カテゴリー: 信濃國

長野県の神社・歴史・民俗。

  • 泥宮(信濃國小県郡)

    当地は単に泥という物質に神性を求めたのではなく、命を育む泥の生命力に感謝したのだと思います。

    泥宮と称したのはごく最近(1790年以降)のことのようだけど、生島足島神社の創建と関連がある時点で、日本列島の始まりとともに在ったというべきなのでしょう。

    生島足島神社の旧跡だったか、のちに旧跡を称したか、そこは何とも言えないけれど、”よくわかっている”と思う。

    この地(地域と言ってもいいかも知れない)には信仰の形態に一貫性がある。日本列島の地面を御神体とする生島足島神社もこの泥宮も別所の塩野神社も日本の信仰形態の極めて原点に近いところにある。社がある時点で原点とは言いづらいのでは?という向きもあろうけど、試しに社を取っ払っても成り立つ信仰があるじゃないですか。

    人格神以前の形態と言っていい。

    この上田~別所の辺りにはより古層の匂いがする。

  • 住吉神社(信濃國安曇郡)

    創建は大同年間(806~810年)に、かの坂上田村麻呂が勧請したと伝わるお社です。

    山の中に海の神様はこの安曇野においてはむしろ定番ですから、ここでは特に違和感はないとしましょう。

    むしろ、坂上田村麻呂の東征に興味が湧きます。しかし、パッと軽く検索してみても征討の経路は出て来ないようです。陸奥國での出来事はそれなりに記録があるようなのですが。

    当地、安曇野関連でいうと八面大王を征伐した話が残っていますが、どうやら伝承の域は出ないようです。何かしらの勢力いて坂上田村麻呂と対抗したとしてもなんら不思議ではありませんが、田村麻呂が当地を通って北上したのか、八面大王あるいは象徴するような勢力がいたのか、実際田村麻呂と摩擦があったのか、貼面大王は統治者だったのか、山賊のような位置付けだったのか、どれもはっきりしないようです。

    わかっているのは在地勢力仁科氏の『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に比較的詳しく載っているようで、何かしらの勢力があったのかも知れません。ちょうど、仁科氏が勢力を張った仁科神明宮と八面大王がいたとされる有明山神社付近は平地を挟んで東西の関係です。『仁科濫觴記』によると有明山に巣食う鬼賊をを討ったのは田村守宮という人のようで、だからと言って田村麻呂と間違えるか?と思うんですよね。

    ”意図的に”ビッグネームの名を借りた。

    そんなところじゃないでしょうか。

    まぁ、そんな仮冒があったとしてもこの住吉神社はそれなりの規模があり、当時もこの安曇野の地で勢いのある存在だったのではないでしょうか。そんな感じはします。

    既に安曇氏が奉斎する穂高神社があり、別系統ながら海にまつわる神様を勧請したのには何も意図がなかったはずがありません。

    少なくともこの山国で安曇氏と肩を並べるだけの価値が”住吉神”にあったはずです。もちろん、格だけでいえば諏訪系でも構わないような気もしますが、海神である必要性を感じますね。

    だとすると田村麻呂がなぜ?と思ってしまいます。田村麻呂は東漢氏(やまとのあやうじ)出身です。大陸にルーツのある人なのですが、海神族のイメージはないですよね。もちろん、田村麻呂のイメージに引きずられすぎて”武官のお家柄”と決めつけるのは間違いの元のような気はしますが、この時代海外勢は武人か文官として立身を狙ったのではないでしょうか。安曇氏ですら外洋に出ることより、陸地に生業を求めていったのですから、坂上氏の素性を知らないだけかも知れません。

    ただ、田村麻呂がこの安曇野の地にやってきたかどうかは何も証拠はないようです。八面大王を征伐したのも別人のようです。

    現段階では”伝承”の域を出ないのは確かです。

  • 生島足島神社(信濃國小県郡)

    諏訪の神様が諏訪に入る前にお立ち寄りになって、なにやらやりとりがあったという伝承がありますから、その前からこの地におわした神様ということになります。

    そりゃ、ご神体がこの日本の地面なのですから、日本列島ができた時から、いらっしゃったわけです。

    ふと日本書紀の序盤に「一書に曰く…」に泥の神様がいたな…と調べてみますと「可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)」が登場します。この”ひこぢ”は泥の古語だそうです。だからといって泥の神様かどうかはわかりませんが、原初的な神様には違いなく、であれば、泥の神様でもまったく不思議はなく、生を育む大地を祀っているあたり、神道の起源っぽくていいじゃないですか。

