カテゴリー: 人と組織

会社・職場というところ、マネジメントというもの、実務者というもの。

  • 10年

    ひとつの仕事を10年やって初めて、その仕事の本質がわかる、そう言われてきた。

    10年選手という言葉がある。これも裏を返せば、10年やって初めて隅々まで実務を熟知した頼られる存在となる、という意味を含んでいるのではないか。

    10年とはそんな意味を含んでいるのではあるまいか。

    10年という期間のとらえ方も年齢とともに変わったと思う。

    20代くらいまでは、10年とは膨大な時間のように感じられたし、もう少し年齢を減るとひとつの重量感のある時間単位に思えるようになった。50代となった今はうかうかしてられないスピードを認識する単位になった。

    10年もあると思うな…。

    時間の感覚が年齢とともに変わる原理についてはまたどこかで述べたいと思う。割と科学的に証明…までいかなくても仮説はある。

    さて、この時間感覚の話は往々にして、仕事との付き合い方の話だったりするけど、一方3日3ヶ月3年という言葉もある。

    若い人が仕事を辞めたくなる時期を喩えた言葉だけど、あまり数字に深い意味はないと思う。

    3日:仕事のイロハを知る前なのに、合わないと思って、入ったばかりだけど、もう辞めたくなる。

    3ヶ月:やっぱり3日目に感じた自分には合ってないという気持ちは間違いなかったと反芻。何事も初めてのこと、慣れないことを習得しようとすれば多少の努力もいるし、挫けることもある。でも、普通に考えたら、同じ人間がやる仕事にやってやれないことなんてないし、何の苦労もなく何事も習得できるならそれはごく一部の天才だけだろうから、自分はごく普通の凡人と認めるべきだろう。

    3年:3年もすれば確かに基本的な仕事やある程度の応用、トラブルにも対応できるくらいにはなっているだろうけど、先輩や後輩と仕事の技術を共有し、これからは後輩というより部下と言うべき存在も増えるし、そうなると仕事の仕方、仲間との接し方も変わってくるから、むしろやっとスタートラインに立ったところなのかも知れない。

    ここまで書いて、3年で基本的な業務習得をして、社会人、企業人としてスタートラインに立てたとして、それって結構スムーズに進んだ人なんじゃないかと思える。

    3年くらいだと何か役職を頂いてもにわか上司だろうし、自分の部下を育てるとか、一人前にするとか、ひと様に紹介することもままならないかも知れない。

    そう思うと3年は全然だなと思う。それはそんな頃の自分を振り返っても恥ずかしくなるような、そんなレベルだ。

    一人前だなんて程遠い。

    でも、そんなゆっくりできない世の中でもあった。

    dog age とか言われる時代でもあった。時代が目まぐるしく移り変わる時代に現状維持は衰退なり、とも言われた。自分たちがどうであろうと世の中の方がどんどん変わっていった。だから、世の中の変化に追随しなければ、企業とすればそれは終わりを意味した。

    わたしが社会に出たのはバブルが崩壊し、氷河期と言われる時代だったし、何をやってもモノが売れる時代から、何をやっても簡単にはモノが売れない時代になった。自ずと価格競争が激化し、日用品の価格設定はドラッグストアによって破壊された。

    だから、平成のデフレスパイラルを生み出したのはドラッグストアではないかとすら思う。スーパーはその煽りを喰らって多くの企業が倒れたし、そのくらいドラッグストアが市場でチカラを持っていたんだと思う。

    もちろん、ドラッグストアも多くの企業が淘汰された。日用品を扱う業態において、いわゆる差別化は簡単ではなかった。どこでも買える商品を扱うのにその中で選ばれる店になるということは一筋縄ではいかない。

    ましてや値段競争で差別化を図るなど愚の骨頂で、製造原価という最低限の経費がある以上無限の価格競争などあり得ないし、得てしてメーカーはぎっちり利益は確保していたから、身を削るのは中間の卸と小売店だった。時に原価を割る価格設定もあったけど、今思えば狂気の沙汰の他なんでもなかった。

    新店のオープンセールで、開店したばかりの店の利益ですらプラスなのに協賛で一緒にセールチラシを入れた近隣の仲間の店がセール期間中赤字で店長がお叱りを受けたなんてことがあった。

    モノが売れると働いた感じがするし、儲かった気分になるけど、まだまだ経営視点が子供だった時代だから、原価割れした商品を無制限に売るということをやってしまった。

    同じAという商品でもセール期間中の原価と普段の原価は違う。セール分の安い原価でも売価が原価を下回ることは珍しくなかったが、普段の原価は当然セール時より高い。だから、予定数量より多くあれば赤字幅の大きい商品を売ることになる。

    昔から安売り商品の販売限定数という概念はあったけど、ある程度の現場経験を積めば店長にくらいはなれてしまうドラッグストア業界では今では恥ずかしいことだけれど、そんな稚拙な店長がいたことは大した珍しくなかった。

    幸い、私が配属された地域はその会社にとっては最前線だったし、故にそれなりの人材が投入されていた感はあったから、店長になる前から損益決算書は概略的には理解していたし、短期的に戦略上赤字経営を強いられる期間があったとしてもどこかの時点で降り積もった赤字を回収し、借金を返し、利益の出る形にしていく必要があることは理解していたと思う。必要…とはつまり、資本力があればこそ赤字の時代を耐え忍ぶことができるわけで、でもそのままではダメで、ちゃんと利益を出し、従業員の給料を毎月きちんと支払い、売るための商品を買い付けるにももちろんお金がいるし、客数を確保するためにチラシに費用を使い、店内を明るくするために電気代もかかる。その他諸々の販管費を賄いつつ、今日も明日も明後日も存在し続けるお店であり続けることがある意味経営と言ってもいい。

