カテゴリー: 健康と医療

病気のこと、薬物治療のこと、健康のこと、人体のこと。

  • 症状を抑えることの意義

    かゆみを抑えることで治療の80%は終わったも同然と言われることがある。

    アトピー性皮膚炎が代表例。

    アトピーは強いかゆみから皮膚を搔き壊すことでさらなる悪化を招く疾患という側面があるので、裏を返せば、かゆみを抑えれば、掻き壊しは減り、それ以上の悪化は招かない。

    皮膚を掻くとかゆみを増幅させるヒスタミンが追加で分泌される。

    掻くのはかゆいからで、かゆみはヒスタミンの分泌によるものだけど、掻けばヒスタミンが追い討ちをかける。

    このループが厄介だから、かゆみの抑制が肝心要となる。

    アトピー背皮膚炎と言えば、今なら過剰免疫を抑制するような治療方法もあるけれど、やはりベースはかゆみを抑えること。免疫系の管理は残りの2割なんだと思う。

  • 仕事との距離の置き方(その4)語学

    語学はうつの頭にはいいような気がしています。

    使えるようになれたらいなぁ、ならいいのですが、使えるようにならなきゃ、とか、〇〇検定に受からなきゃ、となるとしんどいし、モチベーションよりプレッシャーが強くなる。

    検定もある程度勉強が進んで、力試しに受けてみるか―くらいの気分でちょうどいい。

    縛りを設けずに正に自分ペースで学んでいくなら、毎日少しずつでも前進するし、小さなことでも毎回学びがある。つまり日々小さいかも知れないけど達成感がある。且つ、わずかな単語であってもやっぱり文法や構文が頭に入らなくても、小さな達成はしているから、片言でも伝わるかも知れない。初めての国でもなにかしらのコミュニケーションが取れるかも知れない。そんな前向きな気持ちの元にもなる。

    私の場合はあるきっかけから、とにかく外国語をもう一度勉強しようと思いました。でも、まったく白紙の状態からではなく、大学時代の第二外国語であるドイツ語ならとりあえずとっかかりとしてはいいだろうと。

    男性名詞、女性名詞、中性名詞、複数名詞によって冠詞が変わることくらいは知っていましたから、英語とは違う難しさがあることも知っていました。でも、英語だと新鮮さに欠ける…。そんな感じの選択でした。

    でも、ある程度進んでいくとマンネリもあってか他の近隣言語にも興味が出て、スペイン語、フランス語、チェコ語、ロシア語、アジア圏ではタイ語、台湾華語に手を出しました。

    スペイン語はドイツ語よりもっと日本人にとってなじみ深いローマ字読みで読めることと時制が多く、極めようと思うと大変なんでしょうけど、簡単な文章なら読めて理解できるまでが早い点で、とっつきやすい。

    フランス語はアルファベットの読みから癖があるので、単語を読むのも若干コツが要りますが、そこはフランス語の癖で、そこさえクリアできれば、読むことが可能になります。やはり、読めることで先に進めるようになります。フランス語は一周することができました。忘れちゃいましたけど、英語でいえば中1レベルでしょうかね。

    ここで語族の話をすると、英語とドイツ語は同じインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語に属する言語なので、系統としてはそんなに遠くはありません。ですが、語順や先ほどの冠詞のルール等々、やはりまったく別の言語です。そこで気付いたのは英語がいかに簡略(シンプル化?)された言語化ということに気付きます。ドイツ語の方が古い様式を残しているのかな?と思ったりしました。

    フランス語とスペイン語はロマンス語に属しますが、やはり別々の言語ですね。どちらかを勉強すれば応用が利くとかいうレベルではありません。まぁ、現地の人たちなら、普段から見聞きしている言葉ですし、共通の単語もあるでしょうから、聞き取りにくいことはあっても手も足も出ないということはないでしょう。

    チェコ語、ロシア語はバルト・スラブ語に属します。突然、単語の感じから違ってきます。個人的にはアジア的な…日本語にありがちな語順が割と自由に入れ替わるようなところがあって、親近感が湧きます。このあたり東欧の言語はそもそも近い感じで、国をまたいでも通じそうなくらい。ロシア語はキリル文字なので読めないと困りますが、音は共通するものが多いです。