    ただ、日本列島をご神体としてお祀りすると、日本中で日本人が踏みつけにしているわけで…。拝殿の前だけ撮影禁止になっていましたが、その程度でええんか?と恐縮したくなる…。

    世界中に神様はたくさんいらっしゃいますが、中国のように「天と地」という概念的な感じ方ではなく、植物を育て、その植物を食べて生き物が命をつなぎ、すべての生を育む大地という概念はほかにも例はあるのでしょうか。

    とまぁ、ChatGTPに訊いてみたら意外と世界にもいらっしゃるようなので、機会があれば調べてみてください。

    ただ、少し興味深いのは「可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)」も土そのものというより、生命力を神格化しているんですよね。そういうところに古代人の想像力の深さを感じます。生に対して敏感な感性。古代人の感性は尊すぎです。

    さて、こちらの生島足島神社は科野国造の本拠地だったそうで、そうなるとちょっと話が変わってきます。

    神武天皇―神八井耳命―?―武五百建命(初代科野国造)

    建御名方神と生島神・足島神との交流時代とはまったく別物で、科野国造家はずっとあとになって当地に入ってきたんだと思うのですが、入ってきた後も御祭神を大和風にはせず、元々の神様を客神に書き換えなかったのは賢明です。

    ”入ってきた”と書きましたが、まさか「こんにちは」と軽い感じでやってきたわけではないでしょう。国造は在地の支配者が大和に取り込まれて”国造”に任命されたものと思っていましたが、もし、上記の系図のように大和系の人たちの派遣であるなら、「こんにちは」ではなかったでしょう。

    そもそも、神社の御祭神書き換えに見るああいうやり方って、ちょっとおかしいと思うんですよね。何か平和的に在地の神様を取り込んだ(地域を支配した)みたいな顔をしていますけど、「どけっ」て弾いたに過ぎない。

    科野国造家に良識があったかどうかはわかりませんが、余計な恨みを買わずに済んだはずです。

    こういう見方をすると、また違った見え方がするかも知れません。層が変わっているのに御祭神がすり替わっていないケースもあれば、重層とともに古い神様の扱いが変わった形跡がある場合。単純に前者は外来者が浸透していった印象を受けるし、後者は強硬に立場を奪ったニオイがします。いずれも落としどころを模索した可能性はありそうですが、背景となるプロセスは違いそう。

    在地の人間(支配を受ける側)としても柔軟に受け入れた場合と何かしらの抵抗をした場合と違いがあったかも知れません。

    稲作の受け入れも波状的に普及したのではなく、ムラによって、やるorやらない、があったようです。最終的には備蓄できる米に惹かれていったのかも知れませんが、その前から、採集生活一辺倒ではなく、”栽培”つまり、種や苗から植物を育てて、食料を確保するくらいのことはやっていたんですから、差し迫って稲作を導入する理由はなかったはずです。

    そう考えると大和系の支配というのはそれほど強大ではなく、むしろか細く、武力より交渉や浸透に頼った部分が大きかったんじゃないですかね。もしかすると日本武尊伝承はあまりにもシンボリックすぎて、実在性を疑われるのも無理がないかも知れない。

    そういう意味では敵対的なM&Aではなく、友好的なM&Aのような印象がありますけど、やはり、強硬的にやった地域もあれば、そうでもない地域もあって、というのが現実のような気がします。

    客神と言えば、氷川神社を思い出しますが、出雲族の兄多毛比命が武蔵国造として奉崇した(出典:武蔵一宮 氷川神社HP)と言いますから出雲神を祀るのは通りですが、客神たる門客人神社の御祭神が稲田姫命のお父さんお母さんですから、ちょっと支配。被支配の関係ではなさそうです。

    ちなみに手長神社・足長神社は諏訪にあります。出雲神話に出てくる毎年娘をさらいに来る龍は越國から来ていることになっており、素戔嗚尊が龍を退治する舞台は勝手に出雲だと思い込んでいます。龍を倒した見返りにもらい受けた稲田姫命もそのご両親もなんとなく出雲人だと思い込んでいます。一応、出雲市の須佐神社の神主家・須佐氏は脚摩乳命・手摩乳命の後裔としているので、やっぱり出雲人で収まりはいいのですが、諏訪や氷川神社の門客人神社は若干違和感を覚えます。

