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  • 引き際が肝心

    ではあるけれど、この御時世、よほど裕福な人でない限り働き続けなければならない。

    ただ、その社会との付き合い方は変わってきていい。

    戦う必要はない。

    争う必要はない。

    何か言って聞かせて糺してやる必要もない。

    仮令、それが自分の生き様に反しようとも、主張してまで、相手にわからせてまで、筋を押し通す必要もない。

    仮令、そやつが無法者だとして、聞き分けのないクズだとして、正しい道に導いてやる必要もない。

    それが仮に他者に害を及ぼすものとしても、俺自身が何とかしてやらなければと責任を感じる必要はない。

    別に痛い目に遭えばいいと突き放しているわけじゃない。俺が俺という人間の身の程を知っているだけで、そこにエネルギーを使う筋合いはないと思うだけ。

    きっとそういう人は適切な時に適切な人に導かれていくものと思いたい。そう、俺の出番ではないと思うだけのこと。

    ただ、そういった巡り合わせが必ずあるわけではないようで、自分より年上の人でも弁えというものを持ち合わせていない、改心する機会に恵まれなかったのか…、見るにつけこちらが恥ずかしくなる人間も少なくない。

    それはきっと私への戒めなんだろうと思い、誰かが遣わした先生なんだろう。

    いずれにしても、あれにもこれにも責任を負う必要はない。あれもこれもできる必要はない。

    ただ、何かひとつだけ守らなきゃならないモノ(またはコト)があるように思う。

  • 人生に無駄はあるのか。

    無駄はある。
    人生に限らず、なんでも無駄なくことを為せることは極めて少ない。

    どんな天才もド真っ直ぐ生きることは難しいだろう。

    人生は常に取捨選択を迫られている。そのときそのときの選択が正しかったかなどとすべて検証なんかしていられないほど、日々、そして連続的に右か左かを迫られている。

    ふと振り返って、あのときの選択は…と思い悩むこともあるけど、どこかで折り合いをつける。後になってみると遠回りの選択をしてしまった自覚はあるけど、ああいう出会いや発見もあったし、正解っちゃ正解だよね、と。本来の主旨とかコンセプトから言えばズレてしまっているんだから、間違いだったと素直に認めるべきなんだけど、周辺の副産物のおかげで有耶無耶にされ、誤魔化されてしまっているだけ。総合的にはまぁまぁだよね…という見方も大事だろうけど、当初の方向性に照らしてどうだったか、という見方をすっかり忘れてしまっては、そこに反省や検証は発生しない。

    スピードありきのつもりが遠回りしたなら、所要時間が判断基準だし、副産物がを得たのは想定内のことならまだしも、偶然となれば、それでよかったよかったとはならないし、してはいけない。そこは切り分けたうえで、期日はどうだったのかをドラスティックに評価したうえで、別枠として想定外に得られた副産物を取り扱うべきだろう。

    そういう評価を冷静に出来ていることが前提として、遠回りだったことを単なる遠回りとするか、必要な遠回りだったか、無駄な遠回りだったかを見つめるべきだろう。

    ただ、それがどんな遠回りだったとしてもそれを認識したことがほぼすべてではないかとは思う。つまりこれに関してはPDCAでいうならば、Cの検証でいいじゃないの?ってこと。わかっているかどうか大事。そして、それを見て、精神論ではなく、冷静に無駄でしたね、と言えないとダメ。

    だから、無駄はある。

    ちゃんと認識する。

    精神論に騙されない。誤魔化さない。

  • 人生、苦労は必要か。

    これを人生訓のように言うのは若干違うとは思うのだが、ある程度は賛成。

    苦労はすればするほどいいとは思わない。

    逆に苦労知らずはどこかでつまずく、とかいう根拠のない戒めも果たして正しいだろうか。

    苦労をすれば人間としての経験値は上がるのだろう。難しい状況や失敗をリカバリーしなくてはならない状況に出会えば、乗り切るための知恵や工夫が必要になるから、トラブルがない人生より脳みそは働きそうだ。

    ただ、人生何の苦も無くやりおおせる人たちもいる。苦労と思っていないだけなら、それなりに実際には知恵や工夫のために脳みそは働いており、”苦労なし”ではない。

    更にトラブルにまったく巻き込まれず、サラッと生きてきている人も一定数いるように思う。

    サラッと見せているのか本当にそうなのかはわからないけれど。

    ここでスピリチュアルな話をしようとは思わない。

    運がいいにも根拠があると思うから。リスクを自然と避けている人は結構いるし、トラブルの多い人を見れば、わかりやすいかも知れない。

    深く考えない癖で二言目には「まいっか」と誰が見ても「十中八九失敗しそうだな…」と見えてしまうタイプ。深く考えない、考えが浅い、たいした経験や知識もないのに自信過剰…。

