カテゴリー: 人材育成の話

人材育成、企業における教育全般の話

  • 10年

    ひとつの仕事を10年やって初めて、その仕事の本質がわかる、そう言われてきた。

    10年選手という言葉がある。これも裏を返せば、10年やって初めて隅々まで実務を熟知した頼られる存在となる、という意味を含んでいるのではないか。

    10年とはそんな意味を含んでいるのではあるまいか。

    10年という期間のとらえ方も年齢とともに変わったと思う。

    20代くらいまでは、10年とは膨大な時間のように感じられたし、もう少し年齢を減るとひとつの重量感のある時間単位に思えるようになった。50代となった今はうかうかしてられないスピードを認識する単位になった。

    10年もあると思うな…。

    時間の感覚が年齢とともに変わる原理についてはまたどこかで述べたいと思う。割と科学的に証明…までいかなくても仮説はある。

    さて、この時間感覚の話は往々にして、仕事との付き合い方の話だったりするけど、一方3日3ヶ月3年という言葉もある。

    若い人が仕事を辞めたくなる時期を喩えた言葉だけど、あまり数字に深い意味はないと思う。

    3日:仕事のイロハを知る前なのに、合わないと思って、入ったばかりだけど、もう辞めたくなる。

    3ヶ月:やっぱり3日目に感じた自分には合ってないという気持ちは間違いなかったと反芻。何事も初めてのこと、慣れないことを習得しようとすれば多少の努力もいるし、挫けることもある。でも、普通に考えたら、同じ人間がやる仕事にやってやれないことなんてないし、何の苦労もなく何事も習得できるならそれはごく一部の天才だけだろうから、自分はごく普通の凡人と認めるべきだろう。

    3年:3年もすれば確かに基本的な仕事やある程度の応用、トラブルにも対応できるくらいにはなっているだろうけど、先輩や後輩と仕事の技術を共有し、これからは後輩というより部下と言うべき存在も増えるし、そうなると仕事の仕方、仲間との接し方も変わってくるから、むしろやっとスタートラインに立ったところなのかも知れない。

    ここまで書いて、3年で基本的な業務習得をして、社会人、企業人としてスタートラインに立てたとして、それって結構スムーズに進んだ人なんじゃないかと思える。

    3年くらいだと何か役職を頂いてもにわか上司だろうし、自分の部下を育てるとか、一人前にするとか、ひと様に紹介することもままならないかも知れない。

    そう思うと3年は全然だなと思う。それはそんな頃の自分を振り返っても恥ずかしくなるような、そんなレベルだ。

    一人前だなんて程遠い。

    でも、そんなゆっくりできない世の中でもあった。

    dog age とか言われる時代でもあった。時代が目まぐるしく移り変わる時代に現状維持は衰退なり、とも言われた。自分たちがどうであろうと世の中の方がどんどん変わっていった。だから、世の中の変化に追随しなければ、企業とすればそれは終わりを意味した。

    わたしが社会に出たのはバブルが崩壊し、氷河期と言われる時代だったし、何をやってもモノが売れる時代から、何をやっても簡単にはモノが売れない時代になった。自ずと価格競争が激化し、日用品の価格設定はドラッグストアによって破壊された。

    だから、平成のデフレスパイラルを生み出したのはドラッグストアではないかとすら思う。スーパーはその煽りを喰らって多くの企業が倒れたし、そのくらいドラッグストアが市場でチカラを持っていたんだと思う。

    もちろん、ドラッグストアも多くの企業が淘汰された。日用品を扱う業態において、いわゆる差別化は簡単ではなかった。どこでも買える商品を扱うのにその中で選ばれる店になるということは一筋縄ではいかない。

    ましてや値段競争で差別化を図るなど愚の骨頂で、製造原価という最低限の経費がある以上無限の価格競争などあり得ないし、得てしてメーカーはぎっちり利益は確保していたから、身を削るのは中間の卸と小売店だった。時に原価を割る価格設定もあったけど、今思えば狂気の沙汰の他なんでもなかった。

    新店のオープンセールで、開店したばかりの店の利益ですらプラスなのに協賛で一緒にセールチラシを入れた近隣の仲間の店がセール期間中赤字で店長がお叱りを受けたなんてことがあった。

    モノが売れると働いた感じがするし、儲かった気分になるけど、まだまだ経営視点が子供だった時代だから、原価割れした商品を無制限に売るということをやってしまった。

    同じAという商品でもセール期間中の原価と普段の原価は違う。セール分の安い原価でも売価が原価を下回ることは珍しくなかったが、普段の原価は当然セール時より高い。だから、予定数量より多くあれば赤字幅の大きい商品を売ることになる。

    昔から安売り商品の販売限定数という概念はあったけど、ある程度の現場経験を積めば店長にくらいはなれてしまうドラッグストア業界では今では恥ずかしいことだけれど、そんな稚拙な店長がいたことは大した珍しくなかった。

    幸い、私が配属された地域はその会社にとっては最前線だったし、故にそれなりの人材が投入されていた感はあったから、店長になる前から損益決算書は概略的には理解していたし、短期的に戦略上赤字経営を強いられる期間があったとしてもどこかの時点で降り積もった赤字を回収し、借金を返し、利益の出る形にしていく必要があることは理解していたと思う。必要…とはつまり、資本力があればこそ赤字の時代を耐え忍ぶことができるわけで、でもそのままではダメで、ちゃんと利益を出し、従業員の給料を毎月きちんと支払い、売るための商品を買い付けるにももちろんお金がいるし、客数を確保するためにチラシに費用を使い、店内を明るくするために電気代もかかる。その他諸々の販管費を賄いつつ、今日も明日も明後日も存在し続けるお店であり続けることがある意味経営と言ってもいい。

    今はその業界からは離れてしまったけど、業界自体がだいぶ成熟しているだろうから、先に述べたような無用な薄利多売はやらないだろうし、商品部の仕入れ能力はその当時の比ではないだろう。小売側の規模が当時の比ではないから、売り手に主導権が生まれたし、どんな商品が売れるのか必要なのか作り手に要求できる規模になった。

