カテゴリー: 人と組織

会社・職場というところ、マネジメントというもの、実務者というもの。

  • 引き際が肝心

    ではあるけれど、この御時世、よほど裕福な人でない限り働き続けなければならない。

    ただ、その社会との付き合い方は変わってきていい。

    戦う必要はない。

    争う必要はない。

    何か言って聞かせて糺してやる必要もない。

    仮令、それが自分の生き様に反しようとも、主張してまで、相手にわからせてまで、筋を押し通す必要もない。

    仮令、そやつが無法者だとして、聞き分けのないクズだとして、正しい道に導いてやる必要もない。

    それが仮に他者に害を及ぼすものとしても、俺自身が何とかしてやらなければと責任を感じる必要はない。

    別に痛い目に遭えばいいと突き放しているわけじゃない。俺が俺という人間の身の程を知っているだけで、そこにエネルギーを使う筋合いはないと思うだけ。

    きっとそういう人は適切な時に適切な人に導かれていくものと思いたい。そう、俺の出番ではないと思うだけのこと。

    ただ、そういった巡り合わせが必ずあるわけではないようで、自分より年上の人でも弁えというものを持ち合わせていない、改心する機会に恵まれなかったのか…、見るにつけこちらが恥ずかしくなる人間も少なくない。

    それはきっと私への戒めなんだろうと思い、誰かが遣わした先生なんだろう。

    いずれにしても、あれにもこれにも責任を負う必要はない。あれもこれもできる必要はない。

    ただ、何かひとつだけ守らなきゃならないモノ(またはコト)があるように思う。

  • いつでも休める職場

    いつでも好きな時に休める環境は羨ましいと思うかも知れないけれど、これは休みたい人がある日に集中すると、残った人はどんな人時であろうとやらなくてはならないことを意味する。

    休んだ人の分をどこからか補給されるのであればいいが。

    最低限の運営人時を確保するという概念がなければ、さきほどの残った人だけでなんとかやるしかなくなる。

    連休明けや休日にお客さんが集中する商売なら、営業が忙しいと当然予想される日に人時を投入するのがお客さん相手の仕事なら当然だろうけど、休みたい日に休めるとしたら、安定的な運営は難しくなる。

    かといって、休んだ分の補填に腐心していてはそれも大変な労力だ。

    もし、変更可能な休日希望なら一旦交渉なり調整があってもいい。

    お客様は神様だとは言わないが、やはりお客様あっての売上だということを考えるとお客様対応する運営側の人時確保は必要最低限のことだろう。

    確かに、まわりを気にせず、好きな日に好きなように休めるのは働く側にとっては好都合かもしれない。ライブのチケットでも海外旅行の飛行機のチケットでもとってしまえばいい。とは言ってもどうしても行きたいライブや旅行のチケットは取ってしまうしかないんだけど、経験上、それなりに社歴がないと取りづらかったりする…。と遠慮するのは今日無駄なことのようで、新入社員でもアイドルのライブに長期休むんだから、気にしちゃいけないのかも知れない。

    ただ、さすがに全員が休むとどうにもならないから、早く言ったもん勝ちになる。まったく公平も平等もない。下手したら、後で予定が決まったばかりに冠婚葬祭よりアイドルが優先される事態になる。

    ここまで言わなくても早いもん勝ち制度が無秩序な間違いであることは言うまでもない。秩序のある会社なら、優先順位はあって然りであろうし、早いか遅いかで休めるか休めないかが決まるという不平等を招くなら、100%欠員を埋める仕組みが必要だし、あるいは臨時休業も可としなくては遺恨も禍根も残すだろう。

    ここまで言って思うのはこういった環境では決断力がないのだろうと思う。あるいは制度を構築する知恵がない。会社が小さいとそこまで経費が掛けられないということは十分起こり得るのに、”休む”という部分だけを(摩擦を避けたいためか安易に)check freeにしてしまって、対策がないのだから始末が悪い。

    労働者としては休む権利も義務も両方あって両方主張したいし、それで支障がなければ何も文句はないのだけれど、ただし、”いつ”の部分は若干の幅があるから、会社としては最低限の運営人時が確保できないのであれば、調整に動くのは至極当然だと思う。

