カテゴリー: ひとり遠征部

遠征の記録及びアートとしての写真。

  • 三嶽神社(信濃國)

    本殿に詣る。

    御祭神は高皇産霊尊、少彦名命、猿田彦命。

    縄文時代の遺物が発掘されるところを見ると当然何かしらの原始祭祀の場であった可能性がある。

    本殿に参拝した後、向かって右の天満天神社にも手を合わせる。言わずと知れた菅原道真公を祀る。

    その時、背後に人の気配がした。

    それまで誰もいなかったし、社務所も無人に見えたけど、疑わずにほかの参拝者が来たんだろうくらいにしか思わなかった。

    私はそれでもゆっくり手を合わせる主義で、慌てて参拝を切り上げるようなことはしなかった。

    でも、その時木の枝が、太めの木の枝がへし折れるような音がその背後からした。距離にして2mほどか。参拝者が順番を待つような距離。

    さすがに振り返った時、誰もいなかった。

    そもそもそれまで足音もなかった。

    気配だけが背後で待ち、枝の折れる大きな音とともに気配も消えた。

    妙なことが起きた時でも不思議と恐怖を感じない時もあれば、気のせいかもと思えるほど何も感じないこともある。

    今回は違った。

    確実にいた。

    目には見えなかったけれど、確実に。

    これこそ気のせいかも知れないけれど、去り際の後姿を見たような気にすらなった。

    そのあとは何もなかった。

    やっぱり無人の神社だった。

    気配とは何だろうか。

    逆に人の気配に気付かなくて驚くことがある。それは「びっくりさせんなよ」と笑い話で終わる。

    感じる時と感じない時がある。

    自分の側のセンサーに問題がありそうでもあり、発信する側にも訳がありそう。

    忍者は気配を消すことを得意としただろう?

    カリスマは気を発することで人を虜にしただろ?

    背後にいた気配は存在を隠さなかった、上に大きな音まで発して強調した。

    迷惑だったか、参拝したことが。

    先だって”呼ばれないといけない神社なんてない”と否定しておいたが、拒否されているかもなと思うときはある。どこかで書いたかも知れないけれど、島根県の物部神社は典型だった。無風の見たことないようなどしゃ降りだった。夕方だったし、今時日本でも東南アジア張りのスコールは珍しくないし、ちゃんとゲリラ豪雨と専用の名前まで生まれたから、日常茶飯事だと言えばそれまで。

    いつだったか、九州地方の雨雲の厚さが東南アジアの雨季の雲と同レベル、なんて記事を読んだことがあった。

    ちなみに翌朝の再度物部神社参拝は気持ちのいいくらいの晴天の朝だった。だから、神様に試されたんだろうと思うことにしている。

    三嶽神社も試されたか、神様のいたずらか、縄文人の霊かも知れない。

    人間の脳は例えばひとりぼっちの森の中にいると不安が募り、周囲のなんでもない音を集音して、ときに人間の言葉のように変換してしまうことがあるようだ。脳の誤作動のような説明もあるかも知れないけれど、もう少し複雑な挙動のような気がする。何か意味のある言葉、単語に変換しようとしているのではあるまいか。不安、怖れや畏れが不安を搔き消すためのつもりがさらにそれを助長する音声にしてしまう。

    私は幽霊とかそういった非科学的と言われるものを決して全否定はしないし、あるかもなぁと思うことは時々ある。

    でも、必ず科学的に説明できないか試みる。そして、ほぼ客観的に科学的に説明がつく。今回も気配というものは説明しづらいけれど、ひとりだという不安が何かを作り出した可能性は完全に否定できない。人間の神経や脳みそが100%解明されていない以上。そして、朝日の当たり始める午前中の森で温度や湿度の関係で枝が弾けることはこれもすべてを霊的な現象にくくることも無理があるし、ただ、温度云々というほど寒い朝ではなく、前日からご当地としてはかなり暑い日が続いていた…。川や滝が流れる場所ではないから、乾いた感じ。森は日の向きで陰り、日の向きで太陽の光を浴びるから、それなりに環境の変化はあるのかも知れないけれど。

    少なくとも直感は奇妙だと言っている。

    何故ならこの次にお邪魔したのが洩矢神社ですから。神様のほうで好き嫌いがありそう…。

  • 穂高神社(信濃國安曇郡)

