カテゴリー: ビジネスの話

ビジネスパーソンの話。

  • 10年

    ひとつの仕事を10年やって初めて、その仕事の本質がわかる、そう言われてきた。

    10年選手という言葉がある。これも裏を返せば、10年やって初めて隅々まで実務を熟知した頼られる存在となる、という意味を含んでいるのではないか。

    10年とはそんな意味を含んでいるのではあるまいか。

    10年という期間のとらえ方も年齢とともに変わったと思う。

    20代くらいまでは、10年とは膨大な時間のように感じられたし、もう少し年齢を減るとひとつの重量感のある時間単位に思えるようになった。50代となった今はうかうかしてられないスピードを認識する単位になった。

    10年もあると思うな…。

    時間の感覚が年齢とともに変わる原理についてはまたどこかで述べたいと思う。割と科学的に証明…までいかなくても仮説はある。

    さて、この時間感覚の話は往々にして、仕事との付き合い方の話だったりするけど、一方3日3ヶ月3年という言葉もある。

    若い人が仕事を辞めたくなる時期を喩えた言葉だけど、あまり数字に深い意味はないと思う。

    3日:仕事のイロハを知る前なのに、合わないと思って、入ったばかりだけど、もう辞めたくなる。

    3ヶ月:やっぱり3日目に感じた自分には合ってないという気持ちは間違いなかったと反芻。何事も初めてのこと、慣れないことを習得しようとすれば多少の努力もいるし、挫けることもある。でも、普通に考えたら、同じ人間がやる仕事にやってやれないことなんてないし、何の苦労もなく何事も習得できるならそれはごく一部の天才だけだろうから、自分はごく普通の凡人と認めるべきだろう。

    3年:3年もすれば確かに基本的な仕事やある程度の応用、トラブルにも対応できるくらいにはなっているだろうけど、先輩や後輩と仕事の技術を共有し、これからは後輩というより部下と言うべき存在も増えるし、そうなると仕事の仕方、仲間との接し方も変わってくるから、むしろやっとスタートラインに立ったところなのかも知れない。

    ここまで書いて、3年で基本的な業務習得をして、社会人、企業人としてスタートラインに立てたとして、それって結構スムーズに進んだ人なんじゃないかと思える。

    3年くらいだと何か役職を頂いてもにわか上司だろうし、自分の部下を育てるとか、一人前にするとか、ひと様に紹介することもままならないかも知れない。

    そう思うと3年は全然だなと思う。それはそんな頃の自分を振り返っても恥ずかしくなるような、そんなレベルだ。

    一人前だなんて程遠い。

    でも、そんなゆっくりできない世の中でもあった。

    dog age とか言われる時代でもあった。時代が目まぐるしく移り変わる時代に現状維持は衰退なり、とも言われた。自分たちがどうであろうと世の中の方がどんどん変わっていった。だから、世の中の変化に追随しなければ、企業とすればそれは終わりを意味した。

    わたしが社会に出たのはバブルが崩壊し、氷河期と言われる時代だったし、何をやってもモノが売れる時代から、何をやっても簡単にはモノが売れない時代になった。自ずと価格競争が激化し、日用品の価格設定はドラッグストアによって破壊された。

    だから、平成のデフレスパイラルを生み出したのはドラッグストアではないかとすら思う。スーパーはその煽りを喰らって多くの企業が倒れたし、そのくらいドラッグストアが市場でチカラを持っていたんだと思う。

    もちろん、ドラッグストアも多くの企業が淘汰された。日用品を扱う業態において、いわゆる差別化は簡単ではなかった。どこでも買える商品を扱うのにその中で選ばれる店になるということは一筋縄ではいかない。

    ましてや値段競争で差別化を図るなど愚の骨頂で、製造原価という最低限の経費がある以上無限の価格競争などあり得ないし、得てしてメーカーはぎっちり利益は確保していたから、身を削るのは中間の卸と小売店だった。時に原価を割る価格設定もあったけど、今思えば狂気の沙汰の他なんでもなかった。