    支障というのは現場が円滑に動くことだと思う。

    お客さん相手の商売なら必要以上に待たせないことだろうし、日によってサービスの質が変わらないことだろうし、それが運営側の不手際で簡単に変動するとしたら、それはまったく好ましくない。

    だから、必要人時、最低人時という概念がどうしても必要なんだ。

  • 面倒見のいい職場

    初学者が戸惑っているときに周囲がタイミングよく気付き、救いの手を差し伸べること。

    この一点ですべてを物語っていると言えまいか。

    過剰なおせっかいではなく、過剰な管理でもなく。

    組織としては最終的には初心者であってもできるように仕立て、できることを認めて、任せていかなくてはならない。

    OJTという。

    業務がうまく回る、その一点のために必要なことは今回たまたま初学者、初心者目線で話したけれど、通常業務にしても同じことが言えまいか。

    トラブルが発生した時、イレギュラーが発生した時、いつもと違う判断に迫られたとき、相互の関係が円滑な方がいいに決まっている。

    こちらから相談しないと答えない、報告を挙げておかないと聞いてないと言われる、それら報連相・コミュニケーションは下から上に上げるものだと職位が上がれば上がるほどそっくり返っているような環境ではコミュニケーション自体が余計な負荷をはらんでしまう。

    尤も適切な報告連絡相談ができることも大切なスキルではあるけれど。

    だから、報連相は大事だけれど、周囲が気付く面倒見の良さは何倍も力になるし、結果的には業務効率も何倍にもなろう。

  • 染まることと染まらないこと。

    新鮮さを感じること、学びたいことがあるとき、学ぶことが楽しいとき、学ぶことが自分のためにもまわりのためにも世の中のためにもなるとき、そのままその環境に染まればいい。

    対して、真似してはいけないこと、悪い見本だと感じること、染まることが自分のためにならないと感じる場合はもちろん、その場の環境のためになるか否かはどうでもよく、世の中のためにもならないと感じるなら、それでもやむを得ずその環境に居なくてはならないのなら、染まってはいけない。

    たいてい、そういう場所は得するのが世の中じゃないことが多い(もちろん存在している以上、まったく世の中に貢献していないとは言わないけど)。感覚的には組織の中間層の誰かさんとかそんなところだね。

  • レベル(程度)差ストレスうつ

    この件はどのくらい共感を得られるのか、むしろ反感を呼ぶような気もしないでもないが、書いてみる。

    結論を言えば、自分が認識していることと環境(ほとんどがその環境を作っている人間たち)とのギャップにストレスを感じる、これが原因になることがある、という話。

    その環境とは、上司や部下、会社からどう思われているかは知らないけど、言動に問題がある人、相手によって態度が違う人、裏でこそこそやっている腹黒い人、こいつ、アホか?!と言いたくなる人は、上司だろうと同僚だろうと部下だろうといるし、時に会社という組織やシステムに対して問題を感じたりして、それらと自分の認識とのズレがストレスの原因であり、それがうつにつながりかねない。

    会社に対しては…法律や会社規模によって、できることできないことがあって、客観的にはやむを得ないことであっても整備された大会社から小さい会社に出向や転職で来た人には、あっちでできてこっちでできない、がストレスになることもあろう。ただ、やはり、大企業(上場企業)にはできても中小企業(非上場企業)ではできないことがあるのは確かだろう。

    うつの原因が「ストレス」なのはそれほど反論はないだろうから、これらのギャップを感じることによるストレスは十分、うつの原因として成立する。

    うつ人口がどのくらいになったか具体的な数字はわからないが、”社会が悪い”といつまで有耶無耶にしているんだろう。

    どこの世界にも程度の悪いヤツというのはいる。悪気はないとかで許されているのも不思議だが、物理的でも言葉でも暴力は糺すべきではないだろうか。

    不思議なもので社会的な地位や会社での職位とはあんまり関係がないように思う。

    ご出世なさる人とその人の人間性はまず関係ない。

    人品ともに優れた人だけが出世するということはまずない。

    出世というのは仕事ができるとか、ちゃんと立ち居振る舞いができているとか、そんなことじゃなくて、会社や上司が扱いやすいかどうかという部分もおおいにある。会社が機能するうえで重要な能力でもあるのだから、人間性がどうとか言っても仕方ないい。

