は学問と一般人にとっての実践学にまで落とし込まれていない。浸透しているとは言えないから、いろんな人がいろんなことを言う。薬剤師は栄養成分も含めたすべての化学物質をひと通り履修はしているけれど、調理法とリンクしていない。もちろんこの栄養成分は熱を加えるとほとんどが壊れてしまうとか知っていることもあるけど、断片的だと思うし、学部時代の授業もそれほど時間が割かれなかった記憶がある。では現在、何で正しい知識を得るのだろう。料理本はおいしそうには見えるけど、栄養学の根拠は薄いだろうし、医師にコレステロールを控えましょうと言われても具体的にどうしたらいいのかすぐわかる人はいないのではないだろうか(医師もよくそれでわかるはずのないことを言うよなとは思うけど)。少なくともおいしそうな写真が載っている料理本の著者は自称料理家なのか、管理栄養士なのか、栄養士なのか、調理師なのか、栄養学者なのか、料理好きのタレントなのか…それぞれ持っている知識は違うと思わなければならない。

  • 退薬後3ヶ月の体重

    Screenshot

    一年の平均体重で見るとBMI25.5で基準で見ると肥満カテゴリーではあるけど、直近の平均体重73.6㎏を使うと23.76であり、標準の範囲内に収まった。

    ただ、このBMIと健康寿命とは若干ズレがあるようで、BMI厳守よりもう少し小太りの方が健康寿命は長いとされているので、今の体重は下限値くらいに認識するのがいいのかも知れない。

    BMIを肥満ギリギリの25.0(未満)を狙うなら、体重は77.44㎏。

    体重を減らすのは退薬したからで、食事内容は変わっていないので、当初から思案してきた食事内容にそれほど間違いはなかったのではないかと思う。ただ、正直、勢いよく73㎏台まで落ちたので、これ以上落ちないようにというところと、もう少し微調整的に上げておきたい気持ちはある。75~76㎏というところか。

    もちろん、甘いものを食べるとか油物をということではなく、少し朝昼に食事量を振ることを考えてみたい。一人暮らしの自炊なので、夕食を自前で作るのが精いっぱいな面があるが、そこにメスを入れるのが次の段階ということになろう。

  • レベル(程度)差ストレスうつ

    この件はどのくらい共感を得られるのか、むしろ反感を呼ぶような気もしないでもないが、書いてみる。

    結論を言えば、自分が認識していることと環境(ほとんどがその環境を作っている人間たち)とのギャップにストレスを感じる、これが原因になることがある、という話。

    その環境とは、上司や部下、会社からどう思われているかは知らないけど、言動に問題がある人、相手によって態度が違う人、裏でこそこそやっている腹黒い人、こいつ、アホか?!と言いたくなる人は、上司だろうと同僚だろうと部下だろうといるし、時に会社という組織やシステムに対して問題を感じたりして、それらと自分の認識とのズレがストレスの原因であり、それがうつにつながりかねない。

    会社に対しては…法律や会社規模によって、できることできないことがあって、客観的にはやむを得ないことであっても整備された大会社から小さい会社に出向や転職で来た人には、あっちでできてこっちでできない、がストレスになることもあろう。ただ、やはり、大企業(上場企業)にはできても中小企業(非上場企業)ではできないことがあるのは確かだろう。

    うつの原因が「ストレス」なのはそれほど反論はないだろうから、これらのギャップを感じることによるストレスは十分、うつの原因として成立する。

    うつ人口がどのくらいになったか具体的な数字はわからないが、”社会が悪い”といつまで有耶無耶にしているんだろう。

    どこの世界にも程度の悪いヤツというのはいる。悪気はないとかで許されているのも不思議だが、物理的でも言葉でも暴力は糺すべきではないだろうか。

    不思議なもので社会的な地位や会社での職位とはあんまり関係がないように思う。

    ご出世なさる人とその人の人間性はまず関係ない。

    人品ともに優れた人だけが出世するということはまずない。

    出世というのは仕事ができるとか、ちゃんと立ち居振る舞いができているとか、そんなことじゃなくて、会社や上司が扱いやすいかどうかという部分もおおいにある。会社が機能するうえで重要な能力でもあるのだから、人間性がどうとか言っても仕方ないい。