    新店のオープンセールで、開店したばかりの店の利益ですらプラスなのに協賛で一緒にセールチラシを入れた近隣の仲間の店がセール期間中赤字で店長がお叱りを受けたなんてことがあった。

    モノが売れると働いた感じがするし、儲かった気分になるけど、まだまだ経営視点が子供だった時代だから、原価割れした商品を無制限に売るということをやってしまった。

    同じAという商品でもセール期間中の原価と普段の原価は違う。セール分の安い原価でも売価が原価を下回ることは珍しくなかったが、普段の原価は当然セール時より高い。だから、予定数量より多くあれば赤字幅の大きい商品を売ることになる。

    昔から安売り商品の販売限定数という概念はあったけど、ある程度の現場経験を積めば店長にくらいはなれてしまうドラッグストア業界では今では恥ずかしいことだけれど、そんな稚拙な店長がいたことは大した珍しくなかった。

    幸い、私が配属された地域はその会社にとっては最前線だったし、故にそれなりの人材が投入されていた感はあったから、店長になる前から損益決算書は概略的には理解していたし、短期的に戦略上赤字経営を強いられる期間があったとしてもどこかの時点で降り積もった赤字を回収し、借金を返し、利益の出る形にしていく必要があることは理解していたと思う。必要…とはつまり、資本力があればこそ赤字の時代を耐え忍ぶことができるわけで、でもそのままではダメで、ちゃんと利益を出し、従業員の給料を毎月きちんと支払い、売るための商品を買い付けるにももちろんお金がいるし、客数を確保するためにチラシに費用を使い、店内を明るくするために電気代もかかる。その他諸々の販管費を賄いつつ、今日も明日も明後日も存在し続けるお店であり続けることがある意味経営と言ってもいい。

    今はその業界からは離れてしまったけど、業界自体がだいぶ成熟しているだろうから、先に述べたような無用な薄利多売はやらないだろうし、商品部の仕入れ能力はその当時の比ではないだろう。小売側の規模が当時の比ではないから、売り手に主導権が生まれたし、どんな商品が売れるのか必要なのか作り手に要求できる規模になった。

    この間、30年と経っていない。

    平成時代は経済停滞の30年とは言われるけれど、民間は何もしなかったわけではない。

    個々の人材が3年やそこらで成熟しないしないように環境そのものもそれなりの時間は要したけれど、着実に変化はあった。

    ただ、30年を振り返ると着実に成長なり成熟した企業や業態、業界はあっただろうけど、30年経てば誰でもよくなっているわけじゃない。

    やっぱりそのときそのとき、ギリギリの選択や方向性の見定め、ときに失敗をしながらもリカバリーした歴史があるのではなかろうか。そうやって継続性のある軌道に乗って今に至るのだろうし、乗ったからといって安心もできなかっただろう。そうやって積み重ねてきた企業もあれば、そんな企業ばかりでもない。

    ひとも然りで、弛まぬ努力を積み重ねるひととそうではないひとがいるのは不思議なことではない。

    だから、10年おれば、必ず間に合う人間になれるわけではないし、20年経っても学級会だとか動物園と揶揄される職場は普通にあるし、我々普通の凡人にとっては環境が大事なのではないだろうか。