    「ありがとう」なら…

    ポーランド語…ジェンクイェン

    チェコ語…ジェクイ

    スロバキア語…ヂャクエム

    ロシア語…スパシーバ

    ロシアだけ違いましたね(笑)

    ハンガリー辺りは地理的には東欧に近くてスラブ語圏に囲まれていますが、ハンガリーは民俗的にアジア系なので、まったく言語が違います。それも語学を勉強して知ることができるおもしろさです。

    私はこうやって、興味本位な比較言語学をやってしまっていたので、いい頭の体操になっていたのだと思います。

    ドイツ語も気付くとテキストの終盤まで進んでいたので、検定も受けてみました。幸い検定レベルの丁寧な発音のドイツ語なら聴き取りはできて、5級4級まではすんなり合格できました。

    でも、そのあと間が空いてしまうとダメですね。

    やっぱり英語ほどの蓄積がないので、続けないとだめです。

    本当は3級くらいまでは流れでいけそうだなぁと思っていたのですが、なんかいろいろあって…。

    いずれにせよ、あまり重い目標を設けず、語学を楽しむとか、私のように文化や民俗と一緒に学ぶとかすると無理せず、続けられるのではないでしょうか。

  • 仕事との距離の置き方(その5)遠征

    だいぶ前から”ひとり遠征部”を名乗って、あちこちでこの名称を使わせて頂いているのですが、ふと気付くと遠征できる人の特殊能力みたいなショート動画を見かけるようになりました。

    まず、私の言う”遠征”とは”ひとり旅”のことです。

    ひとことで言えばひとりで何事も決定を下していかなくてはならない状況に敢えて向かうわけですから、”状況判断”と”決断力”を要求されます。

    更に…というか、遠征のスタイルによっては”計画性”がシビアに求められることもあるでしょう。

    ちょっと言葉を濁したのは”行き当たりばったり”の旅を貴ぶ人には少々注意を促したい…。ほとんどの日本人は”帰宅しなくてはならない期日”を持っているはずだし、旅慣れしていないひとに”自由気ままな旅”を推奨したり、これこそ旅の醍醐味とばかりに褒めそやすのはやめて頂きたいと思うのです。

    いや、特に私に何か迷惑が掛かっているわけではないので、お好きにどうぞと言っていたらいいのかも知れないけれど、日本にだって、何時間も電車が止まらない駅があるんです。逆に時刻表やルートにないけど、行きたいところまで行ってくれるバスがあったりするんです。公共交通機関も以前ほど悪天候で無理はしません。

    「1時間に一本くらいはあるでしょ」は甘い。

    時間のあるお方はいくらでも好きなだけ無人駅で過ごすのもぜいたくというものでしょう。

    ただ、日本人の旅行はごく平均でいえば、せわしない。

    電車と飛行機を乗り継ぎ、夜行のバスに乗る。

    なんだったら安価なLCCは夜中早朝発着。

    タイトです。

    それを事前にリサーチして、タイトな段取りを完璧に遂行しないと成り立たないのです。

    これは田舎や離島ほど、注意が必要です。海外はタイトではない代わりにルーズさが乗り換えの切迫を生む可能性(リスク)があるので、そのルーズさを加味しなければなりません。

    だから、どちらかというとガチガチの”計画性”ではなく、現地で起こり得ることに対する想像力です。

    海外のバスターミナルに行くのに、事前に時刻表は把握しているからといって、ぎりぎりに到着する人はいないはずです。バスの発着がルーズだからということもあるでしょうけど、チケットはどこで買うんだろう、そもそもチケット売場はあるの? 目的のバス停には他の行き先のバスも停まるだろう、見分けがつくようになっているのだろうか? 私は若干心配性ではありますが、リスクヘッジはするべきです。

    ひとり遠征はビジネスに必要なスキルを持ち合わせていないと難しいことであると同時に、遠征とは「無事帰ってくること」が最終目標です。

    無鉄砲な遠征は厳に慎むべきで、遭難や命に係わる事故に遭っても、日本という国はそんな無鉄砲者のために国内だろうと海外だろうと救助しに向かう国で、仮に遺体となったとしても国まで送り届ける国だということを感謝とともに忘れてはいけません。