    だから、上下左右にストレスを放つ人間というのは存在して然り。

    となると日常的なことになる。

    となると日常的なストレスが環境に備わっているということになる。何か自分がミスをして叱られなくても、だ。

    となると日常的に回避することを覚えなくてはならない。

    そこが難しい。

    例えば、日常的に嫌味を口癖のように言う人が同僚にいるとしよう。

    例えば、普通に指導なり、伝達なり、要望を伝えれば済むことに、なぜか非難めいた言葉遣いになる人が毎日会う同僚の中にいるとしよう。

    例えば、午前中は低血圧なのかは知らないが、朝会った時点で最初からイライラしていて、言葉を選ばずに強い言葉で接してくる同僚がいるとしよう。あるいはテンションが異常に低く朝の挨拶をしなくてもいいと思っているか、聞こえるかどうかくらいの声で顔を見ずに挨拶をする同僚がいるとしよう。

    「〇〇して頂けるとありがたいんですが」と言えば済むことなのに、「なんで〇〇できないんですか?」というなぜか非難めいた言い回しになる。ついでに「やらなくてもいいとでも思っているんですか?」と嫌味のおまけがついてくる。

    OJTがある職場ならいざ知らず、ない場合はたいてい〇〇をトータルで教えていないとか、どういうときに〇〇をやるとか、何か習慣的に〇〇をやることになっているという職場ルールを教えていないとか、他の記事にも書いたが、教える側の責任を果たしていないケースにおいて、教える側は”やって当たり前”の習慣と化しているため、”やらないのはおかしい”と心の中で非難モードに固定されてしまっており、そのまま口に出ている。言われた方は鳩に豆鉄砲である。

    いずれのパターンもここは職場(仕事をする場)なのだ、社会の一部でお給料が発生しているのだ、そんな状況のわかっていないこどもなのだと思うしかない。いちいちこちらまで反応して(ストレスを感じて)しまっては自分ばかりがストレスを感じて損である(こどもの方も何か不満があってそのような態度なのかもしれないが、理不尽なことで怒っているだけで、ひとりで怒っているにすぎず、それによってストレスを感じても知ったことではない)。かといって、傾向と対策をして論破したところで、そもそも長い間上記のような態度でも誰も注意してこなかったという環境そのものの要因もあるから、反論した分だけ自分がアウェー(孤立)になるだけだろう。

    決して自分は間違っていないと奮い立たせようとか、自分を正当化することで、ストレスを感じないように心の整理をしようというのも悪くはないが、エネルギーがいる思考方法ではないだろうか。もちろんそういった方法でもストレスを受け流せるならそれでもいいと思うが。

    基本姿勢は関わらない、ということだろうと思う。

    社会で子供のふるまいをする相手に正面から取り合う必要はないだろうし、思いつかない。

    こういったレベル(程度)差が原因でストレスを感じるわけだけれど、逆に「子供の相手はしていられない」と程度差を逆手に心の整理してみる。

    大人になれよ、という話なのだが、先ほども述べたように、ある一定期間それでやってきてしまった人に改善を求めるのは難しいことかも知れない。然るべき立場の人が注意を与えればもしかしたら違うかも知れない。あるいは信頼関係のある同僚が心を割って話す機会を持つこともこれまでの時代にはあったかも知れない。でも、今時ご指導すべき然るべき立場の人も同僚として信頼関係を作れている人も、人間教育のような危ない橋は避けたいのが正直なところではあるまいか。

    いずれにせよ、毎日のことになる可能性があるので、それだけにいちいち取り合わず、受け流す、あるいはとらえ方のパターンを決めて、心の整理をする…そういった工夫が必要なのではないか。