    あれこれ考え始めるとキリがないのですが、いくらかパターンはあるとしても、一筋縄ではいかないようです…。

  • 住吉大社(摂津國)

    2025年4月16日7:00

    いろいろとお力をお貸し頂きたくて、住吉大社のみの一点集中遠征でした。1年ほど前のこと。このあと、いろんなことが変わり始めたのは確かです。もちろん、自分からアクションを起こした部分も多々あります。お預かりしたお力をお返しに行かねば…。

    2019年5月22日

    最初にお詣りしたのも似たような季節だったんですね。もう7年が経っていました。本格的に遠征を始めた頃の最初期の遠征地。

    なので、ひとり遠征部の原点のような場所でもあります。

    さて、住吉大社は新羅征伐の記念碑的に創建されたお社で、それを任されたのが津守氏の祖・田蓑宿禰であり、いわゆる神官が神官家の祖先神を祀るというパターンではありません。住吉大社は住吉三神(と神功皇后)を祀り、津守氏の祖先神は天火明命…? あれ?そうだっけ? 

    住吉大社境内の大海神社は津守氏の祖先神をお祀りしていると記憶していましたが、天火明命だった記憶がない…。失礼ながら、そんなビッグネームをお祀りしていた印象がない。改めて、住吉大社のHPを見ますと、現在の御祭神は豊玉彦と豊玉姫のようです。こちらもビッグネームですが。でも、延喜式では「津守安人神」となっているらしいので、こちらの方がリアルな祖先神って感じがします。

    同じく、住吉大社境内の志賀神社には神社名があらわすように海神がお祀りされています。安曇氏の本拠地が志賀海神社ですから、普通に綿津見三神がお祀りされています。

    綿津見三神(綿津見豊玉彦)→宇都志日金拆命(穂高見命)→安曇氏…系譜で繋がるように志賀海神社と安曇氏、穂高神社と安曇野。神社と地域、氏族が無理なく繋がっている感じがします。

    一方、津守氏は綿津見神も天火明命と両方のつながりを匂わせつつ、繋がらないと思わせるニオイも出しています。

    綿津見系の人たちとも天火明系の人たちとも繋がっておきたかった…そんな雰囲気が見え隠れします。

    あまり仮冒という言い方はしたくないのですが、海に生きる人たち同士で同族意識とまでいかなくても仲間意識はあったでしょう?

    実際、津守氏が津守氏を称したのが遣唐使の頃のようなので、安曇氏、尾張氏と比べるとだいぶ新しい氏族です。一方で、ご先祖様は住吉大社創建の誉れにあずかる一族として大きく出世した歴史があるので、若干箔をつけたい気持ちが働いた可能性も…。

    でも、堂々と「津守安人神」をお祀りしたほうが、誇らしくていいと思うのですが、いかがでしょう。

  • 皆神山(信濃國)

    どちらかというと、都市伝説的な部分に興味があって、お邪魔しました。

    熊野出速雄神社

    勘違いしていました。熊野三山の熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野速玉大社から勧請されたものと思っていました。

    「速」という字に釣られていました。

    速玉男命は伊弉諾命のこと、出速雄命はと言えば、諏訪神・建御名方神の息子さん。全く別人で、つまり、この社の始まりは諏訪系。

    いや、伊弉諾命と出速雄命が実在したとすれば、伊弉諾命の方が時代は古いんですけど、信仰としては諏訪系が先でしょうね。熊野修験道のピーク時期を考えても。

    だから、先に諏訪、のちに熊野修験道が絡んで熊野神を祀り、今の形の原型になったということでしょう。

    なので、ホームページにもあるように奈良時代に出速雄神社(創建718年)として始まり、中世に熊野修験道がここに拠点を置き、信濃國の山伏の支配権を持つまでに成長した歴史と整合性が取れます。

    その頃に熊野神を祀るようになり、名前も熊野出速雄神社に改まったのでしょう。

    もしかすると「名前、似てね?」とかそんな会話もあったかもね。

    ずっと熊野系と思い込んでいましたが、やはり諏訪勢力がベースにあるようです。更にもっと古い層はわかりませんが、山の形と言い、信仰の対象だったことは十分考えられる場所だと思います。