  • 属人化

    Aさんしか知らない業務内容を作らぬこと。

    仮にAさんが熟練の人だったとしてもブラックボックス化しないこと。

    理由は簡単。

    そのAさんが何かの事情で急にいなくなれば、混乱するからだ。混乱までいかなくても戸惑うことは間違いない。

    そこまで極端な例でなくても、普通に配置転換があったときに引継ぎができないからだ。

    代わりが利かないAさんは素晴らしい人材かも知れないが、代わりがいないのはその企業にとって大打撃だ。

    例えば、店舗開発のようにいい物件を探してくるような仕事だと、いまだに不動産屋相手の仕事は人間関係が重視されるそうな。金を積めばとはいかない世界なんだそうな。

    もちろん、某ドラッグストアが相場の3倍の家賃を出してとある物件を落札したなんて話は現実にあるから、金さえ積めばという部分もあるにはある。

    ただ、それをやり続けるにはとてつもない資本力が必要になるし、単純に長くは続かない。

    そうすると郷には従えで、その業界の体質に従えば、3倍も出す必要はなくなる…だがしかし、マニュアル云々でマネできる話ではなくなる。人間力のある人間にしか引き継げないということになるし、前任者から後任者に多少の挨拶をしたからといって、”担当者交代”とはならない。前任者の”顔”があって、その”顔”に泥を塗らない人物と評価されないと後任者も仕事はもらえないんだろう。

    これはやむを得ない属人化だと思う。

    極めて稀な例としての。

    しかし、ひとりの人が長くある業務に居座ったおかげで他の誰にもわからなくなってしまうようなケースはままある。マニュアルがその人の頭の中にしかないような状態。

    非上場だとそういうことは起こり得るかも知れない。業務分掌がなければ、そもそも業務の守備範囲もはっきりしないかも知れない。そういう人の場合、ひとりの守備範囲がやたら広いことが多い。

    一見有能に見えるけど、近い将来問題になる。いずれにしてもいつかのために後任を見繕っておくか、組織的に分担する仕組みを導入することを計画しておかなくてはならない。

    これも少々難しい問題ではあるが、整理してしまえばひとりの熟練者を配置し続けるより安全な組織にはなる。

    いつでも代行者をあてがえるように仕事のサイズを切り分けておく、業務フローを整理しておく、仕事のボリュームが小さめになっておれば、後任もマニュアルとOJTで慣れるまでの時間が最短化できる。

    Lynyrd Skynyrdが飛行機事故でメンバーの大半が亡くなったことを思えば、まだなんとかなる話だ。

    どちらかというと飛行機事故よりずっと予見できるし、計画的に対策できる。

    つまり、属人化を放置したなら、それは自業自得なのだ。

  • 自分の頭の中だけで仕事をすると…

    地頭というんだろうか、深い思考性を持った人は生きる力があるし、思考力だけでなく、情感も豊かだったり、周囲に配慮ができる人間らしい人間のような気がする。

    一方、自分の頭だけで思考してしまう人は文字通り”してしまう”から、自分では気付いていない。

    仕事でもなんでもたいてい相手がいて世の中が動いているから、相手との意思の疎通なく、自分の頭だけで考えてもうまくいくはずがない。

    もちろん、”配慮”や”気遣い”のような形で自分の中だけで考えるケースは十分ある。でも、それは相手をよく見ていたり、普段接する中で情報をキャッチしていて、”配慮”や”気遣い”のベースになる根拠や背景を持ち合わせていて初めて成り立つものだろう。

    わかりやすい表現として、”思い込み”が当てはまる。

    世の中の人は自分も含めて平凡な人間の集まりで、ひとの気持ちや立場、状況、状態を本人から情報を得ることなく、キャッチできるような超能力者はいない。

    これはコミュニケーションが大事とかいう単純なことではなくて、それすら考慮されず(つまり、コミュニケーションは大事だよね、という認識が時々でもなされず)、個々が独断で物事を進めている状況がそこかしこにあるのではないかという懸念だ。

    まぁ、”在る”のだから既に懸念ではないのだけれど。

    例えば、「訊いてくれたら」と親切心のつもりでいうケースは多々あるけれど、全体的なレクチャーもなく、疑問を持った順に訊ねろという態度には辟易する。

    既にどこかにも書いたけど、ずっとその職場にいて全体像を把握している人が全体像を示さず、全体の流れをレクチャーせず、新しく来た人に「訊きなさい、何でも答えますから」という姿勢は怠慢というものだろうし、なんとも効率が悪い。もっとも職場の労力が必要なスタイルになる。