    今はその業界からは離れてしまったけど、業界自体がだいぶ成熟しているだろうから、先に述べたような無用な薄利多売はやらないだろうし、商品部の仕入れ能力はその当時の比ではないだろう。小売側の規模が当時の比ではないから、売り手に主導権が生まれたし、どんな商品が売れるのか必要なのか作り手に要求できる規模になった。

    この間、30年と経っていない。

    平成時代は経済停滞の30年とは言われるけれど、民間は何もしなかったわけではない。

    個々の人材が3年やそこらで成熟しないしないように環境そのものもそれなりの時間は要したけれど、着実に変化はあった。

    ただ、30年を振り返ると着実に成長なり成熟した企業や業態、業界はあっただろうけど、30年経てば誰でもよくなっているわけじゃない。

    やっぱりそのときそのとき、ギリギリの選択や方向性の見定め、ときに失敗をしながらもリカバリーした歴史があるのではなかろうか。そうやって継続性のある軌道に乗って今に至るのだろうし、乗ったからといって安心もできなかっただろう。そうやって積み重ねてきた企業もあれば、そんな企業ばかりでもない。

    ひとも然りで、弛まぬ努力を積み重ねるひととそうではないひとがいるのは不思議なことではない。

    だから、10年おれば、必ず間に合う人間になれるわけではないし、20年経っても学級会だとか動物園と揶揄される職場は普通にあるし、我々普通の凡人にとっては環境が大事なのではないだろうか。

  • 属人化

    Aさんしか知らない業務内容を作らぬこと。

    仮にAさんが熟練の人だったとしてもブラックボックス化しないこと。

    理由は簡単。

    そのAさんが何かの事情で急にいなくなれば、混乱するからだ。混乱までいかなくても戸惑うことは間違いない。

    そこまで極端な例でなくても、普通に配置転換があったときに引継ぎができないからだ。

    代わりが利かないAさんは素晴らしい人材かも知れないが、代わりがいないのはその企業にとって大打撃だ。

    例えば、店舗開発のようにいい物件を探してくるような仕事だと、いまだに不動産屋相手の仕事は人間関係が重視されるそうな。金を積めばとはいかない世界なんだそうな。

    もちろん、某ドラッグストアが相場の3倍の家賃を出してとある物件を落札したなんて話は現実にあるから、金さえ積めばという部分もあるにはある。

    ただ、それをやり続けるにはとてつもない資本力が必要になるし、単純に長くは続かない。

    そうすると郷には従えで、その業界の体質に従えば、3倍も出す必要はなくなる…だがしかし、マニュアル云々でマネできる話ではなくなる。人間力のある人間にしか引き継げないということになるし、前任者から後任者に多少の挨拶をしたからといって、”担当者交代”とはならない。前任者の”顔”があって、その”顔”に泥を塗らない人物と評価されないと後任者も仕事はもらえないんだろう。

    これはやむを得ない属人化だと思う。

    極めて稀な例としての。

    しかし、ひとりの人が長くある業務に居座ったおかげで他の誰にもわからなくなってしまうようなケースはままある。マニュアルがその人の頭の中にしかないような状態。

    非上場だとそういうことは起こり得るかも知れない。業務分掌がなければ、そもそも業務の守備範囲もはっきりしないかも知れない。そういう人の場合、ひとりの守備範囲がやたら広いことが多い。

    一見有能に見えるけど、近い将来問題になる。いずれにしてもいつかのために後任を見繕っておくか、組織的に分担する仕組みを導入することを計画しておかなくてはならない。

    これも少々難しい問題ではあるが、整理してしまえばひとりの熟練者を配置し続けるより安全な組織にはなる。

    いつでも代行者をあてがえるように仕事のサイズを切り分けておく、業務フローを整理しておく、仕事のボリュームが小さめになっておれば、後任もマニュアルとOJTで慣れるまでの時間が最短化できる。

    Lynyrd Skynyrdが飛行機事故でメンバーの大半が亡くなったことを思えば、まだなんとかなる話だ。

    どちらかというと飛行機事故よりずっと予見できるし、計画的に対策できる。

    つまり、属人化を放置したなら、それは自業自得なのだ。

  • クレームが発生する原理

    まず、お客さん(利用者さん、患者さんなんでもいい)からお叱りを受ける原理を考えたい。

    とりあえず、「さん」か「様」かの議論もここではあまり関係ないのでなし。

    あと、そのご指摘頂いたお客さんがクレーマーかどうかもちょっと横に置いておきたい。

    先に言ってしまえば、何かあった場合に自分たちが変えられることだけを議題に挙げるべきだと思う。

    無理難題を大声で喚くお客さんの考えや行動を変えることはこちら側ではできない。

    理不尽なことを言う人が本当に自分が言っていることが正当だと思い込んでいる場合も単に嫌がらせのつもりでやっている場合もその思考を変えることはできないのだ。

    差し当たり、問題を排除するために官憲の力を借りることはやぶさかではないが、そこに労力を割くのは最小限にすまいか?