    この間、30年と経っていない。

    平成時代は経済停滞の30年とは言われるけれど、民間は何もしなかったわけではない。

    個々の人材が3年やそこらで成熟しないしないように環境そのものもそれなりの時間は要したけれど、着実に変化はあった。

    ただ、30年を振り返ると着実に成長なり成熟した企業や業態、業界はあっただろうけど、30年経てば誰でもよくなっているわけじゃない。

    やっぱりそのときそのとき、ギリギリの選択や方向性の見定め、ときに失敗をしながらもリカバリーした歴史があるのではなかろうか。そうやって継続性のある軌道に乗って今に至るのだろうし、乗ったからといって安心もできなかっただろう。そうやって積み重ねてきた企業もあれば、そんな企業ばかりでもない。

    ひとも然りで、弛まぬ努力を積み重ねるひととそうではないひとがいるのは不思議なことではない。

    だから、10年おれば、必ず間に合う人間になれるわけではないし、20年経っても学級会だとか動物園と揶揄される職場は普通にあるし、我々普通の凡人にとっては環境が大事なのではないだろうか。

  • 属人化

    Aさんしか知らない業務内容を作らぬこと。

    仮にAさんが熟練の人だったとしてもブラックボックス化しないこと。

    理由は簡単。

    そのAさんが何かの事情で急にいなくなれば、混乱するからだ。混乱までいかなくても戸惑うことは間違いない。

    そこまで極端な例でなくても、普通に配置転換があったときに引継ぎができないからだ。

    代わりが利かないAさんは素晴らしい人材かも知れないが、代わりがいないのはその企業にとって大打撃だ。

    例えば、店舗開発のようにいい物件を探してくるような仕事だと、いまだに不動産屋相手の仕事は人間関係が重視されるそうな。金を積めばとはいかない世界なんだそうな。

    もちろん、某ドラッグストアが相場の3倍の家賃を出してとある物件を落札したなんて話は現実にあるから、金さえ積めばという部分もあるにはある。

    ただ、それをやり続けるにはとてつもない資本力が必要になるし、単純に長くは続かない。

    そうすると郷には従えで、その業界の体質に従えば、3倍も出す必要はなくなる…だがしかし、マニュアル云々でマネできる話ではなくなる。人間力のある人間にしか引き継げないということになるし、前任者から後任者に多少の挨拶をしたからといって、”担当者交代”とはならない。前任者の”顔”があって、その”顔”に泥を塗らない人物と評価されないと後任者も仕事はもらえないんだろう。

    これはやむを得ない属人化だと思う。

    極めて稀な例としての。

    しかし、ひとりの人が長くある業務に居座ったおかげで他の誰にもわからなくなってしまうようなケースはままある。マニュアルがその人の頭の中にしかないような状態。

    非上場だとそういうことは起こり得るかも知れない。業務分掌がなければ、そもそも業務の守備範囲もはっきりしないかも知れない。そういう人の場合、ひとりの守備範囲がやたら広いことが多い。

    一見有能に見えるけど、近い将来問題になる。いずれにしてもいつかのために後任を見繕っておくか、組織的に分担する仕組みを導入することを計画しておかなくてはならない。

    これも少々難しい問題ではあるが、整理してしまえばひとりの熟練者を配置し続けるより安全な組織にはなる。

    いつでも代行者をあてがえるように仕事のサイズを切り分けておく、業務フローを整理しておく、仕事のボリュームが小さめになっておれば、後任もマニュアルとOJTで慣れるまでの時間が最短化できる。

    Lynyrd Skynyrdが飛行機事故でメンバーの大半が亡くなったことを思えば、まだなんとかなる話だ。

    どちらかというと飛行機事故よりずっと予見できるし、計画的に対策できる。

    つまり、属人化を放置したなら、それは自業自得なのだ。

  • 自分の頭の中だけで仕事をすると…

    地頭というんだろうか、深い思考性を持った人は生きる力があるし、思考力だけでなく、情感も豊かだったり、周囲に配慮ができる人間らしい人間のような気がする。

    一方、自分の頭だけで思考してしまう人は文字通り”してしまう”から、自分では気付いていない。

    仕事でもなんでもたいてい相手がいて世の中が動いているから、相手との意思の疎通なく、自分の頭だけで考えてもうまくいくはずがない。

    もちろん、”配慮”や”気遣い”のような形で自分の中だけで考えるケースは十分ある。でも、それは相手をよく見ていたり、普段接する中で情報をキャッチしていて、”配慮”や”気遣い”のベースになる根拠や背景を持ち合わせていて初めて成り立つものだろう。

    わかりやすい表現として、”思い込み”が当てはまる。

    世の中の人は自分も含めて平凡な人間の集まりで、ひとの気持ちや立場、状況、状態を本人から情報を得ることなく、キャッチできるような超能力者はいない。

    これはコミュニケーションが大事とかいう単純なことではなくて、それすら考慮されず(つまり、コミュニケーションは大事だよね、という認識が時々でもなされず)、個々が独断で物事を進めている状況がそこかしこにあるのではないかという懸念だ。

    まぁ、”在る”のだから既に懸念ではないのだけれど。

    例えば、「訊いてくれたら」と親切心のつもりでいうケースは多々あるけれど、全体的なレクチャーもなく、疑問を持った順に訊ねろという態度には辟易する。

    既にどこかにも書いたけど、ずっとその職場にいて全体像を把握している人が全体像を示さず、全体の流れをレクチャーせず、新しく来た人に「訊きなさい、何でも答えますから」という姿勢は怠慢というものだろうし、なんとも効率が悪い。もっとも職場の労力が必要なスタイルになる。

    例えば、まっさらな新人ではなく、ある程度経験のある人間であっても…むしろ、そういう経験者へのレクチャーは高等技術かも知れないが、それこそその経験者の力量を把握する作業なくして(できることとできないこと、知っていることと知らないことの仕分け)、その経験者の欠けていることを補う作業はできまい。

    ”頭の中だけで思考(仕事)してしまう”ことの弊害はこういった類例を示しても示さなくても、まずいことなんだ。なのに認識されず、そのまま放置されている職場がいかに多いことか。

  • 仕組みで動かすことと人の成長

    そもそも、仕組みで組織を動かすということはそこにいる人たちがベテランだろうがビギナーだろうが、ある一定のパフォーマンスを発揮することを目指している。もっと言えば、病気や配置転換でやむを得ない人員配置の変化があってもそのパフォーマンスを低下させないことも含まれる。

