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  • 機動戦士ガンダムのテーマ

    根底にあるものは「非戦」だと思う。

    そして戦争に善悪も正義・非正義もないということ。

    それまでの戦いがテーマにあるアニメ(特撮でもいいんだけど)では正義が悪を挫くことになっている。

    ガンダムを見てその形式に当てはめる人はほとんどいないんだけど、興味のない人があれを見たときに正義(白いモビルスーツ)が悪(角の生えた赤いモビルスーツ)を倒すストーリーに見えるらしい。

    それを聞かされてハッとするのが、ガンダムを最初から見れば当たり前なのかもしれないけど、味方にも敵にも正義があって、戦う理由がある、しまいには軍とか国とか組織のイデオロギーだけでなく、個人個人に戦う理由があるということに気付かされる。

    今となれば、あれが大人のアニメとなったことは誰もが認めることだと思うけれど、始まった当初は子供のアニメだったわけでさ。

    だから、敵と味方はあるんだけど、イイモンとワルモンはないんだ。

    ドズル中将閣下は悪人面だけど、子煩悩に描かれていたし、戦う理由があった。シャアは私怨のため、父の敵討ちのため、敢えて敵側の軍人として敵さえ利用して、敵を討つことに情熱を燃やしたし、彼にしかわからない理由があったんだ。妹すら理解できない理由がね。なんだったら、ザビ家にだって、ジオン・ダイクンを消して簒奪した理屈がある。良いか悪いかの二極でとらえることは無意味なんだ。

    故に戦うことも虚しさが漂う。無意味だとは言わない。今言ったようにそれぞれに理由があって、それぞれの人生の中でやるしかなかったんだろうから。でも、それぞれに訳があるからこそ、議論にもなり得ないし、理解し得ない。

    ただ、理解しあえないよね、おしまい、とはならなかった。おしまいなら、殺しあうことをこれからも続けていくし、非戦とは言えない。

    ニュータイプはもとは宇宙に出た人類が上下左右のない空間認識を鋭くしていった覚醒した人類という設定から始まったのだと思う。徐々にひととひとの心に焦点が向いた。愛とか情のようなものとはちょっと違うと思う。”認識しあう”くらいの感じか。face to faceの認知ではなく、空間や時間を飛び越え始める。ここだけ聞くとエスパーのようなもの?とブライトさんに問い質されそうだけど、誰もが覚醒しうる。

    アムロは覚醒した特別な天才とみることもできるけれど、普通のメカマニアが宇宙とガンダムという最新鋭機器と戦争と強敵との遭遇と…いろんなものが揃えば覚醒しやすい条件としては十分だったんじゃないか。

    ニュータイプが殺し合いの戦争の中でお互いに理解しあえる存在になる、それがつまり非戦だと思う。

  • 戦争の話をする前に…

    政治家の皆さんへ

    日本が戦争をするか否かの話を始める前にまず、ご自身のご子息を自衛隊に入隊させなさい。

    娘さんしかいないのであれば、娘さんのパートナーを入隊させなさい。

    お子さんがいないのであれば、パートナーでもいいし、結構しない主義なら弟さんでもいい。

    それから、日本がどういう方向に進むかを議論なさい。

    過去にも同じようなスタンスでSNSに投稿したことがあります。

    決して戦争が良いとか悪いとかそういう薄っぺらな野党が言うような話をしたいんじゃない。

    ルール無用で侵略して切り取り次第、と思っている国や国家元首が世の中にいるという現実に対して、真剣に考えないとぼんやりしていると日本はなくなるよ、と思うから。でも、一方でやっぱり現実としてたくさんの人が亡くなるのも事実で、そこを認識しないで戦場から遠く安全なところで議論されても困るわけです。

    だから、国会議員になろうという人は家族を自衛隊に預けてから立候補すること。

  • お釈迦様の話

    お釈迦様の言うことがわかるようになってきた、という話。

    お釈迦様がリアルに語った言葉として伝わるのは『スッタニパータ』や『ダンマパダ』だけと言われていて、それ以降の書物は教団が大きくなって権威付けしたり、派閥間の対立があったりして、ちょっとずつお釈迦様イズムから離れていった経緯があるようです。

    実はもっと若いころにもチャレンジしたのですが、全く歯が立たず、理解できず放置していました。いや、仏教徒にはなれんのだろうなぁとすら思っていました(笑)

    私はお釈迦様を宗教者というより哲学者だと思っています。もちろん人間とか人生とか生と死とか、そういったものを根源的にとらえているので、宗教者と言って全く問題ないとは思いますが。

    理由はいろいろありますが、お寺さんを訪ねるようになって、あるいは自分なりに日本仏教を勉強するうちに自分は仏教徒にはなれんなと思うようになりました。さきほどの『スッタニパータ』を読みこなせなかった時とは別に理由です。あとで気付きますが、お釈迦様が言ったこととは違ったからだと思います…というのは時間軸が逆で、日本仏教の勉強はしたけれど、全然しっくりいかず、そのうちそれなりの年齢になって、『スッタニパータ』などを再チャレンジしたら、なんのことはない、こっちの方が自然だわいとなったのが正しい流れ。

    ですから、日本仏教は長い伝来の過程の中で独特の進化をした日本独自の宗教なんだと思うようになりました。客観的に言って間違っていないと思います。

    私はクリスマスも好きじゃないんですよね。一緒に祝うような人もいないことが多かったし、何よりも大学の推薦入試のために某市の新幹線駅に降りたのがクリスマスイヴで、賛美歌を歌う人たちを見て…卑屈ですよね…クリスマスが嫌いになって、それでも毎年家ではケーキは出てくる。そんな平均的日本人から若干のゆがみは含むもののそう遠くない日本人です。

    で、なぜお釈迦様?かというと先ほども述べたように哲学者として見ていましたから、10代でカミュの『異邦人』を読んで衝撃を受けたのと同一線上です。お釈迦様という哲人に興味があったわけですね。

    日本人以外の世界では日本人を見て不思議に思うというじゃないですか。年始に初詣、教会で結婚式、お寺でお葬式。細かいことは別の機会にお話しできればと思うのですが、こういった姿勢は私の中で”日本教”として、理解することで一応決着したんです。その細かいことにひとつに日本の伝統宗教が日本人の心のよりどころとしてあんまり頑張ってこなかったんじゃないかっていう結論があります。その結論にたどり着くプロセスの中で、日本の仏教は日本仏教であって、原点たるお釈迦様の言葉とは距離がある…というより別物と言っていいくらい変貌した。それは別に良い悪いではなく、日本仏教はそれぞれの時代に日本に合ったものを発明したんでしょうから、問題はないと思っています。念仏さえ唱えれば、とわかりやすさが大事だっただろうし、心の平安のために座禅が大事だと考えたのはお釈迦さまも同じだし、ただ、そこからの進化は世の変化とともにありましたか?と。日本の一般の人たちは日本教を創設することで満足?することになったんです。日本人はなんでも柔軟に自分たちのものとして取り込んでいく…と良きにつけ悪きにつけ言われますが、神社やお寺は日本教の一部として登場はするものの主役ではないんです。そこのところは金まみれの新興宗教や強引な勧誘の問題を挙げるまでもなく、伝統宗教の怠慢はなかったかと投げかけておきたいと思います。

    ただ、こうやってお釈迦様を語る時点で、お釈迦様の言っていることがまだまだわかっていねぇなぁと暴露しているようなところは否定できませんがね。