  • うつと瞑想

    瞑想の効果は頭の中の整理、最適化です。これは睡眠も同じ効果があるので、十分睡眠が摂れるのであれば、それだけでいいかも知れません。

    瞑想は割と体調もよくなって、社会復帰したあとに、お昼休みや電車通勤のときにやるといいかも。

    車の運転中は…ダメそうなイメージだけど、決して目をつぶってしなきゃならないものじゃないから、本質というかやり方がわかっていたら、可能です。

    午前中、少しストレス感じたな…、今日はなんか疲れたな…そんなときにプラスαでできるといいんじゃないでしょうか。

    おおまかなやり方は
    姿勢を糺す。背筋を伸ばして、体を揺らして体幹の中心線を探す。
    丁寧に呼吸をする。

    以上です。

    最初の姿勢ですが、あまり形は気にしなくていいのではないかと思います。つまり、坐禅を組まなくても、電車の吊り革につかまった状態でも構わないのです。

    大事なのは呼吸。

    鼻で呼吸をする。

    吸うときは空気の流れを感じて、「鼻から入ってきてるな」と認識する。空気の流れを感じる。吐くときも同じ。「鼻から出ていっているな」と認識する。別に鼻じゃなくても、腹式呼吸で「おなかが膨らんできたな」でもいい。とにかく息を吸ったり吐いたりじゃなくて、その状態を観察して、「今こういう状態だな」と認識し続ける。

    吸うときも吐くときも一定のペースで吸ったり吐いたりする。3秒で吸ったり吐いたりするより10秒の方が難しい。

    最初は…

    「いーち(吸う)」「いーち(吐く)」

    「いーち、にーい(吸う)」「いーち、にーい(吐く)」

    段々長くする。

    「いーち、にーい…きゅーう、じゅーう(吸う)」「いーち、にーい…きゅーう、じゅーう(吐く)」

    あくまで一定のペースで。最後の方で一気に吸い込んだり吐いたりしない。毎回、満タンまで一定のペースで吸い切って、吐き切る。

    大事なのは一定のペースであることと、「今空気が入ってきてるな」などなどと認識すること。これがどうやら自分の内側を見つめることになって、脳の中が整理されていくらしい。

    脳とは言ったけど、心と置き換えてもいいんだと思う。

    瞑想は決して心を空(から)にすることじゃない。

    むしろ見つめて「今こういう状態だな」と観察すること。

    それが仏教の言うところの「内観」なのかどうかはわからないけど、漢字の感じはそれだと思う。

    ちょっと脱線するけど、仏教の言う「空(くう)」が誤解されて、瞑想中は心を無にする、みたいな感じに理解されたんじゃないかと思うのですが、もちろん、瞑想中に騒がしい心の動きを落ち着かせるために心の中を観察するように言っているんだと思います。

    それに付け加えると仏教の「空(くう)」は心の空っぽではなく、目に見えているものはむなしいもの、ただ、このむなしいという言葉の印象もズレが発生しそうですが、目に見えているものは見る人が違えば、別物に見えているから、こだわったり執着することに意味はないよ、という意味だと思います。それを「空(くう)」と呼んでいるだけで、心を空(から)にしなさいとはお釈迦様は言っていないと思います。

    (参考)

    『仏教瞑想論』蓑輪顕量

    『ヨーガ・スートラ パタンジャリ哲学の精髄』A・ヴィディヤーランカール

  • ダブルチェックは本当に必要か?

    そんなだいそれたことではない。罠でも何でもない。

    ダブルチェックが機能する環境というのは極めて限定的だと思うのです。

    正直、このダブルチェックが継続的に機能している環境を見たことがない。比較的簡単に破綻する。だから、ダブルチェックしたにも関わらず、ミスが通り抜けてしまった場合、まず、トリプルチェックしましょうという発想になるのはほぼ不正解と言っていい。チェックの在り方を検証しないで回数を増やしても同じこと。

    よく言われるのはAさんがチェックしたから大丈夫、2回目のチェックだから、1回目の人がちゃんと見てるはず、結局Aさんか1回目のチェック者だけでやっているのと同じことだね。下手するとAさんが「ほかの人も見てくれるから」と気を抜いたら、誰もチェックしていないのと同じになる。

    ある意味、精神力の問題になる。

    そして、それに気付いている薬局、企業は多いから、チェックの回数を増やすこと➡ただ単に手間(人件費)が増えて、チェックの質も落ちていいことない、のが常識であり、通説なのではないだろうか。