    長野市の東南端の山際にこの皆神山だけ縁取りのように平地があって、プリンのようになっています。

    冒頭書きましたように、世界最古の人工ピラミッド説、UFO基地説、山自体が宇宙船説、松代群発地震とUFOの関連等々、スピリチュアル界隈では白飯何杯の聖地なんでしょうけど、行けば普通の山奥の修験道のにおいのする神社、それだけかな。

    山奥…といっても本家の熊野に比べると全然かわいいものですけどね。

    ただ、長居はしたくない感じがして、早々に退去して参りました。明らかに不気味。昼日中にねぇ…。

    もちろん、その正体はわかりませんよ。見えませんもん。そもそも目に見えない存在なのか、何か野生の存在なのか…。

    ただ、気を付けておかなくてはいけないのは、修験道の最後の修行、「入定」について、あまり語られることがないということ。つまり、本当のところを知られていないのではないかということ。

    東北の即身仏のことが話題に上がることがあっても、いかなる修行だったかを知る機会はあまりありません。

    誤解を恐れず言えば…すべてではないようですが…生き埋めの修行です。言葉の意味的には深い瞑想状態(禅定)のまま入滅する(亡くなる)ことのようですが、現実には石窟や洞窟で最後の行として行われるもののようです。

    弘法大師(空海)が今でも高野山で深い瞑想を続けていて、朝に夕に僧侶が食事を届けに行くという話題をテレビでも何度か見たことがあるけれど、もともとは密教の修行形態のひとつのようです。ここでは空海はいまだ生きている、ということになっています。

    奇しくも高野山も熊野も目と鼻の先。

    修行の最終形態として、行の究極の形として、断食と瞑想を続け、そのまま亡くなること…AIには否定されたけど、精神的には瞑想状態が続いていて、同時に肉体を手放しているのだから、生きながらにして肉体を捨てる…と言っていいのではないか…。

    衆生救済のために。

    富山県高岡市の古城公園の付近に定塚町という地名がある。訳があって調べたことがあるのだけれど、由来は熊野修験行者が”入定”した”塚”から来ているのだそう。これは高岡市のHPか何かに書いてあったから、それなりに根拠のある由来だと思う。事実、近所に入定塚遺跡もある模様。

    実はこの件を調べていて、”入定”というものを知ったんだったか、五来重氏の「日本人の死生観」か何かを読んだ前後だったような気もする。

    いずれにせよ、壮絶な修行であることは間違いない。

  • 洩矢神社(信濃國)

    諏訪信仰を語る上で、どうしても外せないのがここ。詳しいお話はいずれするとして、建御名方神以前は洩矢一族が奉斎する神様だったはずです。

    建御名方神も敗軍の将であり、なぜかこの諏訪の地を選んで逼塞することになります。一時は洩矢一族と交戦状態になったはずですが、大和式?の取り込み策で洩矢一族も諏訪の祭祀に取り込んでいきます。

    この洩矢神社は諏訪の神に上書きされずに我が神として祀り続けた場所だったのではないでしょうか。

    諏訪という地に来たら来た分だけ、いろんな層を見付けることになり、神長官として取り込まれた洩矢一族は無視できない存在です。

    故にいつかお訪ねしようと気にかかっておりましたが、注連縄の紙垂を見てわかるようにどうも歓迎されていないような気がしてならない。暴風といっていい。もちろん地形的には山の斜面であり、諏訪湖に開ける街道の近くですから、隘路を通る風が圧縮されて強くなることはあるでしょう。

    しかし、鳥居をくぐる前は何もなかった。くぐって拝殿に近づけば近づくほど風が強くなる。

    この日は前日から5月としてかなり暑い日で何か気圧差が生まれたのかも知れないけれど、タイミングが絶妙すぎる。風以外の圧、威圧といっていい恐怖感。

    これは速やかに退散するに如かず。

    歴史資料としては重要な場所ですが、今後は遠慮しましょうか…。

  • 三嶽神社(信濃國)