    若干、ふわっとした表現にはなるが、結局のところ脇を締めるとか結界を張るとか、悪意を寄せ付けない体質を作ることに専念すべきではないか、という話だ。

    なによりも自分たちにできることをする。悪意のあるお客さんをやっつけるとか、無理難題を言われたら通報するとか対抗策ではなく、自分たちの体質とか行動を変えて、妙なトラブルが起きないように寄せ付けないようにすることに集中する。

    神棚を祀ってもよい。

    決してスピリチュアルな力を信じているわけではない。

    ただ、理屈抜きにトラブルの多い店と少ない店があるのは確かだよ。

    それがひとことで言えば”脇が甘い”に集約されてしまうのだけれど、よくよく観察するとまずい店はまずいだけの理由がある。

    そもそも、いい加減さ、不誠実さ、人を見下す態度といった見ていて不愉快な姿勢や態度が接客に出てしまっていることがある。

    そもそも、接客のスタイルとして、フレンドリーの”つもり”が普通に失礼になっていることも多々ある。つまり、お客さん↔スタッフ間の関係性のラインが見えていない。”フレンドリーな接客”は礼儀作法やいろんな年齢層のお客さんの心理というものがわかっていないとそもそも使いこなせるものじゃない。

    同じフレンドリーなのに何が違うんだろう。

    わかっている接客のプロなら、元校長先生のおじさんと同年配だけど駄菓子屋のおじさんと同じ接し方はせんのだよ。

    同じ会社のチェーン店なのにトラブルが多い店とそうでない店があるのだから、会社組織に問題があるとは言いづらく(あるとすれば「相手に合わせた接客をしなさい」とかそういった考え方の教育があったかどうかの責任)、個店個店の体質、癖、雰囲気、姿勢…つまり、そこにいる人(従業員、スタッフ)の性格や姿勢が招く…と言えないだろうか。そういった定性的な体質はチェーン店であっても人間が運営する以上、違いが生まれやすいのは至極当然。

    構成するメンバーはそれぞれ違うのだから、文字通りその店の持つ雰囲気が違って当然。

    広い意味でお店屋さん、商売をやるとある一定の法則があると思う。

    お客様とのトラブルが多い店はスタッフ間でもトラブルが多い。そのスタッフ間のトラブルもスタッフの仲が良いから大丈夫とかそういう単純なことではなく、スタッフ間が協力関係にあったり、助け合う精神があったり、それがちゃんと店の利益や存続につながる連携であったり、ほかの言い方をすれば、モチベーションやベクトルが一致している状態なら問題は起きづらいのではないか。起きたとしても、向いている方向が同じだから、怒らせてしまったお客さんにも理路整然と誰がやっても同じ説明できるだろう。普段から仕事に対する姿勢が一貫しているから、怒らせてしまったお客さんも適切な説明や対策の提示を見れば、納得されることだろう。そもそも悪だくみを持ったクレーマーは寄り付かない、近付きづらい。つまり、普段の仕事の姿勢が付け入る隙を与えない。

    そもそも、従業員同士が協力関係にある店がお客さんに対して、ぞんざいな態度をとることはなさそうだ。

    仲間にやさしくできない人がお客さんにやさしくできるはずがない。これは職場のパワハラにも通じると思っている。

    そして、脇が甘ければ、付け入る隙になる。

    困らせてやろうと思っていて、思った通りまごまごしていたら、そりゃ困らせ甲斐があるというものだ。いじめっ子の心理と同じではないだろうか。下手な言い訳でもしようものなら、突っ込んでやろうと最初からそう思ってやってきているんだから、渡りに船だ。

    これはあまり根拠もなければ統計を取ったわけではないから、あまりにも定性的で数値化も難しい。

    でも、躾の出来ていない、残業の多い、よくわからない地層のような職場ルールがある、古株が牢名主の如くルールの執行人になるから職位とは別のヒエラルキーが存在する、だから組織上の統率が取りづらいし、そのルールも納得できるかどうかではなく、守るかどうかが重要…それが牢名主への忠誠心となり、新しい上司が着任するととりあえず抵抗する、チェーンなのに「ここは他と違う」と他を良く知らずに自分たちに都合のいい現状を維持しようとする…こういう論理的にも倫理的にも資本主義的にも会社の就業規則的にも、とにかく公のルールや法則に何ひとつそぐわないことがその店の中だけでは公然と成り立つ(声の大きい人が言い張っているだけで)環境となると、そもそもその店は一枚岩ではないし、従っている人たちも牢名主が怖いだけで、まったく納得していないから、トラブルを招き寄せているようなものだ。

    そんなわけで、やはりふわっとした関連性を述べるのが精いっぱいだが、結構それあるなって思う部分もあるのではないだろうか。

    少なくともそこに勤める人たちの姿勢次第で、それが結界にもなり呼び水にもなる。だから、何も神様に守ってもらおうという意味で神棚の話を挙げたわけじゃない。そのくらいの心の余裕もなく、道理も倫理も(このサイトでは”躾”を挙げることも多いかな)ない店は長くは続かないし、トラブル対応で疲弊するのが落ちだろう。

  • 家族経営が悪いわけではない。

    恐らく、そこに公共性があるか否かがカギではないだろうか。

    小規模すぎると会社の利益と、経営者家族の生活が直結しすぎて…という話はありそうだし、想像できる。が、経営者と経営者家族の常識はずれな贅沢のために、会社の利益が使われていることがあからさまになったとき、そこに働く人たちの心情は大変微妙なものになる。経済がいい時代なら、そんな会社辞めちまえと言えるのだが、今日こんなわけにもいかない。その贅沢家族のために従業員の給与やボーナスが左右されると知れば、これはいけない。