  • 人生に無駄はあるのか。

    無駄はある。
    人生に限らず、なんでも無駄なくことを為せることは極めて少ない。

    どんな天才もド真っ直ぐ生きることは難しいだろう。

    人生は常に取捨選択を迫られている。そのときそのときの選択が正しかったかなどとすべて検証なんかしていられないほど、日々、そして連続的に右か左かを迫られている。

    ふと振り返って、あのときの選択は…と思い悩むこともあるけど、どこかで折り合いをつける。後になってみると遠回りの選択をしてしまった自覚はあるけど、ああいう出会いや発見もあったし、正解っちゃ正解だよね、と。本来の主旨とかコンセプトから言えばズレてしまっているんだから、間違いだったと素直に認めるべきなんだけど、周辺の副産物のおかげで有耶無耶にされ、誤魔化されてしまっているだけ。総合的にはまぁまぁだよね…という見方も大事だろうけど、当初の方向性に照らしてどうだったか、という見方をすっかり忘れてしまっては、そこに反省や検証は発生しない。

    スピードありきのつもりが遠回りしたなら、所要時間が判断基準だし、副産物がを得たのは想定内のことならまだしも、偶然となれば、それでよかったよかったとはならないし、してはいけない。そこは切り分けたうえで、期日はどうだったのかをドラスティックに評価したうえで、別枠として想定外に得られた副産物を取り扱うべきだろう。

    そういう評価を冷静に出来ていることが前提として、遠回りだったことを単なる遠回りとするか、必要な遠回りだったか、無駄な遠回りだったかを見つめるべきだろう。

    ただ、それがどんな遠回りだったとしてもそれを認識したことがほぼすべてではないかとは思う。つまりこれに関してはPDCAでいうならば、Cの検証でいいじゃないの?ってこと。わかっているかどうか大事。そして、それを見て、精神論ではなく、冷静に無駄でしたね、と言えないとダメ。

    だから、無駄はある。

    ちゃんと認識する。

    精神論に騙されない。誤魔化さない。

  • 即断即決

    世の中の激変する。

    即断即決は日々の業務を構成する一番小さな点のようなものだ。日々の判断に無駄が生じれば、1日の活動に遅れが生じる。つまり、日々の判断の集積が1日、1週間、1ヶ月…の活動に影響を及ぼす。

    今答えを出すのも明日答えを出すのも同じ答えなら、遅らせる意味がない。

    もちろん、熟慮熟考すべき内容もときにもあるから、すべて即断即決のふりして短慮してはいけない。

    ただ、日々の業務の状況判断については即断即決する習慣を身に着けることができる。

    日々の業務について、「よく考えておきます」はない。何か作業工程に問題があるとか、抜本的な改善が必要となると即断即決とはいかないかも知れないが、それでも長期的な改善と短期的な姑息的改善は切り離さなければならない。

    改善すべき部分があるのに(放置しておけば危険性があるのに)、差し当たりの手も打たず完璧を期すばかりに長期的な手当てに気を取られて時間ばかりをかけていては、その間に時限爆弾が爆発してしまうかも知れない。

    そのくらいの想像力もなければ、すでに状況判断もあったものではない。

    ということは瞬時の即断即決と熟慮熟考、長期的対策を整理ができなくてはならない。この整理自体、瞬時にできなくてはならない。

    判断…という意味では”保留”という選択肢がある。先送りではなく、敢えて、今判断しないという判断をするという意味だ。これも大切な判断の在り方だと言える。焦らず時期を待つというのも大切で、この逆が短慮だ。必要な判断材料の揃わないうちに大事な決定をすることは慎むべきだ。

    即断即決を貴ぶあまり、闇雲に熟慮なく決断だけを繰り返し、結局後になって朝令暮改を繰り返す。これでは社員総出でやり直しを喰らう。朝令暮改をむしろ”スピード感のある我が社”と認識して誇りに感じていた企業もあった。確かにそのあとのM&Aや組織の拡大により、判断の遅さ、更に遅い上に熟慮熟考する習慣がもともとからしてなかったために、稚拙さと遅さが目立つようになった。