    裏を返せば、しかもdrasticな言い方をすれば、そこにいる人間の能力に頼らないことを念頭に置いている。

    これは心情的にはやや不愉快さを感じる向きもあろうが、経営的にはいつ辞めるかわからない人にお金をかけて教育(育てる)するより、仕組みを運用できる能力さえあれば十分で、それはマニュアルが読めるだけの日本語能力がある、とか、仕事の手順といった社内のルールや今時なら法律を守るだけの遵法精神さえあれば、それで十分で、コストも格段に低く済む。

    某社にいたとき、自分を含めた各部の部長がまとめて解任されたことがあった。本当の理由は何であれ、こんなことを言われてすごく意外だったことがある。「お前らみたいにパソコンから作れる人材はもう要らないんだ。パソコンは操作さえできれば十分」と。

    なるほど、それだけ会社は成熟し、仕組み化(パソコンは作成)されたわけで、もうそれさえ運用(パソコンを操作)できれば十分なんだと。

    まぁ、当時解任された部長たちへの賛辞ととらえてもいいし、やっぱり解任されたのだから、本人たちにとってみれば理不尽この上なかった。

    パソコンを作る能力に長けていて重用されたかと思えば、その能力は邪魔だから、外れてくれ、と。

    今更ではあるけど、私も含めてその部長連に会社への不満もなければ、経営トップに対する不信感や反感もなく、むしろ世代交代の時期でもあったから、新しい社長を支えることを考えていたし、真剣に会社の今後の発展を考えていたと断言する。

    もちろんね、サラリーマンですから、何ひとつ文句がなかったとは言いません。でも、それは自分たちの力で解決していけると思っていただろうし、その責任がある立場だと認識していたんじゃないでしょうかね。

    ただ、本当にもうパソコン操作のみできればいいというのであれば、会社にとっては迷惑な存在だったのかも知れない。恐らくそれ以降もよかれと思い、改善改革に邁進したであろうし、私は人事担当であったから、私が入社した頃のトップだった人の言に従って、”人の育つ環境”を模索し続けたでしょう。

    細かい部分での考え方の違いや、立場の違いで、理解の仕方も違っていたかも知れないし、今の時点でも私自身、当時の経営陣の気持ちを正しく理解していないのかも知れない。

    ただ、少なくとも当時在籍していた会社がどうとかいう話ではなく、ひとを育てるにはお金がかかるし、やり方も固定(既成)のものはないし、そうすると効果も達成度もわかりづらい。そんなふわっとしたものに経営資源を投入し続けるリスクはやはり冷静な経営者ほど難しいと考えるに違いない。

    だから、企業体の中で”人を育てる”ということが如何に難しいことであるかは理解しなくてはいけない。

    かたや、マンパワーに依存して拡大してきた企業は規模が小さいうちはそれなりに技術伝承が可能でうまくやれているようにも見えたけど、仕組みも体系的な教育もないとなると企業の規模拡大とともに急速に技術伝承ができなくなり、品質が落ちる。せめて教育という概念があれば、ひとりの熟練者が多くの若手に技術を伝授しようという思考にもなったかも知れないが、残念ながら個人→個人の伝達では会社の規模拡大のスピードに追い付けず、一気にパフォーマンスが薄まった(人材の薄まりはこの時期、業界全体の課題ではあった)。それでも勢いのあるうちは経験豊富な人材(中途採用者)が集まり、それなりにその勢いは維持された。でも、あるとき、その勢いに陰りが出始めた途端に経費に目を向け始めた。いや、経費に目を向けるのはいつでも大事なことなのに、行き詰ったときに目を向けると大抵”経費だけ”に目を向ける。つまり費用対効果ではなく、経費(販管費)単体で数字を見て、多い少ないとこねくり回し始めるのが常で、客数を呼び込むはずのチラシを全部やめてしまったり、計算値だけで人件費を削り始めた。当然優秀な人材の採用もやめてしまい、店舗の人時も削り始めた。いや、計算値自体何も悪くはなく、何かしらの基準を設けて人員配置するのは何も風変わりなことではないけど、その数値を用いる人間の方が不勉強なのか、判断が適正ではなかった(と感じている)。

    例えば、売上と人時を比例させるところまでは売上と作業量が比例するという視点で大きく間違ってはいないけど、売上の大小に関係なく必要とされる最低限の業務というのはどんな仕事にもあって、それが考慮されなかった。間もなく修正はされたけど、そのたびに何万人という社員従業員が右往左往した。人件費削減のために右往左往した社員従業員のコストがプラスされた。イニシャルコストではあるけど、不要なコストだったはず。※仮に6万人の従業員が「え?」と立ち止まっただけで、それが仮に1秒だったとして、6万秒=1,000分=16.7時間、社員の平均時給は2,000円程度らしいので掛け算すれば33,333円/時。もちろん「え?」だけでは済まず、それまでに費やしてきた準備の時間や、朝令暮改の修正のために何時間と時間を掛けることになる。10時間なら30万円、24時間なら80万円。小規模なドラッグストアなら何日分もタダ働きしたことになる。

    小売業(だけではないかも知れないが)には「走りながら考える」という言葉(思想と言っていい)がある。緻密に計画している間に走り出せ、走りながら考えろ、そして走りながら修正しろ、という思想。これが行き過ぎると無計画に何も考えずに走り始め、会社の規模によっては修正(走りながら思いついたこと)のために膨大なコストが発生する。大勢の人間はやり直しに近い手間をかけることになり、これほど無駄なことはない。修正とは言ったものの、実質やり直しが多い会社もあった。

    仮にマンパワー一辺倒の企業に社員教育という概念があれば、若干均一性と継続性の高い運営が可能だったかも知れないと思う。

    日本最大の小売業のイオンは組織力と教育を両立していた会社なのではと思ったりもしたが、確証はない。いくらか企業間の交流があり、知り合いがいた程度であるから、自信はないし、正直企業規模が大き過ぎてよくわからないといった方が正しいかも知れない。ただ、〇〇一辺倒ということはなく、歴の古い方にお話を伺えば「昔は勢いというか…」と小売業らしく、マンパワー頼りだった時代もあり、それでも大きくなるにはそれだけでは無理で企業体として権限移譲や人材育成、広報などのイメージ戦略等々を以て巨大化したのであろう。