    結局、システムの力を借りて、人間的な先入観を消すのが一番だとは思う。

    あと、可能なこととしてはダブルチェックといっても同じことをやるのではなく、違う角度で確認をする手法だろうか。ひとりは処方箋の文字を見て必要なものを集めてくる、ひとりは出てきたものの名前と数量を確認したのちに処方箋を見る。プロセスを変える。ここまでくるとやはりシステムの方が得意分野ということになろうが。

    ある程度の企業体であれば、この程度のシステム導入はそれほど大きな問題ではないだろう。費用対効果から言っても必要最低限の投資と言えよう。

    ただ、これが小規模な薬局や病院となると難しいかも知れない。システムだって数を買えば単価は下がる、道理だ。でも、メンバーチェンジが少ない環境でもあるので、「大丈夫だ」という自信も慢心も生まれやすい。そのくせ効率的ではないことが多く、且つ人不足も相まって、気合いとか誇りで解決しようとする。

    そこまでいくと昭和的でもなく、精神力でゼロ戦飛ばせと言うに等しい。

    が、しかし令和でも存在する。化石と言っていい薬局(薬剤部)は実在する。それもベテランだけでやっていけるなら、それでいいのかも知れない。ただ、経営的な観点で継続性は低く、継続以前に従業員が有休を使うこともうっかり体調を崩すことも許されない、過酷な環境がある。それどころか、電話当番とかオンコール対応と称して、公休日にやたら電話が鳴る業務が回ってくる。

    一方、小規模とは関係なく、調剤報酬制度の中に夜間休日に喜んで対応することが組み込まれた。

    今回のテーマとはだいぶ乖離しているが、薬剤師は夜間休日という余暇を捨てることを求められるようになってしまった。

    一方、医師は当直はあるだろうけど、しっかり休むようになってきているんじゃないだろうか。ましてや個人のクリニックであれば、盆も正月もGWもSWもしっかり休む。当番があれば別だけど、なければ緊急電話もないだろう。

    この逆転現象は一体なんなんだろう。

    薬局側は単に薬剤師会のアピールだと思う。

    医師の側はワークライフバランス。

    これで十分説明はついたか…。

  • 医薬品の供給が悪化した背景(その2)

    当初、原薬の供給不安が言われた時期がある。当初とは言ったけど、最近は医薬品ごとの出荷調整の理由もよくわからないので、現在も同じ状況なのか、品目によって違うのは判然としない部分がある。

    もともとインドが原薬の供給減だった。インドの特許制度が結構特殊で、製造工程が違えば出来上がりの成分が同じでも勝手に作って問題なかった。だから、あちこちに安価な原薬メーカーが存在して、日本のメーカーもおおいに利用したらしい。薬価の低いジェネリックなら尚更だろう。

    ただ、品質に問題があった。今すぐ明確な問題がなくても、その品質について再確認する必要に迫られるケースがあったように記憶しているし、同じような状況は最近もある。

    いい喩えではないが、インドという国は使い古しのペットボトルにその辺の水を入れて売る国だ。一方で工業国としても目覚ましい発展をしている国でもある。日本側でも当然品質基準があって取引しているだろうけど。

    戦争も物資の供給にマイナスの要因だろう。飛行機が飛ばない、飛んでも回り道することになりコストが高い、船なら通れる海路、日数、やはりコストアップしかない。

    いろんなことが足かせになる時代になった。

    コストと言えば、日本人の給与水準が上がったせいで、日本人が物を作ると当然できたものの値段が上がってしまう。当然ながら、世界の市場に目を向けてコストダウンを図るのは自然の摂理だと思うけど、国内の製造能力は落ちていく(いった)。

    日本人の給与水準が上がったとは言ったが、別に日本人全員が富裕層になったわけじゃない。相対的に物価は上がっているし、海外の人件費の安い商品のおかげでそれなりに裕福に暮らせるようになったに過ぎない。平均的な日本人の暮らしの中のどこにも余っているお金なんてない。

    いまだに中国製品を嫌う人は多いと思うけれど、なんだかんだ言って、人件費の安い国の製品は安く仕上がる。そんなことを言いながらも何十年も作り続けてきたローコストの製品は品質の面で馬鹿に出来ないくらいのレベルになってきている商品も出てきていないか?