    大きな企業ではあったけど、稚拙ながらもスピードがあることで活路を切り開いてきた。その力の源が失われたら、会社の命運も尽きたも同然だろう。

    私はその会社では末端の社員であったから、評論家然とした言い方しかできないし、他社ではあるが、企業の中核を担ったこともあれば、それほど見方に間違いはないと思う。

    それは日々の状況判断が企業全体の前進に影響を与えるという法則にどのケースも外れていないからである。

  • 10年

    ひとつの仕事を10年やって初めて、その仕事の本質がわかる、そう言われてきた。

    10年選手という言葉がある。これも裏を返せば、10年やって初めて隅々まで実務を熟知した頼られる存在となる、という意味を含んでいるのではないか。

    10年とはそんな意味を含んでいるのではあるまいか。

    10年という期間のとらえ方も年齢とともに変わったと思う。

    20代くらいまでは、10年とは膨大な時間のように感じられたし、もう少し年齢を減るとひとつの重量感のある時間単位に思えるようになった。50代となった今はうかうかしてられないスピードを認識する単位になった。

    10年もあると思うな…。

    時間の感覚が年齢とともに変わる原理についてはまたどこかで述べたいと思う。割と科学的に証明…までいかなくても仮説はある。

    さて、この時間感覚の話は往々にして、仕事との付き合い方の話だったりするけど、一方3日3ヶ月3年という言葉もある。

    若い人が仕事を辞めたくなる時期を喩えた言葉だけど、あまり数字に深い意味はないと思う。

    3日:仕事のイロハを知る前なのに、合わないと思って、入ったばかりだけど、もう辞めたくなる。

    3ヶ月:やっぱり3日目に感じた自分には合ってないという気持ちは間違いなかったと反芻。何事も初めてのこと、慣れないことを習得しようとすれば多少の努力もいるし、挫けることもある。でも、普通に考えたら、同じ人間がやる仕事にやってやれないことなんてないし、何の苦労もなく何事も習得できるならそれはごく一部の天才だけだろうから、自分はごく普通の凡人と認めるべきだろう。

    3年:3年もすれば確かに基本的な仕事やある程度の応用、トラブルにも対応できるくらいにはなっているだろうけど、先輩や後輩と仕事の技術を共有し、これからは後輩というより部下と言うべき存在も増えるし、そうなると仕事の仕方、仲間との接し方も変わってくるから、むしろやっとスタートラインに立ったところなのかも知れない。

    ここまで書いて、3年で基本的な業務習得をして、社会人、企業人としてスタートラインに立てたとして、それって結構スムーズに進んだ人なんじゃないかと思える。

    3年くらいだと何か役職を頂いてもにわか上司だろうし、自分の部下を育てるとか、一人前にするとか、ひと様に紹介することもままならないかも知れない。

    そう思うと3年は全然だなと思う。それはそんな頃の自分を振り返っても恥ずかしくなるような、そんなレベルだ。

    一人前だなんて程遠い。

    でも、そんなゆっくりできない世の中でもあった。

    dog age とか言われる時代でもあった。時代が目まぐるしく移り変わる時代に現状維持は衰退なり、とも言われた。自分たちがどうであろうと世の中の方がどんどん変わっていった。だから、世の中の変化に追随しなければ、企業とすればそれは終わりを意味した。

    わたしが社会に出たのはバブルが崩壊し、氷河期と言われる時代だったし、何をやってもモノが売れる時代から、何をやっても簡単にはモノが売れない時代になった。自ずと価格競争が激化し、日用品の価格設定はドラッグストアによって破壊された。

    だから、平成のデフレスパイラルを生み出したのはドラッグストアではないかとすら思う。スーパーはその煽りを喰らって多くの企業が倒れたし、そのくらいドラッグストアが市場でチカラを持っていたんだと思う。

    もちろん、ドラッグストアも多くの企業が淘汰された。日用品を扱う業態において、いわゆる差別化は簡単ではなかった。どこでも買える商品を扱うのにその中で選ばれる店になるということは一筋縄ではいかない。