    何かひとつではないのは確かだろうし、何かひとつに偏るリスクはあるのではないか。何かひとつ得意分野があってもいいのだろうけど、それだけではリスクヘッジできない。

    ただ、偏るにしても何に偏るかによって強い弱いはありそう。少なくともマンパワー依存だけは違いそうだし、それで何十年もやってきた会社に新しい文化は難しいのだろう…。

  • 教える側の責任80%

    いや、何%でもいい。
    教える側の責任が大多数であり、教わる側はせいぜい一生懸命メモを取って、なるべく同じことを訊ねなくても済むように努力すること。

    と言ったのは私の仕事の師であり、のちに様々なOJTの書に、教育担当養成の研修の場で言われたことでありました。

    つまり、特別変わった話ではありません。

    OJTが作業手順を教えることくらいの意味しかないとしたら、責任はいらないんだけど、この責任がないと、その作業手順すらいい加減な教え方になる。

    尤もその作業手順を書き取る時間も与えない教育は教育と呼ぶに値しないんだけれど。

    そもそもOJTとは一定のパフォーマンスを発揮するまでの時間を最短化することです。

    そのためには仕事の意義から始まり、全体像と体系的な流れを示し、これから教わる手元の手技との関連性や位置づけを理解しないと始まるものも始まらない。


    OJTという概念のない場所では日常業務の合間に、作業手順を点で教える…というより”言う”だけで、初心者初学者が短期間にできるようになる可能性は極めて低く、一部の天才か要領のいいタイプだけが自力で習得できるのみだろう。日頃の作業手順の通り”伝える”ならまだしも、その手順すら無視して断片的に”伝えて”も結局”慣れる”のを待つしかない。

    教える…できるまで習得できるまで面倒を見ること。

    言う…言葉にして発する。



    点で…というのは作業の前後関係なしで、「それはこうやって」言ってくるようなケースで、連続性がないから、何の後”こうやる”のかまるでわからないことになる。それではどんなときに「こう」やって、どういうときは「そう」やるのか、受け手(教わる側)がかなりの努力をして整理しなくてはならない。もちろん、「そう」とか「こう」とか様々なバリエーションを自分の中で蓄積させる必要がある。教える側は全部(全体)を知っているはずなのに、それを整理せずに断片で話をする。

    決して、珍しい話ではない。

    A→B→Cがスタンダードな手順ならば、まずそれスタンダードであることとその手順を習得しないと次はない。

    仮にイレギュラーとしてA→B’→C’という工程があったとして、B’のみ、C’のみ教えられても仕方ない。

    文字通り仕方ない。

    つまり、どこから教えるかも法則がある。考えるまでもない。

    一番スタンダードなやり方からしかあり得ない。もし仮に一番スタンダードなやり方の難易度が高いとしたら、スタンダードなやり方を切り分けて、それぞれの位置関係を確認しながら、教えていくか、イレギュラーではあるけど、導入しやすい簡単なものから教えるに如くはなし。



    教える側に責任がないと、できなければできない側の責任になってしまい、それが原因で辞めてしまっても居なくなれば覚えの悪い奴でしたね、で終わる。教える側の成長の機会も失われる。

    最後に残った者が勝ちなのは何もリングの上だけではないけれど、貴重な費用をかけて採用した正に貴重な人材を自分たちの無知のせいで捨てることになるかも知れない。受け入れる会社にとってもなにひとついいことがない。

    教育も採用もやるとわかるけど、教育できないなら採用するな、と思う。

    教わる側、採用される側が気の毒なだけでなく、教える側、採用する側にもいいことがないだけでなく、相当な経費を使っているだけに損しかない。

    何も手取り足取りとは言わない。けれど、採用した以上、道筋をつける責任か必要はあるのではないか。これはあくまでも採用した側、教える側の姿勢として、という話だ。現場ではなかなか経営上の損得まで見えていないことが多いだろうけど、人として、も現場の実務上もそれほど間違っていまい。

    だから、本来現場では”教えてできるようにする必要性”があるはずなんだ。にしても、その辺りの理屈と行動が一致していないのが不思議でならない。

    時々困ったことに教わる側がふんぞり返っていることがある。「さあ、上手に教えてごらんなさい」と言わんばかりの。仕事の不出来を指摘すると「教え方が悪いんじゃないですか?」とくる。”教える側の責任”云々と言っている以上、怯まないでもないが、結局のところ、教える側が教える側の責任を果たし、教わる側も仕事を覚えることに専念する、その関係性、構造がなければ、成り立たない。それにどちらかがふんぞり返っていたら、それぞれの人生もそこまでだろう。

    いずれにせよ、教える側が教えることに責任を持ち、教わる側もそれに喰らいついていく、そして周囲も何を教わって、何をまだ伝え切れていないかを把握して、面倒を見る風土こそが、ひとりの新入社員なり初学者を育てる環境となる。

  • 動機付け

    端的に言えば、その仕事の意義、必要性、大切さ、影響力を理解し、自発的に取り組む意欲を醸成することでもあるし、配置転換であれば、職場や職務、立場が変わることの意義を理解させることだし、配置転換後の行動に大きく影響する。

    人間という生き物は意義を知れば、自然と行動が変わる。種々雑多な業務があったとしても、意義を知っておれば、優先すべき業務に気付けるし、力を入れるべき業務がわかる。

    仮に定型業務主体の仕事でも、動機付けがあるかないかは個々の仕事の成果を左右するだろうし、であれば、自ずと個々の業務の総和たる職場や会社全体の成果も左右するだろう。トヨタのカイゼン活動を例に挙げるまでもないし、改善し続けるという動機を生み出していることは着眼に値する。

    問題や課題がわかっているのに放置することほど愚かなことはない。

    愚かだと言ってしまおう。

    かなり昔の話だけれど、ある製造業の社長にお会いすることができた。当時、メーカーだけでなく卸や小売業からも経営の神様のように言われたお方で、当時自分の上司が会うことになったのを聞きつけ無理を言って御伴することになった。

    その時、その社長はいくつかのお話の中で「問題解決より、問題発見」だというようなことをおっしゃった。事実、自社の営業マンには問題発見をしつこく求めるのだそうな。問題発見の数と担当する取引先様への訪問回数(これは業務の数値化のような意味合いがあるはずで、評価制度上の基準のひとつだったのかも知れない)。