    本殿に詣る。

    御祭神は高皇産霊尊、少彦名命、猿田彦命。

    縄文時代の遺物が発掘されるところを見ると当然何かしらの原始祭祀の場であった可能性がある。

    本殿に参拝した後、向かって右の天満天神社にも手を合わせる。言わずと知れた菅原道真公を祀る。

    その時、背後に人の気配がした。

    それまで誰もいなかったし、社務所も無人に見えたけど、疑わずにほかの参拝者が来たんだろうくらいにしか思わなかった。

    私はそれでもゆっくり手を合わせる主義で、慌てて参拝を切り上げるようなことはしなかった。

    でも、その時木の枝が、太めの木の枝がへし折れるような音がその背後からした。距離にして2mほどか。参拝者が順番を待つような距離。

    さすがに振り返った時、誰もいなかった。

    そもそもそれまで足音もなかった。

    気配だけが背後で待ち、枝の折れる大きな音とともに気配も消えた。

    妙なことが起きた時でも不思議と恐怖を感じない時もあれば、気のせいかもと思えるほど何も感じないこともある。

    今回は違った。

    確実にいた。

    目には見えなかったけれど、確実に。

    これこそ気のせいかも知れないけれど、去り際の後姿を見たような気にすらなった。

    そのあとは何もなかった。

    やっぱり無人の神社だった。

    気配とは何だろうか。

    逆に人の気配に気付かなくて驚くことがある。それは「びっくりさせんなよ」と笑い話で終わる。

    感じる時と感じない時がある。

    自分の側のセンサーに問題がありそうでもあり、発信する側にも訳がありそう。

    忍者は気配を消すことを得意としただろう?

    カリスマは気を発することで人を虜にしただろ?

    背後にいた気配は存在を隠さなかった、上に大きな音まで発して強調した。

    迷惑だったか、参拝したことが。

    先だって”呼ばれないといけない神社なんてない”と否定しておいたが、拒否されているかもなと思うときはある。どこかで書いたかも知れないけれど、島根県の物部神社は典型だった。無風の見たことないようなどしゃ降りだった。夕方だったし、今時日本でも東南アジア張りのスコールは珍しくないし、ちゃんとゲリラ豪雨と専用の名前まで生まれたから、日常茶飯事だと言えばそれまで。

    いつだったか、九州地方の雨雲の厚さが東南アジアの雨季の雲と同レベル、なんて記事を読んだことがあった。

    ちなみに翌朝の再度物部神社参拝は気持ちのいいくらいの晴天の朝だった。だから、神様に試されたんだろうと思うことにしている。

    三嶽神社も試されたか、神様のいたずらか、縄文人の霊かも知れない。

    人間の脳は例えばひとりぼっちの森の中にいると不安が募り、周囲のなんでもない音を集音して、ときに人間の言葉のように変換してしまうことがあるようだ。脳の誤作動のような説明もあるかも知れないけれど、もう少し複雑な挙動のような気がする。何か意味のある言葉、単語に変換しようとしているのではあるまいか。不安、怖れや畏れが不安を搔き消すためのつもりがさらにそれを助長する音声にしてしまう。

    私は幽霊とかそういった非科学的と言われるものを決して全否定はしないし、あるかもなぁと思うことは時々ある。

    でも、必ず科学的に説明できないか試みる。そして、ほぼ客観的に科学的に説明がつく。今回も気配というものは説明しづらいけれど、ひとりだという不安が何かを作り出した可能性は完全に否定できない。人間の神経や脳みそが100%解明されていない以上。そして、朝日の当たり始める午前中の森で温度や湿度の関係で枝が弾けることはこれもすべてを霊的な現象にくくることも無理があるし、ただ、温度云々というほど寒い朝ではなく、前日からご当地としてはかなり暑い日が続いていた…。川や滝が流れる場所ではないから、乾いた感じ。森は日の向きで陰り、日の向きで太陽の光を浴びるから、それなりに環境の変化はあるのかも知れないけれど。

    少なくとも直感は奇妙だと言っている。

    何故ならこの次にお邪魔したのが洩矢神社ですから。神様のほうで好き嫌いがありそう…。

  • 穂高神社(信濃國安曇郡)

    なぜ、安曇氏が海のない山に囲まれたこの地に根を下ろしたのか。

    外洋にまで船が出せる当時のハイテク技術集団が白村江の海戦以降、この地に移住した、おおざっぱに言えばそんなイメージでいいかと思うのですが、いろいろ何故?が多い。

    一番は失われた航海技術でしょうか。どうもこの後、日本の航海技術は消滅したようです。他国へ戦船(いくさぶね)を出した国(そもそも国という体だったのか…)がその後、遣唐使・遣隋使は命がけの航海となり、瀬戸内海航路もだいぶ後世になって開かれた…。もっとも瀬戸内海は外洋と違って浅瀬も岩礁もあって、航海技術としては別物なのかもしれませんが。いずれにしてもロストテクノロジーの観があります。