    他には悪い友人の誘いを断れず、ずるずると乗ってしまうタイプ。友人だけでなく、喫煙のような悪習慣も同様。

    タバコを吸わない人から見れば、タバコを吸っている人や「やめられないんだよね」と言っている人の言葉なんて、間抜けにか見えない、ということになる、自分からリスクを背負いに行っているんだから。

    だから、運がいい人の中にはちゃんとリスクを予見して避けられている人と見ることもできるから、あながち経験値が低いとも言えない。

    一部の何か人智を超えた力に守られている人はここではちょっと取り上げないでおこう。

    いずれにしても、苦労はしなくてはならないものではなく、しなくてもその人の力量とは関係なさそうだと言える。

    ただ、自分たちのように凡人は若干の苦労でもないと真剣に取り組む状況が生まれず、怠惰な人間になってしまうかも知れず、そんな人生の注意喚起のためにも多少の苦労は必要なのかもしれない。

    一方、やたら苦労が多い人というのもある。決して頭が悪いとか無鉄砲とか、そういうわけではなさそうなのに。ただ、物事を悪い方にとらえると言動にも表れるかも知れない。言動なら気を付けて避けられるかも知れないが、習慣化したり、とっさに判断、選択しなくてはならない場合に、”とっさ”だけに本能的に、感覚的に、普段の思考の癖が出てしまう可能性は高い。

    人生は常に右か左かの選択に迫られている。選択の連続だと言える。そんな状況の中で、常に自分の癖が出ないように情報を精査して整理して、偏りなく判断し続けることなんてまず不可能だろう…。つまり、ひとことで言ってしまえば、日頃の思考回路が日々の選択に影響し、知らず知らずのうちに”負”を引き寄せているのかも知れない。

    かも知れないといったのはほぼ脳みその中で処理されてしまっていることで、目に見える現象は選択の結果と「なんかよくわからないけど、うまくいかない(まわりもそれに影響される)」とか”なんかよくわからない”けど、結果いい方向にいかない。恐らく、ひとつひとつの選択は大きくは間違っていなさそう…。

    世の中には試練を買ってでもしたがる仁がいる。先ほどから”選択”とは言うけれど、選択の仕方にも趣味趣向がある。楽かどうかで道を選ぶ御仁もいるだろうし、儲かるかどうかで判断する向きもあろう。判断基準はひとつではないし、その時々で適切な基準を以て判断できる人もいる。

    基準がひとつではない以上、決して答えは同じにはならない。ひとそれぞれ答えが違ってくる。

    それが順調を示すものか困難を示すものか、誰にもわからない。こうやって、あとになって、うまくいくやつといかないやつがいるなぁと見て取れるだけだ。

  • 異邦人

    身の上に何か大きな事件・事故といった出来事が起きてしまっても、日常という毎日はやってくる。

    その日常を続けたことを責めるのは倫理観とか個々の価値観に拠るものだろうし、なにかひとつに決めることは難しい。

    ひとは完全に自由にはなり得ないけれど、許されていい勝手もあって、ときにそれが侵害されて、非難までされる。

    この作品の最大の山場はそこだと思う。

    非難する大衆。その非難に疑いを持たず、むしろ正しいと思ってひとりを袋叩きにする大衆。

    かと言って、袋叩きにされている方は反論するとか自分を正当化するとかでもない。何だったら、動揺も憤慨もない。

    その理不尽と呼ばれる状況に反応しないのもひとつのスタンスだろうけど、この無感情さが実存主義なんだろうか。

  • 孫子の兵法(3)短期決戦

    最小の労力で最大の結果を出さなくてはならない。

    出したい。

    かと言って、労力を惜しんで失敗しては元も子もない。

    ありとあらゆる準備はするけれど、投入する労力をダラダラ使い続ければ、やはり無駄が増える。

    イニシャルコストよりランニングコストを管理すべきという話にもなるし、自動的に短期決戦という話になる。

    最小の労力とは何も人員やお金だけじゃない。見方を変えれば時間だって労力だし、時間は無料じゃない。時間が経てば経つほど、人は飯を食い、給料が発生する。それだけでなく、疲れてパフォーマンスも落ちる。リアルな戦争だとパフォーマンスの低下は致命的になり得るし、死者の数にも繋がる。国を失うかも知れない。