    この話はいろんな意義を含んでいるので説明しづらいが、観察眼を磨けということがあると思う。安易に解決策に走るより、問題の全体が見えた(見えてからの)方が実は少ない打ち手で解決できることが経験上言える。モグラたたきは問題解決ではなく(愚策であり)、一石二鳥、三鳥を考えるのが仕事であろうし、経営であろう。

    もっと言えば、ボタンひとつで問題のすべてを解決するのが賢いものの選択だ。

    違う言い方をするビジネスパーソンもいるかも知れない。どんな現場に行ってもまず初手は「現状把握」。これも同じことを言っていると言っていい。

    何よりも問題の発見が一番難しいよ、と経営の神様はおっしゃった。

    おまけのように付け足したが、営業マンに訪問回数を求めたのも深いお考えがある。どんな話をするか、どんな提案をするか、そこではないと。若干、昭和のにおいがしないでもないけれど、会う回数が増えれば、自ずと必要な化学反応は起きるということだろう。上司や会社があれしろこれしろ、こういう提案を持って行けだのと言うより、足を運ぶことでそれぞれの取引先様に必要な問題や課題が発見され、明確になって実現する。

    成果はおのずとついてくる。

    こういった話は決して新しい思想でもなければ、むしろうまくいっている会社が昔から愚直に繰り返しやっていることであって、いくらでも書籍などで触れることができることだから、参考にしない手はない。

    実際、この経営の神様にお会いしたのは2010年より前の話だし、トヨタの〇〇みたいな書籍ならもっと昔からある。

    いいことは真似るという単純でいいことをしない会社やビジネスパーソンはその時点で思考停止していると言っていい。停滞は衰退と言われ始めてこれも何十年と経つ。私が社会に出た1998年の時点ですでに言われていた。

    他者から学ばない会社やビジネスパーソンには衰退の道しかない。

    動機付けがあるかないかで、その会社の、その部署の、その職場の程度が知れるし、そこに働く人間の未来を左右するかも知れず、あまりにも責任が大きい。

  • 採用担当になりたい新入社員

    やめておけ。

    私は会社を代表して新卒を採用することにまじめに取り組んでいたとは思うし、自分の会社のいいところもわるいところもなるべく率直に伝えて、過去の成り立ちもこれからの方向性も語ってきた。でも、特に新卒採用という場は若干の興奮状態がある…のは経験者なら少なからず感じることだろう。それがわかっているからこそ、のぼせた状態で就職しないよう、冷静な判断の中で社会に出られるよう、こちらも冷静なふるまいをしてきたつもりだった。

    だから、わかるだろうか。

    これから入社しようとする新入社員に、さっきまで就活生だった新入社員に「〇〇さん(←わたしのこと)みたいに採用の仕事がしたいんです」と言われてしまったら、完全敗北なのだ。

    大げさかもしれないけれど、ひとさまの人生を変えてしまうかも知れない採用担当になどなってはいけない。

    もちろん、決めるのは本人だ。

    それに事実、「だまくらかして採っちまえばいいんだよ」という採用担当も経営者も普通にいる(出会った)。私が採用をしていた会社はそんなことはなかったし、人事関係のメンバーもしごくまじめで見習うところも多かったから、なんの後ろめたさもなく取り組んでいたと思う。

    でも、常に一抹の不安はあった。こちらに後ろめたさはなく、誠心誠意伝えていたとしても、20年かそこらしか生きていない、せいぜいバイトくらいしか社会を知らないひとたちに勘違いさせずに仕事を選んでもらえるだろうか…。

    それが「採用担当になりたい」と言われた日にゃ、完全敗北以外に何があろうか。

    もっと大げさに言えば罪悪感という言葉があるかも知れない。

    もちろん、若いひとたちの判断力や見る目も信じてあげればいいんだけど、それは彼ら彼女らの能力の話で、こちら側の気分とは別の話だ。

    採用の仕事に関わっていたのはもう15年以上も前のことだけど、今なら絶対にしないし、今どこかで採用の仕事をなさっている方にお会いしたら、変な目で見てしまうかも知れない。悪しからず。

  • OJTの原則

    (1)やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。


    (2)話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

    (3)やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

    (1)はOJTの基本プロセス。手順書。

    (2)は上に立つ人、教える側の姿勢。上司観。

    (3)は最終的に教え教わる文化が醸成された組織の話。組織論。

    やってみせ:まず手本を見せる。ときどきできないくせに口だけで説明して、教えたことになっていることがある。手本とは本来あるべき姿であり、本来要求されるスピードやクオリティーを示すことになる。つまり到達点。ただし、かっこよくスマートな状態だけを見せて、ほらやってみろは違う。動きがわかるようにゆっくり見せる必要もある。”やってみせ”だけですでにこれだけのボリュームがある。

    言って聞かせて:いわゆる動機付けの部分。その仕事をやる理由、必要性。仕事には必ず理由があるのだから、それを伝えてできれば内発的動機付けに持っていく。ただ…いまどきはそれがうまくいかない可能性がある。仕事上必要なことと自分がやるかどうかがきれいに分離している人間が割といる。会社なんだから、とか、仕事だから、とか、給料もらっているんだから、とか、そんな話はイチミリも動機にはならないし、これらは外発的な動機付けであり、言い続けないと失われる動機。一方、決まっていることなら理由が何であれやる、という人種もいる。理由なんてどうでもよくて、クオリティーもどうでもよくて、よりよくとか熟練にも関係がなく、決められたとおりに動くのみ、というパターン。だから、動機の在り方も会社目線とかお客様目線とかが通用しない時代。

    ほめてやらねば:ここで誤解してはいけないのは、そのままほめるという意味ではなく、評価するとか、その前に認知するという意味に置き換えておきたい。サンドイッチ話法とかそういうアドバイス方法が端的には出てくるカテゴリーなんだけど、もう少し深い。出来た出来ないの前に、やってるね、と認知する。腕前を向上させるかどうかはその次の話でね。