    いずれにせよ、航海が得意とされた一族が海のない山国に移り住んだ不思議は消えません。

    白村江の大敗。これが分岐点だったのは確かなんでしょうけど。技術者を喪失した。責任を追及された。殺し合いのために船を出すのがいやになった。船を作り直すのに木材が豊富な山国に行ったら、意外と居心地がよかった。需要がなくなった。遣隋使などはローコストで朝廷にすり寄るやつらが出てきた。

    あ、全部妄想ですけど、今でいうAIとか半導体技術を持った一族がその技術を捨てる理由は軽くはない…。

    やめたかった。

    やめるしかなかった。

    やめさせられた。

    やめてみたかった。

    現代のサラリーマンだな。

    いや、現代のサラリーマン視点で見ちゃいけないのか、やっぱり人間社会だから似たようなこと、気分が起こるのか…。

    政治的な従属関係があった…と思い込んでいたけど、それすら正しかったかわからない。請われて船団を組織しただけだとすると政府に従わないという選択も可能だったのかも。でも、白村江は協力した。でも、壊滅させられた。次はないよ、って。次も何も働き手の男子を多く失った可能性もある。技術的な問題とは別に担い手がいなければ、収入源を変えるのは普通かも知れない。東へ行けば行くほど、誰の土地でもない(?)土地もあるだろうし。少なくとも中央政権の手の及ばない領域はあって、自分たちの力だけで開拓しようが、現地の人と協力して発展させようが方法はあっただろうね。

    今はそこに穂高神社があるだけ。祭祀の中に海の民であることを示唆する内容はあるようなので、いつか見てみたい。それに安曇氏以前にこのあたりには縄文時代からの文化があったわけですから、また何層も積み重なっているんでしょう。

  • 須々岐水神社(信濃國筑摩郡)

    ご当地開拓は卦婁真老(けるのまおい)を中心とした高麗系のひとたちだったようです。

    のちに須々岐氏を賜姓され、平たく言えば帰化したということなんだと思うのですが、当然、その前から当地の開拓に尽力されていたんだとは思います。

    興味深いのはこの朝の時間帯にちゃんと朝日を拝む形の配置になっていること。

    聞くところによれば、寺院建築が中国から輸入された頃から、大きめの建物は南向きになったそうで。いわゆる「指南」の語源にも通ずる、南を意識した文化が定着していったようなのですが、それは中国大陸あたりの気分で、日本列島では朝日を拝む形が原形だと思います。

    うろ覚えですが、「寺」という文字もそもそも仏教の建物という意味ではなく、大きな建物くらいの意味だったような…。

    きちんとした神社建築がない、小規模な古代祭祀の痕跡を感じさせる場所ほど、実はお日様をお詣りする形になっているところが時々あります。

    もっとも時代とともに建て替わったりして、向きが変わることも全然ありそうですが。

    ふと…壱岐の月読神社の向きは…気になりますね(笑)

    GoogleMapを見ると東南方向に拝む形…ちょっと考えすぎだったかも知れません💦

    どんな文化であれ、どんな民族であれ、太陽を拝まない信仰ってないと思うんですよね。程度の差はあっても。

    話はおひさまの話中心になってしまいましたが、須々岐水神社の神様は渡来の神様か薄川の神様か…。どっちもありそうだけど、中世の諏訪系の影響を受ける直前は水の神様かな。現実的な生活を守るための。更にその前となると、自分たちのルーツを示すような大陸の神様というのが自然だと思うんですけどね。

    ちょっとこの辺は想像です。ありそうな想像をしてみたまで(笑)

    この時見てこられなかったんですけど、針塚古墳というのが松本市内にあって、積石塚なんですって。帰ってから知りました。積石ってなんとなくイメージは朝鮮タイプな感じがするんですよね。須々岐氏が高麗出自と言っているんですから、このあたりに勢力があったって不思議ではありません。

    お社の写真はやはり神様降臨っぽい感じを頑張ってみました。朝の時間はこういう画が撮れます。