    リアルな戦争なら誰も死なないことなんてないんだから、考え得る最大限の準備をして、一気呵成に決着をつけるのが一番損失が少なくなる。

    それが最小限の労力で結果に結び付ける方法だろう。

    何度か最小限とは言ったけど、出し惜しみせよという意味ではないこは前述したし、むしろ考え得るすべての準備をしたい。そして、最終的には費用対効果のバランスは取らなくてはならない。

    ありとあらゆる戦力を投入しても全滅したのでは何のために戦うのかわからないから。

    最後のひとりとなっても戦い抜くのは誇りのためだというなら、それはそれでいいけど、生き残って再起を期するのも選択肢としてあるだろうし、すべてを失ってまで戦い抜くのは国を守ることにはならないだろう。

    結局、何のために戦うのかを考えれば、実情がどうであれ、短期決戦を念頭に置くのが冷静な戦術と言える。

    兵は拙速を貴ぶ。

  • 孫子の兵法(2)意外性

    兵は詭道なり。

    あまりにも有名すぎて使いたくはないけれど、この言葉に象徴されるから仕方ない。

    いずれにせよ、敵を欺くこと、敵が思っていることの裏をかくこと、意表を突くことで、こちらも味方戦力の損害を最小限に敵を叩くこと。

    ここでもやはり”損害を最小限に”という哲学が根底に流れている。もうひとつは戦争を終わらせることは即ち敵を徹底的に叩くこと。徹底的に叩くことで敵の繊維を挫き、なるべく早く降参を促すためであろう。

    徹底的に敵を叩くことで云々の部分はクラウゼヴィッツの『戦争論』だったかも知れない。

    混ざっていたら申し訳ないが、国の戦争を受け持つひとたちは一番戦争をしたくなくて、なるべくひとが死ぬのは見たくない人種なのだと思う。

    真剣に戦争するひとは真剣に戦争を回避することを考えるし、ひとが死なない方法を真剣に考えた(と思いたい)。

    敵味方の正面衝突ほど損害の大きい戦い方はないんだろう。それでは数の大小で勝敗が決まってしまうし、単純な引き算で勝敗が決してしまい、小国の方はやる前から全滅が決まってしまっている。

    10,000人対1,000人の正面衝突が仮に1,000人側が最強の精鋭だとしても、真正面の斬り合い撃ち合いになったら、10,000−1,000の引き算で勝負は決する。

    小国とてやりたくない戦をやらねばならない状況もあっただろうから、そんなわかり切った引き算の戦争なんて無意味以上に損害しかないことになる。

    歴史を見ると常に劣勢の寡兵が大軍を打ち破る武勇譚が登場するけど、いくらか話を盛っているとしてもやりようはあって、大軍に大損害を与えて、引き分けるかその大軍を退却させることは可能なのだろう。

    それが数を宛てにした力押しの戦法ではなく、寡兵なら寡兵で敵の意表を突く戦法しか方法はない。

    思いがけない場所に出没する、思い込みという常識の裏をかく方法を採る、とにかく相手が思いつかないことをやる。

    ナチスドイツが敵を欺くために異常なスピードで進軍し、敵の計算より何倍も速く移動した、まさに意表を突く戦法を取ったことがあったけど、これはある種の薬物を兵に投与して三日三晩一睡もせず進軍したというのが種明かしのようだから、戦争というのはやはり狂っていないとできないことなのだろう。

  • 孫子の兵法(1)非戦

    世界最古級の戦術書が述べるところの最大のテーマは非戦ではないかと思う。

    ”兵法”とあるから如何に戦うかという話になりがちだけれど、ことの本質は違うと思う。

    どんな戦も始まる前から始まっている。

    ほんとのほんとに殺し合いになる前から始まっている。

    できれば、その殺し合いになる前にその殺し合いを回避する方法を模索する。

    『外交』だ。

    できるなら、双方の国民が誰ひとり死なずに解決できれば、それに越したことはない。仮に斬り合い撃ち合いになったとしても最小限の被害に留めたい。

    それは最終的に勝っても負けても被害を最小限にしないと勝ったとしても自国民が大量に死に、街も破壊されてしまっては負けた国を占領するまで手が回らないし、負けた国から何かを奪うために戦争を仕掛けたのではなかったか。それなら、負けた国を完全に駆逐してしまってはやはり復興に手がかかる。