    話し合い、耳を傾け、承認し:議論できる時点でそうとう出来上がっている観はあるけど。少し前から聞かれるようになった話に「僕の考えでは」をごり押しする若者の話。ここでも会社とか組織の中にいるということをすっかり忘れているのだけれど、会社で決まったことに対し、意見を求められているような状況でもないのに「僕の考えでは」が出てくる。多くはそれって、先人たちによって失敗したこととか、法律に触れることとか、とにかく「やってごらん」すら上司が許可できない内容を堂々と、且つ頑迷に主張してくるパターン。

    任せてやらねば、人は育たず:いわゆる権限移譲。権限を適切に移譲するのは難しい。権限の範囲を設定して、適切な人材に移譲するわけだ。そして組織として成り立つように権限を振り分けなければならない。どうやっても権限と権限の間に隙間もできる。逆に集権化する組織もなくはない。以前投稿した教育に重点を置かない組織では適切な人材に乏しい。正しい判断ができるのは階層が高い人だけ…。まぁ、能力の良し悪しというより情報量の多寡なんだろうけど。集権化すれば、少ない人間で権限を行使できる。スピードが上がるような気もするが、いちいち下位層は上位層にお伺いを立てなければならない。稟議が増える。書類が増える。会議が増える…。下位層や若い層を教育する手間と経費を減らすことは短期的には利益に反映するだろうけど、権限という点では機能不全に陥りやしないか。一応、皮肉を言っておくと上位層が優秀であればいいね。

    やっている、姿を感謝で見守って:資本主義経済の中では、この感謝で見守ってが難しいんじゃないか…。上位層は下位層の仕事をやって当たり前とみている。事実そういう当たり前の面もあれば、当たり前と思ってくれんなよ、と思う面もあろうな。

    信頼せねば、人は実らず:私が初めて平社員から平社員じゃなくなったとき、「信じて頼るな、信じて用いよ」と言われた。人を管理するとはそういうことだと。具体的に人に仕事をさせるとはそういうことだと。

    制御して使うものだと。ずっと平社員だとこの感覚はわからない。ひどいとか言われそうだが、それはあなた方の上司が表に出さないだけで、少なからずそう考えているか、頭を使っていない無能な上司かだ。無能な上司でも務まる組織なら、その組織はその程度のものだろうし。

    では、この場合の”信頼せねば”は如何なる意味だろう。これはもうそれなりの権限を移譲して責任とともに委ねられるほどの存在だろうから、信頼し切って失敗したとしても上司の知ったことではないんだよ。恐らく権限だけでなく、立場(職位)、報酬を頂いてのことだろうからね。守ってもらう立場じゃないんだ。だから、そこに覚悟もあろうから、育つ。

    それをわきまえないと上司は責任を取ってくれるひと、守ってくれるひとという勘違いが生まれる。権限移譲とはそういったドラスティックな面もある。

    この山本五十六元帥の格言とされる言葉は教育の至言の如く語られるけれど、深く考えれば考えるほど、”責任”とかシビアな話と切り離せなくなる。

    決して甘い話ではない。

  • 初期教育の重要性

    平たく言えば、これがないと、もっと突っ込んで言えば、もし会社にそういう思想(育てようという思いといってもいい)がなければ、例えば新入社員に対してよく言われそうな「いつまで学生気分なんだね?」みたいなセリフは30歳だろうが40歳だろうがそ言いたくなる状況が変わらずずっと続く可能性がある。

    仮に初期教育がなかったとしても、日頃から会社つまり上司などが部下に対し、報告連絡相談を求めたり、何か問題があった場合に改善するよう指導する風土があれば、十分気付きのきっかけになるし、40歳になっても自分のミスを処理できない(決して腹を切るということではなく、普通に責任をもって仕事をすることを意味しているのだが、その対処方法は上司に出張ってもらう、みたいなことになったりする)子供みたいな状況がは避けられそう。不平ばかり言っていちいち仕事を止める部下がいても「反論があるならその根拠と代案を示せ」と多少の摩擦は避けられないかも知れないけれど、仕事っぽい議論になればお互いに気付きになる可能性が増える。

    尤も…建設的な議論ができるのなら、「学生気分」くらいは卒業しているんだろうけどね…。

    つまり、本当の意味での”仕事”をしているなら、普段から気付きがあり、自然と成長する機会が発生するものなのだろう。

    本当の意味での仕事とは多分何かに”貢献”することだろう。それは業種業態によって様々だろうから一概には言えないけれど、お客さんとか、利用する人とか、患者さんとか、会社だったり、上司だったりするかも知れない。

    まぁ、後半は時に「上司の顔色ばかりをうかがって」と揶揄される対象になりがちだけれど、見方を変えれば、上司や会社の顔色をうかがって、それが円滑な業務につながているのであれば、そんなにダメなこととは言えない。

    話を戻す。

    日頃からこういったやりとりがないとしたら、文句を言って好きなことしかやらなかったら、ごく一般的な普通の人が成長のきっかけをつかむのはかなり厳しいことになる(一般的な普通の…と言ったのはごく限られた天才は周りがどうであろうと成長できるので、そういう人は省いて考えなければいけない)。

    文句を言って…といったが、文句を言う方がまだましで、黙って好きなことをしないというタイプもいてこれは厄介。

    いずれにしてもやると決まっていることをやらなくて済む状況は本人にとっても会社にとっても大ダメージなように思うけれど、結構ある。

    かくいう私もやらずに済む仕事ならやらずに…と思うことは多々ある。そいつは経験です(笑) 会社から指示は出たけど、この類は立ち消えになるか、中止になるな、と。固まるまで保留するに如くはなし、というケースは結構あった。

    では、日頃の業務次第で、初期教育は必ずしもマストではないのではないかと思うこともあるけれど、果たして現場やそれを監督する中間層のクオリティーも必ずばらつく。つまり、上記のような経験値を高める環境をこさえてくれる中間層ばかりではないから、結局統合的な初期教育を施すことがベースを整えることになるし、少なくともスタートラインが揃う。

    この中間層の力量のことを言ってしまうと、初期だけでなく、継続的に何かしらの統一された教育を施していくのがセオリーなんだろうけど、ここではせめて初期教育だけでも…というスタンスに留めておく。

    スタートラインとは仕事をする姿勢がある一定水準まで引き上げられる、または均一になるということをイメージしている。

    実はこの話は冒頭で何となく察知された方もいるだろうけど、とんでもない地獄をはらんでいる。社員の成長というものを会社がひとつも願わず、本質的に期待していないとしたら。