    安かろ悪かろと馬鹿にしていた国に結局のところ競争力で負けているとしたら、笑えないんじゃないか。いくらいいものを作っても売れなければ経済は回らないし、作り手は貧しいままだ。買い手も買わないんだから、いい商品の恩恵に預かれない。

    一方、バングラデシュの貧困層の労働環境が問題になったことがあったけど、結局世界の衣料メーカーがどこもかしこも喰いものにしてる構図があるから、問題にして労働条件が向上して、もちろん賃金も改善されれば当然商品(価格)に反映されてしまうわけで、改善を望まない人たちもいる。

    だから、商品を安く作り続けるためには安い原料と安い労働力が必要なんだけど、矛盾も多い。搾取もあろう。商品だけを見ているとわからないことがたくさんある。

  • 医薬品の供給が悪化した背景(その1)

    もう5年以上にもなるか。

    一般の人が興味の湧くようなことを書こうと思えば、製薬メーカーがお上に届けた内容と異なる製法で製造していて、そういうことをやるジェネリックメーカーはやっぱりバッタもんを作るしか能のないメーカーでジェネリックメーカーを貶めれば収まりがいいかも知れない。

    ただ、それは上っ面の話であり、本質ではないし、結局解決しない話になりかねない。

    一応、軽く触れておくと、公定価である医薬品の値段(医薬品と言ってもここでは保険薬に限る)が製造コスト等々を考慮した値段設定ではなく、日本の財源ありきで決まることに問題があろう。確かにジェネリックなら研究コストは加味される必要はないし、保険の負担を減らすのが存在意義だから、安くないと意味はないのだけれど、一方、作っている側は資本主義経済の中で作って売っているのだから、最低限の原料コストを回収できないと商売として成り立たない。メーカーとてボランティアじゃない。

    それらが”企業努力”としてのコストカットがあらぬ方向へ進み、暴露された面はあるかも知れない。ここで、「メーカーの行った違法な行為は許しがたい」などと評論家じみたこと言ってもこのサイトでは意味がない。そこが本質ではないと思うから。まぁ、企業なんだから、コンプライアンスを指摘されるようなことは避けられなかったの?とは思うけど、力学として追い詰められた人がいる以上、追い詰めた人がいる。

    まさか、ジェネリックメーカーが感じなくてもいい圧力を感じて、いけない方向に走ったとでも言うのかね?

    追い詰めたのは国。関係省庁。立法府たる国会。政府。

    そして、一部国民。

    そもそもが保険の負担を薬価切り下げだけでやろうとすれば、無理が出る。無駄な処方をなくす、国民(患者)が無駄に医療機関に行くのをやめる、保険負担を本当に必要な治療のために振り分ける、もちろん若干の動きは保険制度の改変のたびになかったわけではないけど、かなり微弱で、これまで薬価一辺倒だった。

    つまり偏っているんだ。

    税金の無駄使いはなかなかテーブルに乗らないお題だし、議員ボーナスも国民の金銭感覚を考慮した議論にはなりにくい。

    それなのにメーカーへの負担やついでに言えば薬局への圧力はやりやすいようで。

    つまり大枠の話は国のお金の使い方のルーズさが原因。

    診療報酬/調剤報酬の点数をいじるだけでは根本的解決には程遠い。

    わかりやすい例を挙げる。

    がんは治る病気になった、とプロパガンダのように聞こえるんだけど、治療費は相変わらずべらぼうな金額がかかる。高額医療制度により援助を受けることは可能だけど、ありとあらゆる公的支援を受けても途中で断念する患者さんはいる。

    一方、肝斑といって、お肌のシミに対して保険が利き、大量のビタミンCを仕入れ業者のように持っていく。

    もちろん両者の金額差は比べるべくもないし、肝斑を有償化しても大した金額ではないかも知れない。

    ただ、こんな単純な比較検討がなされないと、本当に必要なところにお金が回らない。

    最近は総合病院への受診は紹介状がないと受診できない、あるいは初診料を多めに取られるなどの動きは進んでいるけれど、いまだに持病もない、ただの風邪のために大学病院でなきゃなりませんという人には閉口する。なぜか共通して大学病院にかかることを誇る。