    自国も敵国も傷だらけでは復興も何もあったものではない。

    日本神話に出てくる戦はどこかのんびりしていて、殺し合いをせずに譲り合いとか同盟とかによって共同して国土を発展させましょうという形が定型になっている。

    事実はどうであれ(神話だから事実がどうとか議論しても仕方ないという考えもあるだろうけど、一応、私個人のスタンスとしては歴史的事実を何かしらの形で反映したものととらえています)、勝ち組の作った神話としては勝ち組によって国が繁栄した体でないと神話の存在価値もないから、その繁栄の背景は日本神話の場合、”非戦”だったのではないだろうか。

    いずれにせよ、孫子の時代から可能なら戦闘を避けたい意志は十分あったはずで、そのために考えられることは外交努力だったのだろう。

    当初は戦闘を避けるための外交であり、開戦となれば損害を最小限に終戦を迎えるため、戦争を終わらせるための外交だっただろう。

    歴史を見ても多くの戦争が泥沼化して先が見えない状態となり、両者がボロボロになって終わる。仮にどちらかの国力が優位であっても、やはり殺し合いをした後の終戦は難しいことなのではないか。

    長引けば長引くほど、終われなくなる。

    だから、回避できるものならしないに越したことはない。

    それが『孫子の兵法』の根底に流れる最大のテーマだと思う。

  • 機動戦士ガンダムのテーマ

    根底にあるものは「非戦」だと思う。

    そして戦争に善悪も正義・非正義もないということ。

    それまでの戦いがテーマにあるアニメ(特撮でもいいんだけど)では正義が悪を挫くことになっている。

    ガンダムを見てその形式に当てはめる人はほとんどいないんだけど、興味のない人があれを見たときに正義(白いモビルスーツ)が悪(角の生えた赤いモビルスーツ)を倒すストーリーに見えるらしい。

    それを聞かされてハッとするのが、ガンダムを最初から見れば当たり前なのかもしれないけど、味方にも敵にも正義があって、戦う理由がある、しまいには軍とか国とか組織のイデオロギーだけでなく、個人個人に戦う理由があるということに気付かされる。

    今となれば、あれが大人のアニメとなったことは誰もが認めることだと思うけれど、始まった当初は子供のアニメだったわけでさ。

    だから、敵と味方はあるんだけど、イイモンとワルモンはないんだ。

    ドズル中将閣下は悪人面だけど、子煩悩に描かれていたし、戦う理由があった。シャアは私怨のため、父の敵討ちのため、敢えて敵側の軍人として敵さえ利用して、敵を討つことに情熱を燃やしたし、彼にしかわからない理由があったんだ。妹すら理解できない理由がね。なんだったら、ザビ家にだって、ジオン・ダイクンを消して簒奪した理屈がある。良いか悪いかの二極でとらえることは無意味なんだ。

    故に戦うことも虚しさが漂う。無意味だとは言わない。今言ったようにそれぞれに理由があって、それぞれの人生の中でやるしかなかったんだろうから。でも、それぞれに訳があるからこそ、議論にもなり得ないし、理解し得ない。

    ただ、理解しあえないよね、おしまい、とはならなかった。おしまいなら、殺しあうことをこれからも続けていくし、非戦とは言えない。

    ニュータイプはもとは宇宙に出た人類が上下左右のない空間認識を鋭くしていった覚醒した人類という設定から始まったのだと思う。徐々にひととひとの心に焦点が向いた。愛とか情のようなものとはちょっと違うと思う。”認識しあう”くらいの感じか。face to faceの認知ではなく、空間や時間を飛び越え始める。ここだけ聞くとエスパーのようなもの?とブライトさんに問い質されそうだけど、誰もが覚醒しうる。

    アムロは覚醒した特別な天才とみることもできるけれど、普通のメカマニアが宇宙とガンダムという最新鋭機器と戦争と強敵との遭遇と…いろんなものが揃えば覚醒しやすい条件としては十分だったんじゃないか。