    経済がいいときの話かも知れない。社員の成長が会社の成長と言ってもらえたのは。

    初期教育をせず、現場任せ(任せますよ、と言っていればまだ救いようがあるが)だとしたら(つまり放任主義といった主義ではなくただの放置)。評価制度という枠組みはあるけど、前述の上司部下間のやりとりがなければ、評価制度のあるなしはあまり関係なく、いい歳して上司の方から訊ねるしか状況把握する手段がないとか、訊ねても報告の的を射ない、上司が何を求めているかがわからない、なんてことは珍しいことではなくなる。

    実は報連相は結構難しい。

    別に上司部下間でなくてもいいのだけれど、相手が同僚でもよくて、つまり、相手が欲しい情報を的確に伝えるのが報連相だろうから、相手の立場や自分の仕事の後工程の立場を理解していないとうまくいかないものなのだ。

    実際の現場では、報連相がなくて、でもなんとなく業務は進んでいて、リレーのバトンのようにバトンの受け渡しはしているけれど、そのバトンが今いったいどこにあるのかわからないし、誰も知らない…なんて状況…例えば、状況が変わっていつもより早めに仕事を進めなければいけない、トラブルがあって修正が必要、のようなことがあっても現状把握ができない、しづらいようなケース。一見流れ作業が円滑に回っているようにも見えるんだけど、イレギュラーに弱い。イレギュラーな状況にいちから現状把握しなければならないとしたら、これは大変だ。タイムリーに現況がわかっていたら、その場で適切な指示も出せよう。

    こういう状況でなぜバトンを受け流すだけのことしかしていないんだろうと振り返ったときに、どうやら教育らしい教育を受けていない、報連相?聞いたことあるなくらいの反応(上場企業じゃないと明確な初期教育はないかもしれない)、中途入社でいきなり現場に放り込まれた、という話にぶち当たるパターン。

    さて、システム上で業務上の期限や進捗報告を求めてくる会社がある。これはそういう時代だし、むしろ漏れをなくし、且つ会社が即座に現場の状況を把握するには好都合な仕組みではある。人間の上司が期限や業務の進捗を確認する手間や面倒を省ける…、負担を減らす、ことが本来の目的だったかも知れないけど、もしかすると、人対人の摩擦を避けるためだったり、今となってはロストテクノロジー(失われたスキル)みたいなもののような気もする。特に薬局なら、専門知識の教育なり体制はあってもマネジメントに関する教育はないのが普通。個人の能力で比較的できそうな人がやっているにすぎない。小売業でもよほど経営層に深い思想(想い)がなければ、それ用の教育はない。

    薬剤師として専門知識が豊富な人と薬局運営とは関係ないし、売場作りが得意な人と店のシフト作りも料理がうまい料理人と店舗経営はやっぱり関係がない。別の能力。

    でも、そこにお金がかけられないのがメーカー(製造業)と違うところ。これは粗利率の問題だからどうしようもない。



    話を戻す。お店や薬局といった職場単位の現場ではシステムを使って進捗管理することはない。毎日会う人同士は言葉でのやりとりがある。システムを介して、どうなってますか?と訊ねることはない。

    まぁ、”ない”とは言ったけれど、デスクワークをやる人の中にはひとこと本人に確認すればいいことでもメールで…という話も実は結構あるから、ストレスなのかもしれないね。

    仕事の核として、どんな仕事でも、期限までに業務を完了させるとか、もしできない(できそうにない)場合には前もって期限を再設定するとか、内容を修正、変更するとか、中止するとか、中止しても大丈夫なのかとか、中止や変更に妥当性があるのかとか、そんなことが日常的に行われているだろうけど、片方でそんな高等なことではなくて、基本的な社会人の姿勢や知識、行動として、わからないことはまずわかる人に相談する、教えてもらう(わからない人同士でごにょごにょ相談しても時間の無駄になりがち)とか、社内規定でデニムやジャージはダメということになっているけど、根拠は会社のルールではなくて、(特にお客さん相手の仕事では)、社会通念の面で違和感(不快感)を感じる人がいるということや、昼休憩は労働者の義務であり権利ではあるけど、労働契約書上は労働時間ではなくても拘束時間であるから、そうでなくてもどこに行くのかわからない状態で職場を離れることが同僚に迷惑をかけるかもということすら、教えなければ(教えなくてはならないのか?想像力の問題と一蹴する向きもあろうけど)、もし、そういったことを誰も知らない環境では、誰もその異常には気付かないということになる。店長や薬局長といった現場監督者(小単位の長)も教わったこともなければ自分から学びに行くことがなければ、そのまま知らないままだし、気付かないままとなる。中途入社か何かで他社での社会経験がある部下がいても、「上司に批判めいたことは言っちゃいけない」みたいな慣習(悪習だけど)がどこにでもあって、特に薬局には長以外にも薬剤師にも物申してはいけない風土があったりする。そうなると間違ったまま何年も過ごし、結構な年齢になる。

    物申してはいけない風土とともに相手に敬意なく失礼な物言いが横行する場…というよりこの辺はやはり家庭環境や育ちが反映しやすいのか、個人の問題に見えることは多い。

    だから、ここまで書くとほぼ躾の範疇かとも思えてくるけれど、上記のようにわざわざ法律や社内規定で定められていることでもあるから、やはり会社側が「こういうものですよ、守りましょう」という場があって然りではなかろうか。つまり、”外に出しても恥ずかしくない”ように。

    せめて、育ちがよろしければ、マナーとして「お昼(休憩時間)、ちょっと外出しますね」とかお客さん商売なんだからマッキンキンの金髪はダメだよね、とか考えるかも知れない。

    尤も多様性…がはやりですから、あまり今までの常識が通用しなくなってきてはいますけど。

    私も若かりし頃、母親から言われた言葉で当時は若干”学生気分”だったことに気付かされた一件があります。大学を卒業してすぐに真っ赤な外車を買おうとした私に「お客さん相手の仕事をするのにその車で出勤するの?駐車場に停めておくんでしょ?お客さんの家に配達もあるんじゃないの?」と。似たような話でだいぶ年齢を経てからある程度経験を積んだ部下から「お客さんよりいいものを身に着けるのはダメだと思うんです」と熱弁を振るわれたり。そんな昔の話ではないよ。でも、お客さん相手の仕事をそうとらえているというエピソードとしては大事な考え方。