    ましてや値段競争で差別化を図るなど愚の骨頂で、製造原価という最低限の経費がある以上無限の価格競争などあり得ないし、得てしてメーカーはぎっちり利益は確保していたから、身を削るのは中間の卸と小売店だった。時に原価を割る価格設定もあったけど、今思えば狂気の沙汰の他なんでもなかった。

    新店のオープンセールで、開店したばかりの店の利益ですらプラスなのに協賛で一緒にセールチラシを入れた近隣の仲間の店がセール期間中赤字で店長がお叱りを受けたなんてことがあった。

    モノが売れると働いた感じがするし、儲かった気分になるけど、まだまだ経営視点が子供だった時代だから、原価割れした商品を無制限に売るということをやってしまった。

    同じAという商品でもセール期間中の原価と普段の原価は違う。セール分の安い原価でも売価が原価を下回ることは珍しくなかったが、普段の原価は当然セール時より高い。だから、予定数量より多くあれば赤字幅の大きい商品を売ることになる。

    昔から安売り商品の販売限定数という概念はあったけど、ある程度の現場経験を積めば店長にくらいはなれてしまうドラッグストア業界では今では恥ずかしいことだけれど、そんな稚拙な店長がいたことは大した珍しくなかった。

    幸い、私が配属された地域はその会社にとっては最前線だったし、故にそれなりの人材が投入されていた感はあったから、店長になる前から損益決算書は概略的には理解していたし、短期的に戦略上赤字経営を強いられる期間があったとしてもどこかの時点で降り積もった赤字を回収し、借金を返し、利益の出る形にしていく必要があることは理解していたと思う。必要…とはつまり、資本力があればこそ赤字の時代を耐え忍ぶことができるわけで、でもそのままではダメで、ちゃんと利益を出し、従業員の給料を毎月きちんと支払い、売るための商品を買い付けるにももちろんお金がいるし、客数を確保するためにチラシに費用を使い、店内を明るくするために電気代もかかる。その他諸々の販管費を賄いつつ、今日も明日も明後日も存在し続けるお店であり続けることがある意味経営と言ってもいい。

    今はその業界からは離れてしまったけど、業界自体がだいぶ成熟しているだろうから、先に述べたような無用な薄利多売はやらないだろうし、商品部の仕入れ能力はその当時の比ではないだろう。小売側の規模が当時の比ではないから、売り手に主導権が生まれたし、どんな商品が売れるのか必要なのか作り手に要求できる規模になった。

    この間、30年と経っていない。

    平成時代は経済停滞の30年とは言われるけれど、民間は何もしなかったわけではない。

    個々の人材が3年やそこらで成熟しないしないように環境そのものもそれなりの時間は要したけれど、着実に変化はあった。

    ただ、30年を振り返ると着実に成長なり成熟した企業や業態、業界はあっただろうけど、30年経てば誰でもよくなっているわけじゃない。

    やっぱりそのときそのとき、ギリギリの選択や方向性の見定め、ときに失敗をしながらもリカバリーした歴史があるのではなかろうか。そうやって継続性のある軌道に乗って今に至るのだろうし、乗ったからといって安心もできなかっただろう。そうやって積み重ねてきた企業もあれば、そんな企業ばかりでもない。

    ひとも然りで、弛まぬ努力を積み重ねるひととそうではないひとがいるのは不思議なことではない。

    だから、10年おれば、必ず間に合う人間になれるわけではないし、20年経っても学級会だとか動物園と揶揄される職場は普通にあるし、我々普通の凡人にとっては環境が大事なのではないだろうか。