    なぜ、安曇氏が海のない山に囲まれたこの地に根を下ろしたのか。

    外洋にまで船が出せる当時のハイテク技術集団が白村江の海戦以降、この地に移住した、おおざっぱに言えばそんなイメージでいいかと思うのですが、いろいろ何故?が多い。

    一番は失われた航海技術でしょうか。どうもこの後、日本の航海技術は消滅したようです。他国へ戦船(いくさぶね)を出した国(そもそも国という体だったのか…)がその後、遣唐使・遣隋使は命がけの航海となり、瀬戸内海航路もだいぶ後世になって開かれた…。もっとも瀬戸内海は外洋と違って浅瀬も岩礁もあって、航海技術としては別物なのかもしれませんが。いずれにしてもロストテクノロジーの観があります。

    いずれにせよ、航海が得意とされた一族が海のない山国に移り住んだ不思議は消えません。

    白村江の大敗。これが分岐点だったのは確かなんでしょうけど。技術者を喪失した。責任を追及された。殺し合いのために船を出すのがいやになった。船を作り直すのに木材が豊富な山国に行ったら、意外と居心地がよかった。需要がなくなった。遣隋使などはローコストで朝廷にすり寄るやつらが出てきた。

    あ、全部妄想ですけど、今でいうAIとか半導体技術を持った一族がその技術を捨てる理由は軽くはない…。

    やめたかった。

    やめるしかなかった。

    やめさせられた。

    やめてみたかった。

    現代のサラリーマンだな。

    いや、現代のサラリーマン視点で見ちゃいけないのか、やっぱり人間社会だから似たようなこと、気分が起こるのか…。

    政治的な従属関係があった…と思い込んでいたけど、それすら正しかったかわからない。請われて船団を組織しただけだとすると政府に従わないという選択も可能だったのかも。でも、白村江は協力した。でも、壊滅させられた。次はないよ、って。次も何も働き手の男子を多く失った可能性もある。技術的な問題とは別に担い手がいなければ、収入源を変えるのは普通かも知れない。東へ行けば行くほど、誰の土地でもない(?)土地もあるだろうし。少なくとも中央政権の手の及ばない領域はあって、自分たちの力だけで開拓しようが、現地の人と協力して発展させようが方法はあっただろうね。

    今はそこに穂高神社があるだけ。祭祀の中に海の民であることを示唆する内容はあるようなので、いつか見てみたい。それに安曇氏以前にこのあたりには縄文時代からの文化があったわけですから、また何層も積み重なっているんでしょう。

  • 高龍神社(越後國)

    新潟の中越に構えるようになって、約一年。実はその頃から通っていたのがこちらのお社。由緒自体はそれほど古いわけではないのですが、ちゃんと(笑)絶壁階段の上にお社があります。かといって、名前から想像するような大きな滝があるわけでもないので、日曜日と言えどそれほど混雑しないのが嬉しい。

    ただね、龍神信仰と名の付くところは清浄な空気を保ちにくいイメージがあるところ、ご当社はこれまたそれほど暗澹としていないのが嬉しい。

    やはりね、欲望だけではダメよ。ちゃんと急階段をあがってらっしゃい?と。

    奥之院に至ってはホントに気をつけて行かないと。

    いつも思うんですけど、こういった奥之院系は安易に行かないこと。歩けばクマさん、車ならそれなりの運転技術。

    車も道の端っこまで寄せられない、すれ違いできるところまでバックで戻るもできないじゃ、困ります。全部対向車任せみたいな。

    人間の欲望と自分勝手をむき出しにしただけに見えますな。

    それこそ、神様に試されてるんですよ、きっと。

    私が奥之院に行った時は金ピカのヘビが道の真ん中でとぐろ巻いてましたけど。

    ちょっとできすぎですよね。だから、目を疑いましたよ。でもいた。

    その後、大金が転がり込んできたという話はありませんが、お仕事はまずまずなのかな。失敗やつまずきはないとは言いませんが。

    でも、もうしばらくは奥之院はご遠慮します。道が細くてこえぇーのとずーっと見られてる感がこれも怖めなんですよね。

    なんかいる。

  • ご先祖様のこと(戸籍謄本からわかること)

    父方のご先祖様は高岡城の門前町と言っていいのか、とにかくお城の前に住んでいた。

    これは戸籍を遡るだけでわかる。

    ただ、このお城の前のおうちはうちから見れば総本家みたいな感じで苗字も違う。仮にa家とする。明治初期に分化したのを仮にb家。更にそこから分家したのがうち。b家とは苗字は同じなのでb’家とする。

    b家は今でも高い石垣で囲われたお屋敷と言っていいおうちを構えている。薬局だったようだ。でも、ここんちに免許がなかったようで、分家たるb’家の娘(私から見れば祖母)に薬剤師免許を取らせ、b家に免許を貸していたんだそう。