    そもそもそんな従業員にすれば聴きたくもない話を経営者自身が漏洩するくらいの感覚だから、ズレている。

    あるとき、ある知人に私がその経営者の元にいることを伝えたら、「あぁ、自分ファースト社長ですね」とさも周知のことのように言われたことがある。

    私は長い間ドッグストアのチェーンにいたから、知らなかったけれど(正しくは知ってはいたけど、よく認識していなかった)、薬局という業界は大手以外は小規模な個人経営か、若干店舗数を抱える薬局が更に小規模同士で同盟を組んでいるような、いずれにしても小規模と言える個人経営の薬局が何割か占める。

    ただ、大手といっても数ばかりで標準化されず、個人経営の集まりのような会社も多々ある。標準化されないから本当の意味では同盟を組んでもその目的である効率化はされていない。

    当時、私自身はお呼びが掛かればどこでも行きます、というスタンスで転職活動をしていたから、間に入ったエージェントにもたいそう驚かれたけど、いかにそれまで勤めてきた企業がまともかということを思い知った。

    ここで、整理しておいた方がいいかも知れない。日本語の定義としての家族経営はよく知らないけれど、経験上、家族親族、あるいは血の繋がりはないが、経営者と親密な関係のある人たちで会社の中枢を担っていても、公共(あるいは従業員)のために会社を動かしている(少なくともそういう体裁をとっている)ケースと、従業員はあくまでも使用人であり、あくまでも経営者とその家族の幸福が優先であるケースがある。

    とはいえ、どちらかにパカっと二分されるわけではない。

    つまり、前者であっても本音と建前があっても不思議ではなく、経営者家族の幸福を蔑ろにすることはないだろうし、でもそれだけでは、あるいはそれ優先では(大きくなればあるほど)求心力は得られないのだから、自然と公を意識した理念や方向性が示される。

    それが自然だろう。

    だから、まともな経営者なら家族親族が華美な服装や車で車内をうろうろすることは禁じるだろう。経営者の子供が車内をうろうろすることもないだろう。それはアットホームとは言わないことを理解しているからだろう。

    株式会社はひと様から資本を借りて運営する会社だから、すでに経営者個人の所有物とは言い切れなくなる。ひとにやりたくない場合は家族親族だけで株を分配するのだろうけど、公共性があれば、社内に持株会があって、一般の社員でも自社の株を購入できるなら、わずかな金額だろうけど、純粋に経営者及び家族だけのものではなくなる。

    以前どこかで紹介した経営の神様は経営者一族ではなかったけど、創業時から屋台骨を支えてきた創業メンバーであり、大番頭のような立場から系列会社を任されていたお方なので、おそらく家族経営の長所、短所は分かった上で、家族経営の強さを説かれた。

    若干精神論も混じるが、自分の名前を看板に掲げる、失敗すれば家族もろとも路頭に迷う、そういったことだけ考えても、家族経営をやるときの気概は並大抵のことではない、というのが本質的な話だったと記憶している。

    ただ、その気概がまじめに勉強して、経営に活かす経営者もいれば、MBAをとって、箔をつけることに勤しむか、その資格のために会社のお金をじゃんじゃん使って東京に通うとなると共感は得ないし、実務に活用されているか微妙なところだ。

    統計はないが、真に会社を大きくした(大きくしている)経営者はそんなお金の使い方はしないだろうし、身の程を弁えていないひとほど、派手なふるまいをする。金額だけではない。真の勉強家はそんなそぶりは見せないし、見栄が必要な人間は中身より、資格の素晴らしさや受講に通った苦労を宣伝する。

    後者の実例が自分ファースト社長だけど、残念ながら、MBAは活かされず、いつまでも直感だった。利益が落ちてきた、新しい人の採用ができない等々の原因は社名だった。熱心に社名を考え、変えるべきタイミングを占いで決めて安心していた。利益が落ちてきた原因は社員が報告していたけれど、理解する頭がなかった。採用するために小規模な経営では人脈も必要だろうけど、人脈の素晴らしさを誇るばかりで採用には直結しなかった。

    その素晴らしいと言われる人脈も聞いたことのない名前ばかりでずいぶん辟易としたものだったけれどね

    多分、自分ファーストの意味は自分を着飾ること優先という意味だったのかも知れない。

  • 自分の頭の中だけで仕事をすると…

    地頭というんだろうか、深い思考性を持った人は生きる力があるし、思考力だけでなく、情感も豊かだったり、周囲に配慮ができる人間らしい人間のような気がする。

    一方、自分の頭だけで思考してしまう人は文字通り”してしまう”から、自分では気付いていない。

    仕事でもなんでもたいてい相手がいて世の中が動いているから、相手との意思の疎通なく、自分の頭だけで考えてもうまくいくはずがない。

    もちろん、”配慮”や”気遣い”のような形で自分の中だけで考えるケースは十分ある。でも、それは相手をよく見ていたり、普段接する中で情報をキャッチしていて、”配慮”や”気遣い”のベースになる根拠や背景を持ち合わせていて初めて成り立つものだろう。