    例えば、まっさらな新人ではなく、ある程度経験のある人間であっても…むしろ、そういう経験者へのレクチャーは高等技術かも知れないが、それこそその経験者の力量を把握する作業なくして(できることとできないこと、知っていることと知らないことの仕分け)、その経験者の欠けていることを補う作業はできまい。

    ”頭の中だけで思考(仕事)してしまう”ことの弊害はこういった類例を示しても示さなくても、まずいことなんだ。なのに認識されず、そのまま放置されている職場がいかに多いことか。

  • PDCAサイクルをまわす。

    Plan→Do→Check→Action

    このサイクルをまわすこと自体はそんなに難しいことじゃない。

    放置せず、期限を設ける、それだけ。

    いつまでに計画を実行するか、その計画をいつまでに実行すべきなのか、リミットが決まっているなら、そこから逆算すればいいだけで、自然と全体の日程が決まること。

    よく検証(check)が難しいとは言われるけど、それにしたって、毎週何曜日何時(あるいは定期のミーティング)、と決めてしまえば、もうサイクルはまわったと同じだし、そこに信頼(安定してサイクルが回ること)があれば、厳格なPlanは必要ないかも知れない。走りながら修正するシステムに乗っているんだから。

    ただ、このcheckはcheckそのものに少々技術が必要かも知れない。checkするメンバーが揃いも揃って事なかれ主義なら意味はないし、あまり、掘り下げすぎて課題を盛り込みすぎても今後のスピードが落ちる。それも着地の時期によっては急ぐこともあるだろうし、時間があればあったで、優先を決めて動かないといつまでも問題を抱えたままになる。抱えたままでもいい問題ならむしろ流して(放置して)おけばいいけど、爆弾級の問題を抱えて走り続けるのはリスクだろう。

    だから、PDCAサイクルをまわすとは単に期限管理ひとつで終わる話。やり方はそれだけ。

    ただ、そもそもこのサイクルをまわすのが正しいのか、ふと疑問や戸惑いを感じることが増えた。

    わかりやすい理由は常に改善をし続けなくてはならないプレッシャーとかストレスがなくはないこと。もちろん、これによって仕事が楽になったり、質が良くなったりすれば、結果的には自分たちの利益になることだから、無駄ではないんだけど。

    問題を抱えたまま…という状況がどのくらいのリスクかにもよるかも知れない。手が付けられないほど、根深い問題が何層も折り重なっている…そんな場所もある。

    一度全部ぶっ壊すしかない…そう思えてくるような場所もある。

    もし、そんな状況なら、PDCAなど生ぬるいし、時間と手間の割りに物事の進まなさ加減に疲れるに違いない。

    恐らく、PDCAを回し始める時点で、着地が見えているのではなかろうか。そのくらいの全体像でなければ成り立たないのかも知れない。

    だから、その場限りの思い付きでやる付け焼き刃のPDCAよりもKJ法か何かで問題の全体像を明確にして、一発で問題を仕留める策を組み上げた方がいいだろう。

    問題が多すぎるからと言って、しらみ潰しのPDCAを何回転も回すのは所詮、無駄になるのではなかろうか。

  • 仕組みで動かすことと人の成長

    そもそも、仕組みで組織を動かすということはそこにいる人たちがベテランだろうがビギナーだろうが、ある一定のパフォーマンスを発揮することを目指している。もっと言えば、病気や配置転換でやむを得ない人員配置の変化があってもそのパフォーマンスを低下させないことも含まれる。

    裏を返せば、しかもdrasticな言い方をすれば、そこにいる人間の能力に頼らないことを念頭に置いている。

    これは心情的にはやや不愉快さを感じる向きもあろうが、経営的にはいつ辞めるかわからない人にお金をかけて教育(育てる)するより、仕組みを運用できる能力さえあれば十分で、それはマニュアルが読めるだけの日本語能力がある、とか、仕事の手順といった社内のルールや今時なら法律を守るだけの遵法精神さえあれば、それで十分で、コストも格段に低く済む。