    一応、言っておくと当時の免許貸しはそれほど行政の指導も厳しくなく、祖母は十分貯え、二浪してやっと入った(私から見て)親父の医学部の学費も賄えた。伯母も京大だったと記憶しているから、経済的にも頭脳的にも教養的にも優秀だったことがうかがえる。

    もう少し説明を加えると祖母の薬剤師免許だけで何もかも賄えるほどだったわけでなく、本家も総本家も今では考えられないほどの財力がもともとあって、できたことだと推測している。

    さらにちなみにb家は総本家の次男だからまだわかる。明治6年2月に役所に届け出ている。

    一方、b’家は五男坊。次男から5男までみんな分家できるほどの財力がありましたという話ではなく、次男は日露戦役で戦死、三男は夭折、4男は…少々お行儀のよくないお方だったようで、でも紆余曲折があって最終的には20代半ばで分家。ただ、地元ではなく東京市へ。

    私から見て直系の曽祖父の五男さんも恐らく紆余曲折があって20台も半ばを過ぎて分家。それまで何度か養子縁組→離縁を繰り返し、それが当時としては普通だったのか、よくはわからない。chatGTP曰く、”紆余曲折”があったととらえるお答えであった。

    いずれにせよ、それなりの財力と子供たちに教育を受けさせるだけの教養があったおうちだったのは確かだし、そのうえで相当の土地(農地)も抱えていたようだから、収入減に困ることはなかったのだろうと推察。

    今のところ、気になるのは明治維新までの稼業。居住地は戸籍謄本でわかっているので、古地図からどういう町に住んでいたのか、どういう職業に人が住んでいたのか、稼業まで絞り込めるか、というのがポイント。

    自分のルーツを知りたいだけなんだけど、時間というものは当然近い順位わかりやすく、さかのぼればさかのぼるほどわからなくなる。当然、時間軸順にさかのぼると、近いご先祖様のことを知れる。でも、戸籍謄本だけだと職業はわからない。

    高岡城は江戸幕府開府の頃に廃城となっており、同時に武家は石川県側に帰っている。一方、町人クラスは帰りたくても引き続き高岡で暮らすことを強制された。だから、ご先祖様が武家だった可能性はかなり低く、安く買い叩かれたお城の前の門前町にいつの頃からか住んでいた…。ついでに高岡廃城の際に街道筋もだいぶ改造されたようで、高岡城付近は賑わう場所ではなかったよう。むしろモノづくりなどの職人町が発達した…と想像はするけれど、これは調べればすぐわかりそう。

    一時期、自力で図書館の本を調べたけど、なかなか続かなくて、近いうちに図書館側の協力を得て調べようかな。

  • 神様は呼ばない

    神様に呼ばれないと行けない神社があるそうな。

    それをしっかり否定している神職の動画もあったりするが、神様はそんなにヒマじゃないんじゃないかな。

    私は割といつも入口に近い場所に車を停めさせて頂いています。だって、空いてるもん。

    これは神様に優遇されているのではなく、そんな入口に近い場所は空いとるまい、という人間の心理からくるもので、偶然でもなかったりするんじゃないかな。空きやすい場所。つまり穴場というだけのことじゃないかな。

    たぶん、これが誘導員がいらっしゃるような駐車場となるとちゃんと隅から順に埋まるでしょ?

    スピリチュアルを全否定するつもりはないんだけど、割と合理的に考えるとそれほどズレてない説明が付けられる。

    もちろん、神様への感謝に気持ちが向くのはいいけど、どうも選民思想の観があってイヤ。

    もちろん、そういう気分によって気持ちが上向きになったりして、結果神様に感謝するようなことが起きるかも知れない。でも、それを言ったら、神様のお力というより、その人の気持ちの持ちようが大事だって話になる。かといって、そういう気分になれたのは神様のおかげだろうから、感謝はしなきゃ。

    それが信仰なのかな。

  • 彌彦神社の禊場(越後國)

    禊場があるところ、それが神社の入口。

    大きな神社だと入口が複数あって、もちろんどこから入ってもいいんですけど、本来は禊をしてから神域に入るのが御作法でしたので、入口に禊場を設けることになります。

    或いは禊の神様、瀬織津姫を祀った社が入口に鎮座しているパターンもありますが、意味合いは同じじゃないでしょうか。

    手水ももちろん使用目的は同じなのですが、時代とともに簡易的な手水舎になっていったのかな?