    わかりやすい表現として、”思い込み”が当てはまる。

    世の中の人は自分も含めて平凡な人間の集まりで、ひとの気持ちや立場、状況、状態を本人から情報を得ることなく、キャッチできるような超能力者はいない。

    これはコミュニケーションが大事とかいう単純なことではなくて、それすら考慮されず(つまり、コミュニケーションは大事だよね、という認識が時々でもなされず)、個々が独断で物事を進めている状況がそこかしこにあるのではないかという懸念だ。

    まぁ、”在る”のだから既に懸念ではないのだけれど。

    例えば、「訊いてくれたら」と親切心のつもりでいうケースは多々あるけれど、全体的なレクチャーもなく、疑問を持った順に訊ねろという態度には辟易する。

    既にどこかにも書いたけど、ずっとその職場にいて全体像を把握している人が全体像を示さず、全体の流れをレクチャーせず、新しく来た人に「訊きなさい、何でも答えますから」という姿勢は怠慢というものだろうし、なんとも効率が悪い。もっとも職場の労力が必要なスタイルになる。

    例えば、まっさらな新人ではなく、ある程度経験のある人間であっても…むしろ、そういう経験者へのレクチャーは高等技術かも知れないが、それこそその経験者の力量を把握する作業なくして(できることとできないこと、知っていることと知らないことの仕分け)、その経験者の欠けていることを補う作業はできまい。

    ”頭の中だけで思考(仕事)してしまう”ことの弊害はこういった類例を示しても示さなくても、まずいことなんだ。なのに認識されず、そのまま放置されている職場がいかに多いことか。

  • 仕事との距離の置き方(その4)語学

    語学はうつの頭にはいいような気がしています。

    使えるようになれたらいなぁ、ならいいのですが、使えるようにならなきゃ、とか、〇〇検定に受からなきゃ、となるとしんどいし、モチベーションよりプレッシャーが強くなる。

    検定もある程度勉強が進んで、力試しに受けてみるか―くらいの気分でちょうどいい。

    縛りを設けずに正に自分ペースで学んでいくなら、毎日少しずつでも前進するし、小さなことでも毎回学びがある。つまり日々小さいかも知れないけど達成感がある。且つ、わずかな単語であってもやっぱり文法や構文が頭に入らなくても、小さな達成はしているから、片言でも伝わるかも知れない。初めての国でもなにかしらのコミュニケーションが取れるかも知れない。そんな前向きな気持ちの元にもなる。

    私の場合はあるきっかけから、とにかく外国語をもう一度勉強しようと思いました。でも、まったく白紙の状態からではなく、大学時代の第二外国語であるドイツ語ならとりあえずとっかかりとしてはいいだろうと。

    男性名詞、女性名詞、中性名詞、複数名詞によって冠詞が変わることくらいは知っていましたから、英語とは違う難しさがあることも知っていました。でも、英語だと新鮮さに欠ける…。そんな感じの選択でした。

    でも、ある程度進んでいくとマンネリもあってか他の近隣言語にも興味が出て、スペイン語、フランス語、チェコ語、ロシア語、アジア圏ではタイ語、台湾華語に手を出しました。

    スペイン語はドイツ語よりもっと日本人にとってなじみ深いローマ字読みで読めることと時制が多く、極めようと思うと大変なんでしょうけど、簡単な文章なら読めて理解できるまでが早い点で、とっつきやすい。

    フランス語はアルファベットの読みから癖があるので、単語を読むのも若干コツが要りますが、そこはフランス語の癖で、そこさえクリアできれば、読むことが可能になります。やはり、読めることで先に進めるようになります。フランス語は一周することができました。忘れちゃいましたけど、英語でいえば中1レベルでしょうかね。

    ここで語族の話をすると、英語とドイツ語は同じインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語に属する言語なので、系統としてはそんなに遠くはありません。ですが、語順や先ほどの冠詞のルール等々、やはりまったく別の言語です。そこで気付いたのは英語がいかに簡略(シンプル化?)された言語化ということに気付きます。ドイツ語の方が古い様式を残しているのかな?と思ったりしました。

    フランス語とスペイン語はロマンス語に属しますが、やはり別々の言語ですね。どちらかを勉強すれば応用が利くとかいうレベルではありません。まぁ、現地の人たちなら、普段から見聞きしている言葉ですし、共通の単語もあるでしょうから、聞き取りにくいことはあっても手も足も出ないということはないでしょう。

    チェコ語、ロシア語はバルト・スラブ語に属します。突然、単語の感じから違ってきます。個人的にはアジア的な…日本語にありがちな語順が割と自由に入れ替わるようなところがあって、親近感が湧きます。このあたり東欧の言語はそもそも近い感じで、国をまたいでも通じそうなくらい。ロシア語はキリル文字なので読めないと困りますが、音は共通するものが多いです。

    「ありがとう」なら…

    ポーランド語…ジェンクイェン

    チェコ語…ジェクイ

    スロバキア語…ヂャクエム

    ロシア語…スパシーバ

    ロシアだけ違いましたね(笑)

    ハンガリー辺りは地理的には東欧に近くてスラブ語圏に囲まれていますが、ハンガリーは民俗的にアジア系なので、まったく言語が違います。それも語学を勉強して知ることができるおもしろさです。

    私はこうやって、興味本位な比較言語学をやってしまっていたので、いい頭の体操になっていたのだと思います。

    ドイツ語も気付くとテキストの終盤まで進んでいたので、検定も受けてみました。幸い検定レベルの丁寧な発音のドイツ語なら聴き取りはできて、5級4級まではすんなり合格できました。