    某社にいたとき、自分を含めた各部の部長がまとめて解任されたことがあった。本当の理由は何であれ、こんなことを言われてすごく意外だったことがある。「お前らみたいにパソコンから作れる人材はもう要らないんだ。パソコンは操作さえできれば十分」と。

    なるほど、それだけ会社は成熟し、仕組み化(パソコンは作成)されたわけで、もうそれさえ運用(パソコンを操作)できれば十分なんだと。

    まぁ、当時解任された部長たちへの賛辞ととらえてもいいし、やっぱり解任されたのだから、本人たちにとってみれば理不尽この上なかった。

    パソコンを作る能力に長けていて重用されたかと思えば、その能力は邪魔だから、外れてくれ、と。

    今更ではあるけど、私も含めてその部長連に会社への不満もなければ、経営トップに対する不信感や反感もなく、むしろ世代交代の時期でもあったから、新しい社長を支えることを考えていたし、真剣に会社の今後の発展を考えていたと断言する。

    もちろんね、サラリーマンですから、何ひとつ文句がなかったとは言いません。でも、それは自分たちの力で解決していけると思っていただろうし、その責任がある立場だと認識していたんじゃないでしょうかね。

    ただ、本当にもうパソコン操作のみできればいいというのであれば、会社にとっては迷惑な存在だったのかも知れない。恐らくそれ以降もよかれと思い、改善改革に邁進したであろうし、私は人事担当であったから、私が入社した頃のトップだった人の言に従って、”人の育つ環境”を模索し続けたでしょう。

    細かい部分での考え方の違いや、立場の違いで、理解の仕方も違っていたかも知れないし、今の時点でも私自身、当時の経営陣の気持ちを正しく理解していないのかも知れない。

    ただ、少なくとも当時在籍していた会社がどうとかいう話ではなく、ひとを育てるにはお金がかかるし、やり方も固定(既成)のものはないし、そうすると効果も達成度もわかりづらい。そんなふわっとしたものに経営資源を投入し続けるリスクはやはり冷静な経営者ほど難しいと考えるに違いない。

    だから、企業体の中で”人を育てる”ということが如何に難しいことであるかは理解しなくてはいけない。

    かたや、マンパワーに依存して拡大してきた企業は規模が小さいうちはそれなりに技術伝承が可能でうまくやれているようにも見えたけど、仕組みも体系的な教育もないとなると企業の規模拡大とともに急速に技術伝承ができなくなり、品質が落ちる。せめて教育という概念があれば、ひとりの熟練者が多くの若手に技術を伝授しようという思考にもなったかも知れないが、残念ながら個人→個人の伝達では会社の規模拡大のスピードに追い付けず、一気にパフォーマンスが薄まった(人材の薄まりはこの時期、業界全体の課題ではあった)。それでも勢いのあるうちは経験豊富な人材(中途採用者)が集まり、それなりにその勢いは維持された。でも、あるとき、その勢いに陰りが出始めた途端に経費に目を向け始めた。いや、経費に目を向けるのはいつでも大事なことなのに、行き詰ったときに目を向けると大抵”経費だけ”に目を向ける。つまり費用対効果ではなく、経費(販管費)単体で数字を見て、多い少ないとこねくり回し始めるのが常で、客数を呼び込むはずのチラシを全部やめてしまったり、計算値だけで人件費を削り始めた。当然優秀な人材の採用もやめてしまい、店舗の人時も削り始めた。いや、計算値自体何も悪くはなく、何かしらの基準を設けて人員配置するのは何も風変わりなことではないけど、その数値を用いる人間の方が不勉強なのか、判断が適正ではなかった(と感じている)。