    ニュータイプが殺し合いの戦争の中でお互いに理解しあえる存在になる、それがつまり非戦だと思う。

  • 戦争の話をする前に…

    政治家の皆さんへ

    日本が戦争をするか否かの話を始める前にまず、ご自身のご子息を自衛隊に入隊させなさい。

    娘さんしかいないのであれば、娘さんのパートナーを入隊させなさい。

    お子さんがいないのであれば、パートナーでもいいし、結構しない主義なら弟さんでもいい。

    それから、日本がどういう方向に進むかを議論なさい。

    過去にも同じようなスタンスでSNSに投稿したことがあります。

    決して戦争が良いとか悪いとかそういう薄っぺらな野党が言うような話をしたいんじゃない。

    ルール無用で侵略して切り取り次第、と思っている国や国家元首が世の中にいるという現実に対して、真剣に考えないとぼんやりしていると日本はなくなるよ、と思うから。でも、一方でやっぱり現実としてたくさんの人が亡くなるのも事実で、そこを認識しないで戦場から遠く安全なところで議論されても困るわけです。

    だから、国会議員になろうという人は家族を自衛隊に預けてから立候補すること。

  • お釈迦様の話

    お釈迦様の言うことがわかるようになってきた、という話。

    お釈迦様がリアルに語った言葉として伝わるのは『スッタニパータ』や『ダンマパダ』だけと言われていて、それ以降の書物は教団が大きくなって権威付けしたり、派閥間の対立があったりして、ちょっとずつお釈迦様イズムから離れていった経緯があるようです。

    実はもっと若いころにもチャレンジしたのですが、全く歯が立たず、理解できず放置していました。いや、仏教徒にはなれんのだろうなぁとすら思っていました(笑)

    私はお釈迦様を宗教者というより哲学者だと思っています。もちろん人間とか人生とか生と死とか、そういったものを根源的にとらえているので、宗教者と言って全く問題ないとは思いますが。

    理由はいろいろありますが、お寺さんを訪ねるようになって、あるいは自分なりに日本仏教を勉強するうちに自分は仏教徒にはなれんなと思うようになりました。さきほどの『スッタニパータ』を読みこなせなかった時とは別に理由です。あとで気付きますが、お釈迦様が言ったこととは違ったからだと思います…というのは時間軸が逆で、日本仏教の勉強はしたけれど、全然しっくりいかず、そのうちそれなりの年齢になって、『スッタニパータ』などを再チャレンジしたら、なんのことはない、こっちの方が自然だわいとなったのが正しい流れ。

    ですから、日本仏教は長い伝来の過程の中で独特の進化をした日本独自の宗教なんだと思うようになりました。客観的に言って間違っていないと思います。

    私はクリスマスも好きじゃないんですよね。一緒に祝うような人もいないことが多かったし、何よりも大学の推薦入試のために某市の新幹線駅に降りたのがクリスマスイヴで、賛美歌を歌う人たちを見て…卑屈ですよね…クリスマスが嫌いになって、それでも毎年家ではケーキは出てくる。そんな平均的日本人から若干のゆがみは含むもののそう遠くない日本人です。

    で、なぜお釈迦様?かというと先ほども述べたように哲学者として見ていましたから、10代でカミュの『異邦人』を読んで衝撃を受けたのと同一線上です。お釈迦様という哲人に興味があったわけですね。

    日本人以外の世界では日本人を見て不思議に思うというじゃないですか。年始に初詣、教会で結婚式、お寺でお葬式。細かいことは別の機会にお話しできればと思うのですが、こういった姿勢は私の中で”日本教”として、理解することで一応決着したんです。その細かいことにひとつに日本の伝統宗教が日本人の心のよりどころとしてあんまり頑張ってこなかったんじゃないかっていう結論があります。その結論にたどり着くプロセスの中で、日本の仏教は日本仏教であって、原点たるお釈迦様の言葉とは距離がある…というより別物と言っていいくらい変貌した。それは別に良い悪いではなく、日本仏教はそれぞれの時代に日本に合ったものを発明したんでしょうから、問題はないと思っています。念仏さえ唱えれば、とわかりやすさが大事だっただろうし、心の平安のために座禅が大事だと考えたのはお釈迦さまも同じだし、ただ、そこからの進化は世の変化とともにありましたか?と。日本の一般の人たちは日本教を創設することで満足?することになったんです。日本人はなんでも柔軟に自分たちのものとして取り込んでいく…と良きにつけ悪きにつけ言われますが、神社やお寺は日本教の一部として登場はするものの主役ではないんです。そこのところは金まみれの新興宗教や強引な勧誘の問題を挙げるまでもなく、伝統宗教の怠慢はなかったかと投げかけておきたいと思います。

    ただ、こうやってお釈迦様を語る時点で、お釈迦様の言っていることがまだまだわかっていねぇなぁと暴露しているようなところは否定できませんがね。