    一方で、冗談みたいな「やりたくなーい」「そんなの無駄じゃね?」みたいなことが冗談ではなく、そのまま”やらない”ことに定まって(あるいは好きなやり方でやってしまう)、通用してしまうことも割とあって。何度も言うが、本当にやらなくも大丈夫な仕事というのが結構あったりして、まずます混迷を深めるのだけれど、マストな仕事でも結構簡単にやらない方向で進むことはままあって、「仕事なんだから」と諫めることが無駄なだけでなく、謂れのないパワハラのような身に覚えのない罪状でお咎めを受けたりするから、躾されていない(道徳観がないと言った方が正確か)環境、集団の中では十分気を付けなくてはならない。同じ日本で、そんなに時代差はないんだけど、急速にこの方向に加速しているような気がする。

    単独店舗で利益が出ているのは実は店の運営努力の割合は極めて少なくて、出店した時点(つまり開発の時点)ですでにある程度の規模が決まっている。若干乱暴だとは思うが、調剤薬局についてはその色合いが極めて濃い。隣接医療機関の処方箋発行枚数で決まるもので薬局は受け皿をやっているに過ぎない。処方医の人気か腕に依存している。

    当然、それが永遠に続くはずがない。一番簡単で分かりやすい例はその処方元の医師が何らかの理由で亡くなる、いなくなるという例。これは突然売上がなくなるし、時々耳にする。医師もにんげんだから。確率的にここまでレアじゃなくてもごく普通にドラッグストアはそこから溢れてくる処方箋を虎視眈々と狙っているし、日々誘導の営業をかけている。利用者(患者さんやご家族さん)も門前の薬局でもらう必要性は時間とともに薄れて医療機関の近所ではなく、自宅の近所のほうが便利だと気付く。ましてや隣接医療機関が出してくる処方の在庫すら確保できない薬局の存在価値はかなり低くなる(少なくとも門前薬局にはその隣の医療機関が出す処方薬は備蓄してあるという大前提があるし、それだけの連携をしているし、医師も安心して自分の考える治療をしたいからタッグを組んでいる…と思いたい)。門前の薬局に処方箋が増える要素は発行元の枚数が増える以外には難しく、新規開業開局後の自然増の後、衰退する方向の話はなるべく遅延させるしか手がない。もし、門前薬局の欠品が多ければ、衰退のスピードはさらに加速する。

    開発ありきだと言い切ったが、薬局運営が無力だとは言わない。でも、受け皿としての機能を発揮できなければ、ひはり存在価値を見出すのは難しくなる。

    教育がなければ、処方箋枚数が減ったら…いや減ってからでは遅いんだけど、みたいな商売の法則、ものの見方も知らないまま転がり落ちるように衰退、縮小することになる。現状分析の手法がなければ、他責にするのが人間の性で、よくはないけどやりがちなミス。典型例は「天気が悪い」。これは分析ではないし、永久に雨降りではないから合理性がない。売上が減少し始めるとみるみるうちに業務縮小が進み、仕事が減ってよかったね、なんて寝言が聞こえてきそうだけど、会社は遠くにいても人員削減の口実だけは目ざとく見付けるから、削れるものを削って数字上の利益は出すことぐらいはやってのける。若干飛躍はあるけど、日産は役員給与は変わらず(責任を取らず、という意味)、工場閉鎖して現場従業員をリストラ。薬局やドラッグストアのように大人数ではない業態では、人員は多いほど柔軟に動けるものだけど、業務縮小による人員削減の際は適正化ではなく、数字上の利益を出すためだけの人員配置をすることはままある。原則論としては売上と人員は比例するかも知れないけど、数字が小さくなると当てはまらない。いくら売上が少なくても最低限の人員配置は必要なもの。例えば売上1000万円に対し、スタッフ4人が妥当だとしても、売上500万なら2人、250万円なら1人、125万円なら0.5人と完全に比例させるのは無理が出てくる。きっと250万でも125万でも現実は2人必要みたいな話になるし、売上に関係なく定型業務はある。いずれにせよ、損益決算書も見たことがなければ適正かどうか数字で判断・反論できずしんどい人員で運営することを強いられる。

    体のいいリストラ策になりかねない。

    そういったビジネスパーソンとしての思考を身に付けず働き続ければ働き続けるほど、奴隷化する。上司を言い負かすのが仕事ではないけれど、目上の人に意見するとき、同僚でもいいけど、議論の根拠は数字。それを使いこなせなければ、決められたルーティンをこなすだけになる。さらにやらなくても上司からお叱りを受けずに済むなら、社員である必要もなく(いや会社も指示しなきゃいいんだが)、責任を負わないルーティンだけの業務なら、社員の給料は出ない(会社だって出したくないだろう)。同一労働同一賃金だから、社員と短時間のアルバイトで時給換算に差をつけるのはよろしくないけれど、責任ありとなしで時給に差をつけるなら、むしろ妥当だろうし、勤務時間が長いだけで責任のない社員は一体なんなんだろうとなるし、短時間の勤務だけど、責任をもって職場やお客さんに貢献している人たちが何人も思い浮かぶから、社員も社員の待遇に胡坐をかいていてはいけない。

    働く側がそういう地獄を見ないためにごく簡単でも初期教育は不可欠だろうけど、逆にうがった見方をすれば、戦後の共産主義者のように社員従業員を教育しなければ(知恵をつけなければ)、会社の思うとおりに働かせられる…まさかそんなことはないだろうと思いたいが、状況としては妙に腑に落ちる。

    いずれにしても、30歳、40歳、50歳になっても子供っぽいままだとしたら、それはそれで結構きつい。仕事の出来不出来もあまりに極端に出来ないと困るし、時々だけど、本当にどんな経験を…いや、そんなに経験を積まずに来られたのか?とやばさを感じる人もいなくはないけど、人間として、仕事人として歳相応のスキルと立ち居振舞いができないとそれだけで地獄ではないだろうか。

    とまぁ、立派なこと言っても言ってる本人がそうでもないから、だからこそ努力をね。