    例えば、売上と人時を比例させるところまでは売上と作業量が比例するという視点で大きく間違ってはいないけど、売上の大小に関係なく必要とされる最低限の業務というのはどんな仕事にもあって、それが考慮されなかった。間もなく修正はされたけど、そのたびに何万人という社員従業員が右往左往した。人件費削減のために右往左往した社員従業員のコストがプラスされた。イニシャルコストではあるけど、不要なコストだったはず。※仮に6万人の従業員が「え?」と立ち止まっただけで、それが仮に1秒だったとして、6万秒=1,000分=16.7時間、社員の平均時給は2,000円程度らしいので掛け算すれば33,333円/時。もちろん「え?」だけでは済まず、それまでに費やしてきた準備の時間や、朝令暮改の修正のために何時間と時間を掛けることになる。10時間なら30万円、24時間なら80万円。小規模なドラッグストアなら何日分もタダ働きしたことになる。

    小売業(だけではないかも知れないが)には「走りながら考える」という言葉(思想と言っていい)がある。緻密に計画している間に走り出せ、走りながら考えろ、そして走りながら修正しろ、という思想。これが行き過ぎると無計画に何も考えずに走り始め、会社の規模によっては修正(走りながら思いついたこと)のために膨大なコストが発生する。大勢の人間はやり直しに近い手間をかけることになり、これほど無駄なことはない。修正とは言ったものの、実質やり直しが多い会社もあった。

    仮にマンパワー一辺倒の企業に社員教育という概念があれば、若干均一性と継続性の高い運営が可能だったかも知れないと思う。

    日本最大の小売業のイオンは組織力と教育を両立していた会社なのではと思ったりもしたが、確証はない。いくらか企業間の交流があり、知り合いがいた程度であるから、自信はないし、正直企業規模が大き過ぎてよくわからないといった方が正しいかも知れない。ただ、〇〇一辺倒ということはなく、歴の古い方にお話を伺えば「昔は勢いというか…」と小売業らしく、マンパワー頼りだった時代もあり、それでも大きくなるにはそれだけでは無理で企業体として権限移譲や人材育成、広報などのイメージ戦略等々を以て巨大化したのであろう。

    何かひとつではないのは確かだろうし、何かひとつに偏るリスクはあるのではないか。何かひとつ得意分野があってもいいのだろうけど、それだけではリスクヘッジできない。

    ただ、偏るにしても何に偏るかによって強い弱いはありそう。少なくともマンパワー依存だけは違いそうだし、それで何十年もやってきた会社に新しい文化は難しいのだろう…。

  • ダブルチェックは本当に必要か?

    そんなだいそれたことではない。罠でも何でもない。

    ダブルチェックが機能する環境というのは極めて限定的だと思うのです。

    正直、このダブルチェックが継続的に機能している環境を見たことがない。比較的簡単に破綻する。だから、ダブルチェックしたにも関わらず、ミスが通り抜けてしまった場合、まず、トリプルチェックしましょうという発想になるのはほぼ不正解と言っていい。チェックの在り方を検証しないで回数を増やしても同じこと。

    よく言われるのはAさんがチェックしたから大丈夫、2回目のチェックだから、1回目の人がちゃんと見てるはず、結局Aさんか1回目のチェック者だけでやっているのと同じことだね。下手するとAさんが「ほかの人も見てくれるから」と気を抜いたら、誰もチェックしていないのと同じになる。

    ある意味、精神力の問題になる。

    そして、それに気付いている薬局、企業は多いから、チェックの回数を増やすこと➡ただ単に手間(人件費)が増えて、チェックの質も落ちていいことない、のが常識であり、通説なのではないだろうか。

    結局、システムの力を借りて、人間的な先入観を消すのが一番だとは思う。

    あと、可能なこととしてはダブルチェックといっても同じことをやるのではなく、違う角度で確認をする手法だろうか。ひとりは処方箋の文字を見て必要なものを集めてくる、ひとりは出てきたものの名前と数量を確認したのちに処方箋を見る。プロセスを変える。ここまでくるとやはりシステムの方が得意分野ということになろうが。

    ある程度の企業体であれば、この程度のシステム導入はそれほど大きな問題ではないだろう。費用対効果から言っても必要最低限の投資と言えよう。

    ただ、これが小規模な薬局や病院となると難しいかも知れない。システムだって数を買えば単価は下がる、道理だ。でも、メンバーチェンジが少ない環境でもあるので、「大丈夫だ」という自信も慢心も生まれやすい。そのくせ効率的ではないことが多く、且つ人不足も相まって、気合いとか誇りで解決しようとする。