    これと同系統の患者さんに偉い先生にかかっていると誇るパターン。前の院長先生の時から診てもらっているからここでなきゃならない(院長先生はとっくに引退なさっている)、〇〇教授にしか診てもらわないことにしている(重病でもなければ、研究対象になりそうな難病でもない)、など。

    商売をやるとき、一番の着眼点は客数。客数の確保が何よりも大事だけれど、保険の負担を減らすという観点ならやっぱり客数だろう。つまり患者数の絶対数を減らすのが一番効果が出るはず。それなのに商品の値段を上げ下げしているようでは減るものも減らず、利益の出ない商品を作る作り手などいなくなる。

  • A Night at The Opera

    年齢のせいか、名曲を聴いて「えぐっ」となることが増えた。こみ上げてくる。

    Tears In Heavenの「I must be strong」の部分をその一例に挙げた。

    さて、言わずと知れたQueenの名盤『オペラ座の夜』の同名曲。これも共感していただける人がいるものかはまったくわからないけれど、「Mama,Life had just begun」のところで同じ現象が起きる。

    10代の頃、Freddie Mercuryの名前もQueenの名前ももちろん知っていたけど、まだちゃんと出会ってはいなかった。Queenよりも先に動く映像を見たのはFreddieだった。1991年、彼の死の直前の自身がAIDSに侵されていることを発表する記者会見のようなニュース番組の映像だった。

    当時、AIDS自体が治療法も確立されていない、だから彼はその記者会見の直後に亡くなっているんだけれど、同性愛が根拠もなく、AIDSの原因かのように囁かれ(非難され?)、いわれのない差別受けていた時代でもあり、10代の自分には衝撃以外の何者でもなかった。いや、10代では同性愛がいかなるものかもわからなかったし、未知の疾患に複雑な思いを抱きながらも考えさせられたのは間違いなかった。尚且つ、スーパースターと言われる人物がテレビに出た直後に亡くなったと知れば衝撃以上の表現が見当たらない。

    10代の自分といえば、医療を志す受験生であり、ロックをこよなく愛するギター少年でしかなかったんだから。

    ここで糺しておくけれど、AIDSの感染は一部の体液感染であるのみ、ということが重要で、唾液や汗、涙、尿で感染することはほとんどなく、感染力でいえばそれほど強力ではないし、ある一定以上のウイルス量がないと感染しないのは他の感染症と大差ない。同性愛であることはまったく理由にも原因にもならないということ。

    ただ、肛門性交が出血しやすいことから、血液・精液間で感染する可能性が高まりやすいということはあるかも知れず、これは相手が同性異性に関係ないことで、更に不特定多数の人間と関係を持つ習慣があればやはり感染のリスクは増える。これは原則論、一般論として。

    Freddieがどういった性的志向であったかは一応公にはなっていないことになってはいるけど、どうだっていい。彼が誰か大事な人を愛してそうなって、それを受け入れて、亡くなった。

    そして、彼とQueenが作った音楽は今でもぐらぐら心を動かす、それだけで十分なんだ。

    じゃないと「ママ、人生始まったばかりなのに」なんてつらすぎる。彼が生きていれば…と何億の人間が想像しただろうし、可能なら、今だって生き返ってほしいと思う。

    享年45。

    彼の年齢も超えてしまった。

    1991年といえば私は大学受験の歳。その後、ひとり予備校の寮で浪人生活を送りながら、この1年はJohnny WinterとQueenを一番聴きましたっけね。

    そんな時分を振り返るとまたね、いろいろこみ上げてくる…。

  • 仕事との距離の置き方(その3)絵画

    絵はずっと描きたい衝動はあったんだ。

    でも、描きたいものが思い浮かばないし、まじめにデッサンという気分でもない。そもそも高校の美術の授業以来ちゃんと習ったこともない。もっと描きたいものを描きたいというシンプルな衝動でいたかった。だから、折に触れてスケッチブックは買ってみるけど続かなかった。

    ある時をきっかけに変わった。

    ひとつは万年筆。

    もうひとつはテレビを見なくなったこと。

    たぶん、この2点で説明し切れると思う。

    万年筆を使い始めたきっかけ自体はよく覚えていないけれど、大人の筆記用具を持ってみたかったんだと思う。少しいいものも買ってみたけど、結局絵に適していたのは一番安いKAWECOの万年筆だった。その中でも持ちやすさでパケオというシリーズで、恐らくブランドの中で一番安いモデルではなかろうか。