  • 属人化

    Aさんしか知らない業務内容を作らぬこと。

    仮にAさんが熟練の人だったとしてもブラックボックス化しないこと。

    理由は簡単。

    そのAさんが何かの事情で急にいなくなれば、混乱するからだ。混乱までいかなくても戸惑うことは間違いない。

    そこまで極端な例でなくても、普通に配置転換があったときに引継ぎができないからだ。

    代わりが利かないAさんは素晴らしい人材かも知れないが、代わりがいないのはその企業にとって大打撃だ。

    例えば、店舗開発のようにいい物件を探してくるような仕事だと、いまだに不動産屋相手の仕事は人間関係が重視されるそうな。金を積めばとはいかない世界なんだそうな。

    もちろん、某ドラッグストアが相場の3倍の家賃を出してとある物件を落札したなんて話は現実にあるから、金さえ積めばという部分もあるにはある。

    ただ、それをやり続けるにはとてつもない資本力が必要になるし、単純に長くは続かない。

    そうすると郷には従えで、その業界の体質に従えば、3倍も出す必要はなくなる…だがしかし、マニュアル云々でマネできる話ではなくなる。人間力のある人間にしか引き継げないということになるし、前任者から後任者に多少の挨拶をしたからといって、”担当者交代”とはならない。前任者の”顔”があって、その”顔”に泥を塗らない人物と評価されないと後任者も仕事はもらえないんだろう。

    これはやむを得ない属人化だと思う。

    極めて稀な例としての。

    しかし、ひとりの人が長くある業務に居座ったおかげで他の誰にもわからなくなってしまうようなケースはままある。マニュアルがその人の頭の中にしかないような状態。

    非上場だとそういうことは起こり得るかも知れない。業務分掌がなければ、そもそも業務の守備範囲もはっきりしないかも知れない。そういう人の場合、ひとりの守備範囲がやたら広いことが多い。

    一見有能に見えるけど、近い将来問題になる。いずれにしてもいつかのために後任を見繕っておくか、組織的に分担する仕組みを導入することを計画しておかなくてはならない。

    これも少々難しい問題ではあるが、整理してしまえばひとりの熟練者を配置し続けるより安全な組織にはなる。

    いつでも代行者をあてがえるように仕事のサイズを切り分けておく、業務フローを整理しておく、仕事のボリュームが小さめになっておれば、後任もマニュアルとOJTで慣れるまでの時間が最短化できる。

    Lynyrd Skynyrdが飛行機事故でメンバーの大半が亡くなったことを思えば、まだなんとかなる話だ。

    どちらかというと飛行機事故よりずっと予見できるし、計画的に対策できる。

    つまり、属人化を放置したなら、それは自業自得なのだ。

  • クレームが発生する原理

    まず、お客さん(利用者さん、患者さんなんでもいい)からお叱りを受ける原理を考えたい。

    とりあえず、「さん」か「様」かの議論もここではあまり関係ないのでなし。

    あと、そのご指摘頂いたお客さんがクレーマーかどうかもちょっと横に置いておきたい。

    先に言ってしまえば、何かあった場合に自分たちが変えられることだけを議題に挙げるべきだと思う。

    無理難題を大声で喚くお客さんの考えや行動を変えることはこちら側ではできない。

    理不尽なことを言う人が本当に自分が言っていることが正当だと思い込んでいる場合も単に嫌がらせのつもりでやっている場合もその思考を変えることはできないのだ。

    差し当たり、問題を排除するために官憲の力を借りることはやぶさかではないが、そこに労力を割くのは最小限にすまいか?

    若干、ふわっとした表現にはなるが、結局のところ脇を締めるとか結界を張るとか、悪意を寄せ付けない体質を作ることに専念すべきではないか、という話だ。

    なによりも自分たちにできることをする。悪意のあるお客さんをやっつけるとか、無理難題を言われたら通報するとか対抗策ではなく、自分たちの体質とか行動を変えて、妙なトラブルが起きないように寄せ付けないようにすることに集中する。

    神棚を祀ってもよい。

    決してスピリチュアルな力を信じているわけではない。

    ただ、理屈抜きにトラブルの多い店と少ない店があるのは確かだよ。

    それがひとことで言えば”脇が甘い”に集約されてしまうのだけれど、よくよく観察するとまずい店はまずいだけの理由がある。

    そもそも、いい加減さ、不誠実さ、人を見下す態度といった見ていて不愉快な姿勢や態度が接客に出てしまっていることがある。

    そもそも、接客のスタイルとして、フレンドリーの”つもり”が普通に失礼になっていることも多々ある。つまり、お客さん↔スタッフ間の関係性のラインが見えていない。”フレンドリーな接客”は礼儀作法やいろんな年齢層のお客さんの心理というものがわかっていないとそもそも使いこなせるものじゃない。