    そこまでいくと昭和的でもなく、精神力でゼロ戦飛ばせと言うに等しい。

    が、しかし令和でも存在する。化石と言っていい薬局(薬剤部)は実在する。それもベテランだけでやっていけるなら、それでいいのかも知れない。ただ、経営的な観点で継続性は低く、継続以前に従業員が有休を使うこともうっかり体調を崩すことも許されない、過酷な環境がある。それどころか、電話当番とかオンコール対応と称して、公休日にやたら電話が鳴る業務が回ってくる。

    一方、小規模とは関係なく、調剤報酬制度の中に夜間休日に喜んで対応することが組み込まれた。

    今回のテーマとはだいぶ乖離しているが、薬剤師は夜間休日という余暇を捨てることを求められるようになってしまった。

    一方、医師は当直はあるだろうけど、しっかり休むようになってきているんじゃないだろうか。ましてや個人のクリニックであれば、盆も正月もGWもSWもしっかり休む。当番があれば別だけど、なければ緊急電話もないだろう。

    この逆転現象は一体なんなんだろう。

    薬局側は単に薬剤師会のアピールだと思う。

    医師の側はワークライフバランス。

    これで十分説明はついたか…。

  • 完璧な計画より稚拙でもスピード

    籠城されると攻め手の負担が途端に増える。

    時間稼ぎされると攻め手にとっては費用対効果が悪い。

    籠城する方は端から籠城なんだから、最初から何日粘れるか、そのつもりでいるんだから。

    でも、攻め手は籠城を決め込まれた時点で、成果なく経費だけが掛かり始める。そうはいっても籠城側はいつか兵糧は尽き、攻め手側はいくらでも調達出来るんだから、最終的には籠城側は干上がってどんな形であれ、攻め手に勝利が転がり込んでくるでしょ? と思うだろうけど、何日かけようが攻め手が勝利によって手にする成果は城ひとつであって、かけた日数によって城が増えるわけではない。その成果から攻め落とすまでにかかった費用を差し引かねばならない。貴重な兵糧を無駄にはできないから、経費を考えると早めれば早い方がいい。ところが敵(籠城側)もそれなりに戦闘力のある集団だろうから、籠城側が弱り切ってから攻めた方が攻め手の人的損耗は減らせるかも知れない。そうすると籠城側が弱るまでの期間の兵糧も必要経費として含み置く必要があって、算段しなくてはならない。

    戦国武将とて領国を経営する経営者だから、そこから徴収した兵糧を資源にして敵地を切り取るんだから、同じものを得るのに何倍も兵糧を費やすような愚策は避けたくないはずがない。

    ただ…そこに気付かない人も少なくない。

    兵糧の計算はできる。目に見えるから。食べれば減るから。人数分減るから。

    なのに、”人が動く”ことに対して、動けば動くほどお金がかかってしまっていることに気付かず、できない人が多い。

    「おまえな、こうやって手でモノ触った時点でお金がちゃりんって音が聞こえにゃだめだ」って昔言われましたっけ。

    また、別の人からは「昼寝しているうちにあの仕事終わってたらいいのに」。

    若干仕事の姿勢は違うようですが、事実、昼寝まではいかなくても同じ成果を出すのに、汗水たらしている会社とそうでない会社があるのは確かです。

    汗水たらしている側も「もうちょっとなんとか楽できんのか」と思うのが正常で、汗水たらして悦に入っているのはこれは間もなく滅ぶ前兆。これはガテン系の方々を揶揄しているのではないですよ。

    兵は拙速を貴ぶ。

    若干稚拙であっても勝負事はスピード。

    実際の戦闘は緻密な計算より、意表を突くほどのスピードだ。意表を突けと言ったのは孫子だけれど。

    意表を突くというのは想像を超える、ということだから、爆速じゃないといけない。

    鍵十字のドイツ軍がイケない薬を使って不眠不休で行軍して敵の意表を突いたのも哲学としては同じもので、いや、薬を使ったところをあれこれ言おうかと思ったけど…戦争に良いも悪いもないものか…。