    でも、そのあと間が空いてしまうとダメですね。

    やっぱり英語ほどの蓄積がないので、続けないとだめです。

    本当は3級くらいまでは流れでいけそうだなぁと思っていたのですが、なんかいろいろあって…。

    いずれにせよ、あまり重い目標を設けず、語学を楽しむとか、私のように文化や民俗と一緒に学ぶとかすると無理せず、続けられるのではないでしょうか。

  • 仕事との距離の置き方(その5)遠征

    だいぶ前から”ひとり遠征部”を名乗って、あちこちでこの名称を使わせて頂いているのですが、ふと気付くと遠征できる人の特殊能力みたいなショート動画を見かけるようになりました。

    まず、私の言う”遠征”とは”ひとり旅”のことです。

    ひとことで言えばひとりで何事も決定を下していかなくてはならない状況に敢えて向かうわけですから、”状況判断”と”決断力”を要求されます。

    更に…というか、遠征のスタイルによっては”計画性”がシビアに求められることもあるでしょう。

    ちょっと言葉を濁したのは”行き当たりばったり”の旅を貴ぶ人には少々注意を促したい…。ほとんどの日本人は”帰宅しなくてはならない期日”を持っているはずだし、旅慣れしていないひとに”自由気ままな旅”を推奨したり、これこそ旅の醍醐味とばかりに褒めそやすのはやめて頂きたいと思うのです。

    いや、特に私に何か迷惑が掛かっているわけではないので、お好きにどうぞと言っていたらいいのかも知れないけれど、日本にだって、何時間も電車が止まらない駅があるんです。逆に時刻表やルートにないけど、行きたいところまで行ってくれるバスがあったりするんです。公共交通機関も以前ほど悪天候で無理はしません。

    「1時間に一本くらいはあるでしょ」は甘い。

    時間のあるお方はいくらでも好きなだけ無人駅で過ごすのもぜいたくというものでしょう。

    ただ、日本人の旅行はごく平均でいえば、せわしない。

    電車と飛行機を乗り継ぎ、夜行のバスに乗る。

    なんだったら安価なLCCは夜中早朝発着。

    タイトです。

    それを事前にリサーチして、タイトな段取りを完璧に遂行しないと成り立たないのです。

    これは田舎や離島ほど、注意が必要です。海外はタイトではない代わりにルーズさが乗り換えの切迫を生む可能性(リスク)があるので、そのルーズさを加味しなければなりません。

    だから、どちらかというとガチガチの”計画性”ではなく、現地で起こり得ることに対する想像力です。

    海外のバスターミナルに行くのに、事前に時刻表は把握しているからといって、ぎりぎりに到着する人はいないはずです。バスの発着がルーズだからということもあるでしょうけど、チケットはどこで買うんだろう、そもそもチケット売場はあるの? 目的のバス停には他の行き先のバスも停まるだろう、見分けがつくようになっているのだろうか? 私は若干心配性ではありますが、リスクヘッジはするべきです。

    ひとり遠征はビジネスに必要なスキルを持ち合わせていないと難しいことであると同時に、遠征とは「無事帰ってくること」が最終目標です。

    無鉄砲な遠征は厳に慎むべきで、遭難や命に係わる事故に遭っても、日本という国はそんな無鉄砲者のために国内だろうと海外だろうと救助しに向かう国で、仮に遺体となったとしても国まで送り届ける国だということを感謝とともに忘れてはいけません。

  • PDCAサイクルをまわす。

    Plan→Do→Check→Action

    このサイクルをまわすこと自体はそんなに難しいことじゃない。

    放置せず、期限を設ける、それだけ。

    いつまでに計画を実行するか、その計画をいつまでに実行すべきなのか、リミットが決まっているなら、そこから逆算すればいいだけで、自然と全体の日程が決まること。

    よく検証(check)が難しいとは言われるけど、それにしたって、毎週何曜日何時(あるいは定期のミーティング)、と決めてしまえば、もうサイクルはまわったと同じだし、そこに信頼(安定してサイクルが回ること)があれば、厳格なPlanは必要ないかも知れない。走りながら修正するシステムに乗っているんだから。

    ただ、このcheckはcheckそのものに少々技術が必要かも知れない。checkするメンバーが揃いも揃って事なかれ主義なら意味はないし、あまり、掘り下げすぎて課題を盛り込みすぎても今後のスピードが落ちる。それも着地の時期によっては急ぐこともあるだろうし、時間があればあったで、優先を決めて動かないといつまでも問題を抱えたままになる。抱えたままでもいい問題ならむしろ流して(放置して)おけばいいけど、爆弾級の問題を抱えて走り続けるのはリスクだろう。

    だから、PDCAサイクルをまわすとは単に期限管理ひとつで終わる話。やり方はそれだけ。

    ただ、そもそもこのサイクルをまわすのが正しいのか、ふと疑問や戸惑いを感じることが増えた。

    わかりやすい理由は常に改善をし続けなくてはならないプレッシャーとかストレスがなくはないこと。もちろん、これによって仕事が楽になったり、質が良くなったりすれば、結果的には自分たちの利益になることだから、無駄ではないんだけど。