    同じフレンドリーなのに何が違うんだろう。

    わかっている接客のプロなら、元校長先生のおじさんと同年配だけど駄菓子屋のおじさんと同じ接し方はせんのだよ。

    同じ会社のチェーン店なのにトラブルが多い店とそうでない店があるのだから、会社組織に問題があるとは言いづらく(あるとすれば「相手に合わせた接客をしなさい」とかそういった考え方の教育があったかどうかの責任)、個店個店の体質、癖、雰囲気、姿勢…つまり、そこにいる人(従業員、スタッフ)の性格や姿勢が招く…と言えないだろうか。そういった定性的な体質はチェーン店であっても人間が運営する以上、違いが生まれやすいのは至極当然。

    構成するメンバーはそれぞれ違うのだから、文字通りその店の持つ雰囲気が違って当然。

    広い意味でお店屋さん、商売をやるとある一定の法則があると思う。

    お客様とのトラブルが多い店はスタッフ間でもトラブルが多い。そのスタッフ間のトラブルもスタッフの仲が良いから大丈夫とかそういう単純なことではなく、スタッフ間が協力関係にあったり、助け合う精神があったり、それがちゃんと店の利益や存続につながる連携であったり、ほかの言い方をすれば、モチベーションやベクトルが一致している状態なら問題は起きづらいのではないか。起きたとしても、向いている方向が同じだから、怒らせてしまったお客さんにも理路整然と誰がやっても同じ説明できるだろう。普段から仕事に対する姿勢が一貫しているから、怒らせてしまったお客さんも適切な説明や対策の提示を見れば、納得されることだろう。そもそも悪だくみを持ったクレーマーは寄り付かない、近付きづらい。つまり、普段の仕事の姿勢が付け入る隙を与えない。

    そもそも、従業員同士が協力関係にある店がお客さんに対して、ぞんざいな態度をとることはなさそうだ。

    仲間にやさしくできない人がお客さんにやさしくできるはずがない。これは職場のパワハラにも通じると思っている。

    そして、脇が甘ければ、付け入る隙になる。

    困らせてやろうと思っていて、思った通りまごまごしていたら、そりゃ困らせ甲斐があるというものだ。いじめっ子の心理と同じではないだろうか。下手な言い訳でもしようものなら、突っ込んでやろうと最初からそう思ってやってきているんだから、渡りに船だ。

    これはあまり根拠もなければ統計を取ったわけではないから、あまりにも定性的で数値化も難しい。

    でも、躾の出来ていない、残業の多い、よくわからない地層のような職場ルールがある、古株が牢名主の如くルールの執行人になるから職位とは別のヒエラルキーが存在する、だから組織上の統率が取りづらいし、そのルールも納得できるかどうかではなく、守るかどうかが重要…それが牢名主への忠誠心となり、新しい上司が着任するととりあえず抵抗する、チェーンなのに「ここは他と違う」と他を良く知らずに自分たちに都合のいい現状を維持しようとする…こういう論理的にも倫理的にも資本主義的にも会社の就業規則的にも、とにかく公のルールや法則に何ひとつそぐわないことがその店の中だけでは公然と成り立つ(声の大きい人が言い張っているだけで)環境となると、そもそもその店は一枚岩ではないし、従っている人たちも牢名主が怖いだけで、まったく納得していないから、トラブルを招き寄せているようなものだ。

    そんなわけで、やはりふわっとした関連性を述べるのが精いっぱいだが、結構それあるなって思う部分もあるのではないだろうか。

    少なくともそこに勤める人たちの姿勢次第で、それが結界にもなり呼び水にもなる。だから、何も神様に守ってもらおうという意味で神棚の話を挙げたわけじゃない。そのくらいの心の余裕もなく、道理も倫理も(このサイトでは”躾”を挙げることも多いかな)ない店は長くは続かないし、トラブル対応で疲弊するのが落ちだろう。