    これがよかった。万年筆で線を引く感覚が気持ちいいのだ。これは確実にうつに奏功したに違いない。

    そうはいっても素人のお絵描きには違いないので、道具にお金をかけるのもなぁと控え気味だった。でも、そのうち色鉛筆に手を出した。最終的にはホルベインがよかったような記憶がある。色鉛筆で満足しようとその時は思っていたのに、絵の具に手を出した。でも、知識がないので、高校の美術の時間に多少使ったことのある、アクリル絵の具を手に入れた。やはりホルベインだった…といっても日本海側の田舎都市で絵の具を買えるところなんてそうはないんだよ。ホルベインは某ホームセンターにもフルラインナップで置いているし、オンラインでも購入可能。

    そもそもアクリル絵の具には2種類あって、ポスターカラーのようにベタ塗りしかできないタイプと重ね塗りして映えるタイプと2種類あった。当然後者。

    ただ、技術的な話にはなるけれど、絵の具は混ぜれば混ぜるほど濁る。なるべく少ない種類でイメージする色に近付けないときれいな色にはならない。

    そもそも絵が描けるようになった、つまり描きたい絵がイメージできるようになったのはテレビを見なくなったことだ。これは間違いないと思う。

    当時、自分の部屋は2階にあったけど、わんこが年齢とともに階段の上り下りができなくなった。それなら自分は1階に居を移せばいい。ただ、残念ながら1階にはBSがつながっていなかった。その頃すでにテレビといっても大河ドラマくらいしか見ていなかったんだ。がちゃがちゃしたバラエティーだのどこかの企業のマーケティングを反映させた情報番組なんて、脳みそのゴミにしかならなかったし、そもそもうつの脳には受け付けなかったんだろう。

    そんな経緯から脳みその中のゴミが徐々に排除されたんだと思う。

    3年半で300枚描いた。

    狂気の沙汰…ではなく、頭に描かれたものを写しているだけのことだった。

    当然、脳内でのイメージ化の方は早く、手で描く方はそれより劣る。そこは若干の根気が必要だった。描く方の技術は誰かに教わったわけではないから、下書きだけで終わっている作品もあった。でも、いつか続きは描くと思う。

    この1年は転職もあって、だいぶ描くペースは落ちてしまったけど、描くというベースはできているからいつでもまた描き始められる。絵の具は使わないでいるとだんだん固まっていくからそれだけは気になってはいるけれど。

  • 10年後の姿

    アメリカのドラッグストア業界を視察しに行ったとき、この業界だけじゃないけど、「今のアメリカの姿は10年後の日本の姿」とよく言われた。

    日本のドラッグストアがこぞってお手本のように名前を挙げたウォルグリーンの薬剤師は年俸1000万円で、物価を加味すると2000万円相当の仕事をしていて、お店では薬剤師が予防接種をする…。それだけの知識と権威がある…と。

    だから、日本も10年後は…そうなると言われていたけど、そうはならなかった。日本の薬剤師とドラッグストアにはそれだけの力量がなかった。

    理由はいくらでも思い当たるけれど、他責にしても仕方ないので、やはり自分たちの力不足だったんだろうと思う。ついでに言うなら、ドラッグストア経営者の理念のなさがあったんじゃないか?

    コロナの頃、ドラッグストアは予防接種の場にはならなかったし、製薬メーカーには予防接種も治療薬も製剤化できるネタが何もなく、「うちがやります」と名乗りを上げたメーカーもその時点では何か手立てがあるようにも見えず、株価は冷え切ったままだったっけ。でも全国の国立大学が自前のストック(研究の蓄積)を披露し始めて、頼もしかったねぇ。

    ここにこの業界の闇を感じたひとは少なからずいたはず。

    国立大学の研究者は苦しかろうが、自分の信じた研究を続けていらっしゃる。でも、メーカーはもうからないものにお金は出さない。国も出さない。でも、昨日今日国が支援をし始めても商品にはなるのはいつのことかまったく先が見えない。

    仮に今日から製薬化学分野に国が支援を始めても日の目を見るのは早くて10年。国立大学が秘かに積み上げてきた実績を買い取るのが早道か…。

    いずれにせよ、死に体の医薬品工業を再興するのは時間とお金がかかることだろう。