    問題を抱えたまま…という状況がどのくらいのリスクかにもよるかも知れない。手が付けられないほど、根深い問題が何層も折り重なっている…そんな場所もある。

    一度全部ぶっ壊すしかない…そう思えてくるような場所もある。

    もし、そんな状況なら、PDCAなど生ぬるいし、時間と手間の割りに物事の進まなさ加減に疲れるに違いない。

    恐らく、PDCAを回し始める時点で、着地が見えているのではなかろうか。そのくらいの全体像でなければ成り立たないのかも知れない。

    だから、その場限りの思い付きでやる付け焼き刃のPDCAよりもKJ法か何かで問題の全体像を明確にして、一発で問題を仕留める策を組み上げた方がいいだろう。

    問題が多すぎるからと言って、しらみ潰しのPDCAを何回転も回すのは所詮、無駄になるのではなかろうか。

  • 仕組みで動かすことと人の成長

    そもそも、仕組みで組織を動かすということはそこにいる人たちがベテランだろうがビギナーだろうが、ある一定のパフォーマンスを発揮することを目指している。もっと言えば、病気や配置転換でやむを得ない人員配置の変化があってもそのパフォーマンスを低下させないことも含まれる。

    裏を返せば、しかもdrasticな言い方をすれば、そこにいる人間の能力に頼らないことを念頭に置いている。

    これは心情的にはやや不愉快さを感じる向きもあろうが、経営的にはいつ辞めるかわからない人にお金をかけて教育(育てる)するより、仕組みを運用できる能力さえあれば十分で、それはマニュアルが読めるだけの日本語能力がある、とか、仕事の手順といった社内のルールや今時なら法律を守るだけの遵法精神さえあれば、それで十分で、コストも格段に低く済む。

    某社にいたとき、自分を含めた各部の部長がまとめて解任されたことがあった。本当の理由は何であれ、こんなことを言われてすごく意外だったことがある。「お前らみたいにパソコンから作れる人材はもう要らないんだ。パソコンは操作さえできれば十分」と。

    なるほど、それだけ会社は成熟し、仕組み化(パソコンは作成)されたわけで、もうそれさえ運用(パソコンを操作)できれば十分なんだと。

    まぁ、当時解任された部長たちへの賛辞ととらえてもいいし、やっぱり解任されたのだから、本人たちにとってみれば理不尽この上なかった。

    パソコンを作る能力に長けていて重用されたかと思えば、その能力は邪魔だから、外れてくれ、と。

    今更ではあるけど、私も含めてその部長連に会社への不満もなければ、経営トップに対する不信感や反感もなく、むしろ世代交代の時期でもあったから、新しい社長を支えることを考えていたし、真剣に会社の今後の発展を考えていたと断言する。

    もちろんね、サラリーマンですから、何ひとつ文句がなかったとは言いません。でも、それは自分たちの力で解決していけると思っていただろうし、その責任がある立場だと認識していたんじゃないでしょうかね。

    ただ、本当にもうパソコン操作のみできればいいというのであれば、会社にとっては迷惑な存在だったのかも知れない。恐らくそれ以降もよかれと思い、改善改革に邁進したであろうし、私は人事担当であったから、私が入社した頃のトップだった人の言に従って、”人の育つ環境”を模索し続けたでしょう。

    細かい部分での考え方の違いや、立場の違いで、理解の仕方も違っていたかも知れないし、今の時点でも私自身、当時の経営陣の気持ちを正しく理解していないのかも知れない。

    ただ、少なくとも当時在籍していた会社がどうとかいう話ではなく、ひとを育てるにはお金がかかるし、やり方も固定(既成)のものはないし、そうすると効果も達成度もわかりづらい。そんなふわっとしたものに経営資源を投入し続けるリスクはやはり冷静な経営者ほど難しいと考えるに違いない。

    だから、企業体の中で”人を育てる”ということが如何に難しいことであるかは理解しなくてはいけない。

    かたや、マンパワーに依存して拡大してきた企業は規模が小さいうちはそれなりに技術伝承が可能でうまくやれているようにも見えたけど、仕組みも体系的な教育もないとなると企業の規模拡大とともに急速に技術伝承ができなくなり、品質が落ちる。せめて教育という概念があれば、ひとりの熟練者が多くの若手に技術を伝授しようという思考にもなったかも知れないが、残念ながら個人→個人の伝達では会社の規模拡大のスピードに追い付けず、一気にパフォーマンスが薄まった(人材の薄まりはこの時期、業界全体の課題ではあった)。それでも勢いのあるうちは経験豊富な人材(中途採用者)が集まり、それなりにその勢いは維持された。でも、あるとき、その勢いに陰りが出始めた途端に経費に目を向け始めた。いや、経費に目を向けるのはいつでも大事なことなのに、行き詰ったときに目を向けると大抵”経費だけ”に目を向ける。つまり費用対効果ではなく、経費(販管費)単体で数字を見て、多い少ないとこねくり回し始めるのが常で、客数を呼び込むはずのチラシを全部やめてしまったり、計算値だけで人件費を削り始めた。当然優秀な人材の採用もやめてしまい、店舗の人時も削り始めた。いや、計算値自体何も悪くはなく、何かしらの基準を設けて人員配置するのは何も風変わりなことではないけど、その数値を用いる人間の方が不勉強なのか、判断が適正ではなかった(と感じている)。