    だから、上下左右にストレスを放つ人間というのは存在して然り。

    となると日常的なことになる。

    となると日常的なストレスが環境に備わっているということになる。何か自分がミスをして叱られなくても、だ。

    となると日常的に回避することを覚えなくてはならない。

    そこが難しい。

    例えば、日常的に嫌味を口癖のように言う人が同僚にいるとしよう。

    例えば、普通に指導なり、伝達なり、要望を伝えれば済むことに、なぜか非難めいた言葉遣いになる人が毎日会う同僚の中にいるとしよう。

    例えば、午前中は低血圧なのかは知らないが、朝会った時点で最初からイライラしていて、言葉を選ばずに強い言葉で接してくる同僚がいるとしよう。あるいはテンションが異常に低く朝の挨拶をしなくてもいいと思っているか、聞こえるかどうかくらいの声で顔を見ずに挨拶をする同僚がいるとしよう。

    「〇〇して頂けるとありがたいんですが」と言えば済むことなのに、「なんで〇〇できないんですか?」というなぜか非難めいた言い回しになる。ついでに「やらなくてもいいとでも思っているんですか?」と嫌味のおまけがついてくる。

    OJTがある職場ならいざ知らず、ない場合はたいてい〇〇をトータルで教えていないとか、どういうときに〇〇をやるとか、何か習慣的に〇〇をやることになっているという職場ルールを教えていないとか、他の記事にも書いたが、教える側の責任を果たしていないケースにおいて、教える側は”やって当たり前”の習慣と化しているため、”やらないのはおかしい”と心の中で非難モードに固定されてしまっており、そのまま口に出ている。言われた方は鳩に豆鉄砲である。

    いずれのパターンもここは職場(仕事をする場)なのだ、社会の一部でお給料が発生しているのだ、そんな状況のわかっていないこどもなのだと思うしかない。いちいちこちらまで反応して(ストレスを感じて)しまっては自分ばかりがストレスを感じて損である(こどもの方も何か不満があってそのような態度なのかもしれないが、理不尽なことで怒っているだけで、ひとりで怒っているにすぎず、それによってストレスを感じても知ったことではない)。かといって、傾向と対策をして論破したところで、そもそも長い間上記のような態度でも誰も注意してこなかったという環境そのものの要因もあるから、反論した分だけ自分がアウェー(孤立)になるだけだろう。

    決して自分は間違っていないと奮い立たせようとか、自分を正当化することで、ストレスを感じないように心の整理をしようというのも悪くはないが、エネルギーがいる思考方法ではないだろうか。もちろんそういった方法でもストレスを受け流せるならそれでもいいと思うが。

    基本姿勢は関わらない、ということだろうと思う。

    社会で子供のふるまいをする相手に正面から取り合う必要はないだろうし、思いつかない。

    こういったレベル(程度)差が原因でストレスを感じるわけだけれど、逆に「子供の相手はしていられない」と程度差を逆手に心の整理してみる。

    大人になれよ、という話なのだが、先ほども述べたように、ある一定期間それでやってきてしまった人に改善を求めるのは難しいことかも知れない。然るべき立場の人が注意を与えればもしかしたら違うかも知れない。あるいは信頼関係のある同僚が心を割って話す機会を持つこともこれまでの時代にはあったかも知れない。でも、今時ご指導すべき然るべき立場の人も同僚として信頼関係を作れている人も、人間教育のような危ない橋は避けたいのが正直なところではあるまいか。

    いずれにせよ、毎日のことになる可能性があるので、それだけにいちいち取り合わず、受け流す、あるいはとらえ方のパターンを決めて、心の整理をする…そういった工夫が必要なのではないか。