    兵は拙速を貴ぶ。

  • 職場の秩序

    結局のところ、仕事のやりやすさは秩序ではないかと思う。

    もう少し柔らかい表現をするなら、仕事や業務が整理されていること、だろうか。

    これはルールや決まり事で縛ることとはまったく違う。

    むしろ、シンプルなルールや法則の中に秩序が生まれる。

    事細かに場合分けされた法律は覚えたり、守ることが主になり、本業が機能しなくなる。

    ガチガチのルールで縛る割に、肝心なところは感覚や慣例、前例に倣え、だったりして、とどのつまり哲学(とまで言わなくても方針や方向性、共通認識)がないから、イレギュラーが起こると業務が止まり、学級会が始まる。そもそもの柱(基本方針のようなもの)がないから、ガチガチの方の思想(従来の考え方)とは別の思想が絡み込んでより一層複雑になる。

    文字通り、ルールや考え方に層ができる。

    まるで一貫性がないから、丸覚えするしかなく、法則や理屈で覚えることができない構造になっている(なってしまう)。

    考える力より記憶する力を求められる。

    考えてしまうと理屈に合わないことや矛盾に気付いてしまうことになる。新旧の違いにも違和感を感じ始める。

    こうして、秩序とは程遠い環境が分厚く醸成されていく。

    だから、秩序とは結局、機能的であるかどうかで評価できるかもしれない。

  • 見たらわかる。

    もうだいぶ使い古された言葉ではあるけど、この見ればわかる状態にするというシンプルなコンセプトに素直に従うと、驚くほど仕事のストレスがなくなる。

    見たらわかる、その場に行けば説明不要で理解でき、どうしたらいいかわかるようになっている、記憶やもしかしたら経験に頼ることもないから思い出す時間もなくなり、即行動に移ることができる。

    対極にあるのが記憶を掘り起こしながら仕事することだろうか。あるいは覚えないと仕事がスムーズにならない、そんな状況。必要な部品や備品、文房具に至るまで、業務に関連する場所にあれば、即座に目に入り、探すまでもないけど、かといって、それらいつも作業場に並べておくわけにはいかないから、連想できる場所であれば十分で、とにかく脈絡のない関連性のない場所には置かぬことだ。

    ただし、間違った”見える化”として、棚や引き出しの中身を事細かに棚や引き出しの外側に表示するのは見にくく埋もれるだけで、ほとんど役にも立たないと言っていい。実際にその場で働けばなんと無駄なことかと気付くだろうに、何年もその表示を中身が入れ替わるたびに徹底している。

    人は「はさみ」という文字を探していないから、「はさみ」と書いてあっても見付けられず、はさみという物体の映像をイメージしているから、はさみの形をしたものが目に入らないと見付けられない。

    整理整頓の意味を間違えると、何もかも見えないところに仕舞ったりする。パッと見、すっきり整理されてよさそうに見えるが、機能ということを考えると、仕舞ってある場所を教える手間も増え、探す手間も増える。それだけでも十分販管費の無駄使いなのだが、熟練者であってもその仕舞ってある場所まで必要なものを取りに行く時間は年間何分、何時間になるだろう。それが仮に大したことのない時間だったとしても、目をつむったままでも必要な道具や備品が揃う環境とどちらがいいか考えるまでもない。

    見える化の本質は全部見えていることということではなく、直感的に、連想的に、業務を進められる…なんか人間工学みたいな話なわけだ。

  • 仕事はマスター、気持ちはビギナー。

    仕事の姿勢を示す言葉。

    仕事の質はマスターレベル(を目指し)、気持ちは新人のときの新鮮な気持ちのままで。

    ベテランと言われる人たちにとっても世に出たばかりの人にとっても。