  • 彌彦神社(越後國)

    二礼四拍一礼。

    代表的なのは出雲大社がこの御作法でお詣りします。

    単純に出雲系?と考える向きもありそうですが、御祭神の天香山命は饒速日尊の子で尾張氏の祖神、異母兄弟に宇摩志麻遅がいて、こちらは物部氏の祖神。

    御当地、彌彦神社では古式の参拝形式を残している、というような説明をしているようで、出雲との関連は述べていないようです。

    古ければ四拍、だといろいろ引っ掛かります。もちろん、明治維新以降の国家神道を推し進める政策の中で、整理されたものもたくさんありそうですが。

    古くて、尚且つなんらかの系統に乗っているから四拍、となればスッキリしそうなものなんだけど。

    となるとキーワードは物部氏。

    物部氏がこの辺りや日本海側、東北にかけて勢力を張っていたのはそんなに違和感のある話ではない。二田物部神社もあるし、一方、出雲っぽい地名もある。出雲崎もあれば、ずばり出雲もある。おまけに大神系の神社もぱらぱらと見つけることができる。起源まで調べていないので、意外と新しい時代に定まった地名や神社だとあてにはなりませんが、出雲型の古墳(四隅突出型墳丘墓)は北陸三県くらいならいくらかあったはず。

    だから、何かしらの所属部族単位の古式が残っている可能性はたぶんあるんだろうなと。

    ここで終わってもいいのですが、ずーっと気になっているのが、物部氏の出自。

    古事記では神武東征以前に大和を治めていた、しかも同族である神宝も携える饒速日尊を祖とするのだから、これを真っ正直にとらえるなら出雲系ではない。

    けれど、結果的には神武天皇に実権が移り、古代史ファンをもやもやさせたり、わくわくさせたりする。

    結局のところ、饒速日尊含め、物部氏がどこから来たのか…。

    単純に出雲族との結びつきが濃ければ四拍の謎は解決なんですけどね。

  • 榛名湖(上毛野國)

    榛名湖は1年経たず2回行きました。

    山と湖が好き。

    湖の青色がうまくでた1枚。

  • 須々岐水神社(信濃國筑摩郡)

    ご当地開拓は卦婁真老(けるのまおい)を中心とした高麗系のひとたちだったようです。

    のちに須々岐氏を賜姓され、平たく言えば帰化したということなんだと思うのですが、当然、その前から当地の開拓に尽力されていたんだとは思います。

    興味深いのはこの朝の時間帯にちゃんと朝日を拝む形の配置になっていること。

    聞くところによれば、寺院建築が中国から輸入された頃から、大きめの建物は南向きになったそうで。いわゆる「指南」の語源にも通ずる、南を意識した文化が定着していったようなのですが、それは中国大陸あたりの気分で、日本列島では朝日を拝む形が原形だと思います。

    うろ覚えですが、「寺」という文字もそもそも仏教の建物という意味ではなく、大きな建物くらいの意味だったような…。

    きちんとした神社建築がない、小規模な古代祭祀の痕跡を感じさせる場所ほど、実はお日様をお詣りする形になっているところが時々あります。

    もっとも時代とともに建て替わったりして、向きが変わることも全然ありそうですが。

    ふと…壱岐の月読神社の向きは…気になりますね(笑)

    GoogleMapを見ると東南方向に拝む形…ちょっと考えすぎだったかも知れません💦

    どんな文化であれ、どんな民族であれ、太陽を拝まない信仰ってないと思うんですよね。程度の差はあっても。

    話はおひさまの話中心になってしまいましたが、須々岐水神社の神様は渡来の神様か薄川の神様か…。どっちもありそうだけど、中世の諏訪系の影響を受ける直前は水の神様かな。現実的な生活を守るための。更にその前となると、自分たちのルーツを示すような大陸の神様というのが自然だと思うんですけどね。

    ちょっとこの辺は想像です。ありそうな想像をしてみたまで(笑)

    この時見てこられなかったんですけど、針塚古墳というのが松本市内にあって、積石塚なんですって。帰ってから知りました。積石ってなんとなくイメージは朝鮮タイプな感じがするんですよね。須々岐氏が高麗出自と言っているんですから、このあたりに勢力があったって不思議ではありません。

    お社の写真はやはり神様降臨っぽい感じを頑張ってみました。朝の時間はこういう画が撮れます。