    例えば、売上と人時を比例させるところまでは売上と作業量が比例するという視点で大きく間違ってはいないけど、売上の大小に関係なく必要とされる最低限の業務というのはどんな仕事にもあって、それが考慮されなかった。間もなく修正はされたけど、そのたびに何万人という社員従業員が右往左往した。人件費削減のために右往左往した社員従業員のコストがプラスされた。イニシャルコストではあるけど、不要なコストだったはず。※仮に6万人の従業員が「え?」と立ち止まっただけで、それが仮に1秒だったとして、6万秒=1,000分=16.7時間、社員の平均時給は2,000円程度らしいので掛け算すれば33,333円/時。もちろん「え?」だけでは済まず、それまでに費やしてきた準備の時間や、朝令暮改の修正のために何時間と時間を掛けることになる。10時間なら30万円、24時間なら80万円。小規模なドラッグストアなら何日分もタダ働きしたことになる。

    小売業(だけではないかも知れないが)には「走りながら考える」という言葉(思想と言っていい)がある。緻密に計画している間に走り出せ、走りながら考えろ、そして走りながら修正しろ、という思想。これが行き過ぎると無計画に何も考えずに走り始め、会社の規模によっては修正(走りながら思いついたこと)のために膨大なコストが発生する。大勢の人間はやり直しに近い手間をかけることになり、これほど無駄なことはない。修正とは言ったものの、実質やり直しが多い会社もあった。

    仮にマンパワー一辺倒の企業に社員教育という概念があれば、若干均一性と継続性の高い運営が可能だったかも知れないと思う。

    日本最大の小売業のイオンは組織力と教育を両立していた会社なのではと思ったりもしたが、確証はない。いくらか企業間の交流があり、知り合いがいた程度であるから、自信はないし、正直企業規模が大き過ぎてよくわからないといった方が正しいかも知れない。ただ、〇〇一辺倒ということはなく、歴の古い方にお話を伺えば「昔は勢いというか…」と小売業らしく、マンパワー頼りだった時代もあり、それでも大きくなるにはそれだけでは無理で企業体として権限移譲や人材育成、広報などのイメージ戦略等々を以て巨大化したのであろう。

    何かひとつではないのは確かだろうし、何かひとつに偏るリスクはあるのではないか。何かひとつ得意分野があってもいいのだろうけど、それだけではリスクヘッジできない。

    ただ、偏るにしても何に偏るかによって強い弱いはありそう。少なくともマンパワー依存だけは違いそうだし、それで何十年もやってきた会社に新しい文化は難しいのだろう…。

  • ダブルチェックは本当に必要か?

    そんなだいそれたことではない。罠でも何でもない。

    ダブルチェックが機能する環境というのは極めて限定的だと思うのです。

    正直、このダブルチェックが継続的に機能している環境を見たことがない。比較的簡単に破綻する。だから、ダブルチェックしたにも関わらず、ミスが通り抜けてしまった場合、まず、トリプルチェックしましょうという発想になるのはほぼ不正解と言っていい。チェックの在り方を検証しないで回数を増やしても同じこと。

    よく言われるのはAさんがチェックしたから大丈夫、2回目のチェックだから、1回目の人がちゃんと見てるはず、結局Aさんか1回目のチェック者だけでやっているのと同じことだね。下手するとAさんが「ほかの人も見てくれるから」と気を抜いたら、誰もチェックしていないのと同じになる。

    ある意味、精神力の問題になる。

    そして、それに気付いている薬局、企業は多いから、チェックの回数を増やすこと➡ただ単に手間(人件費)が増えて、チェックの質も落ちていいことない、のが常識であり、通説なのではないだろうか。

    結局、システムの力を借りて、人間的な先入観を消すのが一番だとは思う。

    あと、可能なこととしてはダブルチェックといっても同じことをやるのではなく、違う角度で確認をする手法だろうか。ひとりは処方箋の文字を見て必要なものを集めてくる、ひとりは出てきたものの名前と数量を確認したのちに処方箋を見る。プロセスを変える。ここまでくるとやはりシステムの方が得意分野ということになろうが。

    ある程度の企業体であれば、この程度のシステム導入はそれほど大きな問題ではないだろう。費用対効果から言っても必要最低限の投資と言えよう。

    ただ、これが小規模な薬局や病院となると難しいかも知れない。システムだって数を買えば単価は下がる、道理だ。でも、メンバーチェンジが少ない環境でもあるので、「大丈夫だ」という自信も慢心も生まれやすい。そのくせ効率的ではないことが多く、且つ人不足も相まって、気合いとか誇りで解決しようとする。

    そこまでいくと昭和的でもなく、精神力でゼロ戦飛ばせと言うに等しい。

    が、しかし令和でも存在する。化石と言っていい薬局(薬剤部)は実在する。それもベテランだけでやっていけるなら、それでいいのかも知れない。ただ、経営的な観点で継続性は低く、継続以前に従業員が有休を使うこともうっかり体調を崩すことも許されない、過酷な環境がある。それどころか、電話当番とかオンコール対応と称して、公休日にやたら電話が鳴る業務が回ってくる。

    一方、小規模とは関係なく、調剤報酬制度の中に夜間休日に喜んで対応することが組み込まれた。

    今回のテーマとはだいぶ乖離しているが、薬剤師は夜間休日という余暇を捨てることを求められるようになってしまった。

    一方、医師は当直はあるだろうけど、しっかり休むようになってきているんじゃないだろうか。ましてや個人のクリニックであれば、盆も正月もGWもSWもしっかり休む。当番があれば別だけど、なければ緊急電話もないだろう。

    この逆転現象は一体なんなんだろう。

    薬局側は単に薬剤師会のアピールだと思う。

    医師の側はワークライフバランス。

    これで十分説明はついたか…。