カテゴリー: 人と組織

会社・職場というところ、マネジメントというもの、実務者というもの。

  • 仕事との距離の置き方

    きっかけは年齢が一番大きいと思う。

    そして転職。

    大学を卒業してから、常に変化と順応を繰り返してきたつもりだけど、いつまでもできていると思っちゃいけない。

    人から見れば守りに見えるかも知れないけれど、人間そんなに若い時のまま動けるわけじゃない。頭も体も。

    それに、ますます世の中は簡単に隠居させてはくれない。年金受給年齢まで働かなければならない。

    となるとそんな年齢までフルパワーでいくのは自殺行為だ。冷静に考えれば。

    若かりし頃、60、70まで現場仕事で体力仕事なんて到底無理だと思ったもの。だから、上を目指した。偉くなりたかったわけではないような気はするけど、頑張っていたら成れただけ。

    ただ、早すぎた。

    結論から言えば、年齢とか職位とか関係なく、何でもやります、何でも断らないスタンスから、上手に距離を置く仕事との関わり方も必要だと思うようになった。

    大事なことは活躍することではなくなり、ストレスがないことだったり、自分ができることだったり、得意なことに比重がいく。あまりカッコいい生き様ではないけど、果たして必殺仕事人はどこを切ってもカッコよかっただろうか。

    役人としてはいい加減で上司から目を付けられ、家に帰ればダメ夫。ただ一点、暗殺の腕前のみが一流で、その動機すら怨みを晴らすことであって、正義の味方でも何でもないと自称している。

    ある意味、闇落ちかも知れないが、そこに立ち入る勇気も必要なわけで、やらないとやりたくないとできないがない交ぜになっていくけど、やらないの中には自分の中での線引きというか、線を引いてやらない領域を敢えて作るみたいなことが必要なんじゃないかな。

    心境としては映画「許されざる者」が近い。結局、この映画の主人公は殺しの世界から引退したはずなのに、否応なしに引っ張り出され、眠らせたはずの悪しき技を呼び起こしてしまう。

    できれば、ひっそりと静かに余生を送らせてくれまいか…そんな気持ちがわかるかい。

    どうも頼まれると断れない質というのは最終的に自分に責任が向くことが多い。そのたびにもう偉くなんかなるか、と思う。それなりに成果は出せていて、客観的に評価されてもよさそうだが、それほど感謝されないのはやはりそれなりの成果だからか。それなら仕方ない。

    もうそろそろできていたことを今でもできると思っちゃいけない。それよりできることを確実に…の方が精神衛生上も好ましい。

    そろそろそういった距離感を見出せなきゃならない。

  • 仕事と性格

    もし、あなたが問題を発見したらそのまま放置できない性格だとしたら、解決することが正しいとは思わないことだ。

    合理的に考えれば、問題を抱えたまま業務を続けることの愚かさは共感できる。それはたぶん無駄が存在し続けたり、リスクをはらんだやり方を続けていたりして、無駄がなくなれば当然利益に転嫁されるだろうし、リスクがなくなれば継続的な経営に寄与するだろうから、やはり問題解決をしない、という選択は考えづらい。

    ただ、その無駄な仕事やリスクをはらんだ業務のやり方を手放せないことは結構あるような気がするし、パッと思い返すだけで何件か思い当たる。

    無駄だということを感じていないのかも知れないし、無駄かどうか考えたこともないのかも知れない。そもそも無駄があったからってどこに問題がある?と思っているかも知れない。

    例えば、業務中におしゃべりが絶えない職場がある。すべてのおしゃべりが無駄だとは思わないけど、終わることがないケースもあった。お客さんが来店しない限り10分、20分、1時間と続く。お客さんがいても構わないというケースもある。これはもうおしゃべりが楽しくて仕事に来ているといっていい。注意しようものなら、楽しい仕事の時間を奪ったかのようなことになり、仕事が楽しくなくなったと不満を漏らす。これが楽しくて来ているのに!と。それも仕事なんだ!?と愕然させられる。仕事っていったい?もうよくわからなくなる。

    おしゃべりが楽しくなっちゃうのはよくわかるけれど、無駄な仕事、できれば本当になってほしくない仕事を頑なにやめない人種がいる。古い話で恐縮だけど、昔々の話。錠剤のヒートシールはごく一般的には10錠単位で2錠ずつちぎれるようになっているけれど、切った後、角が尖っている。その尖った角を丸める”隅切り”という仕事があった。実はかくいう私も実際に見たわけではないんだけど、その仕事を頑なに続ける薬剤師さんがいて、仕事にならないと薬局長だったかエリアを統括する人間からだったか訴えがあった。権限を使って止めさせたかったのかも知れないが、こういうケースにはまず効果がない。実務者は理詰めだからかえって届かない。薬歴を終わらせてほしい(そっちが優先だから)、施設のお薬の準備をしてほしい、在宅の患者さんをひとり担当してほしい、いろいろやってほしいことがあって、優先順位を訴えて、無駄順位の高いその隅切りをやめさせようとするんだけど、やめない。ときどき感じることだけど、その隅切りをやっても在宅の患者さんのお家を訪問しても時給は同じなのだ。ましてや在宅の担当なんて持とうものなら定時で帰れないじゃないか。さすがにそんなことを口に出して、上司の指示を断ることはないだろうと思うだろうけど、公明正大(?)に言われるのがこの世界特有の話。簡単に言うと面倒な仕事を押し付けられないための予防策として、客観的には無駄な仕事をさも必要だと手放さない。決して珍しいことではない。

    そして確たる証拠はないけれど、ざっくり言って、そういう環境では残業が多かったり、一部の人に残業が偏って多かったりする。大抵はその”手放さない人”ではなく、周りの誰かがかぶっているパターンが多そう。

    だから、ムリ・ムダ・ムラをなくすことは大変いいことだけど、必ず抵抗勢力がいるということ、よく知っておかなければならない。

  • 仕事はマスター、気持ちはビギナー。

    仕事の姿勢を示す言葉。

    仕事の質はマスターレベル(を目指し)、気持ちは新人のときの新鮮な気持ちのままで。

    ベテランと言われる人たちにとっても世に出たばかりの人にとっても。

  • 見える化と5S

    整理

    整頓

    清潔

    清掃

    ふとこれらと見える化は同じライン上にあると思った。

    目に見える状態であっても整理整頓されていなければ、目に入っていても認識しづらくなる。

    清潔清掃はちょっとズレるかも知れないけれど、躾はこの整理整頓をする魂の部分にも思える。

    見やすくしておこうという心の動き、目線。気付きやすくしようという心の動き、配慮。

    清潔清掃はそれらを認識しやすくするための補助療法だろうか。

    常々、この躾が核なのではないかと感じている。原動力になる。裏を返せば、椅子から立ち上がって椅子を入れない人に、トイレットペーパーを使い切ってもそのままでトイレを立ち去る人に、会社のロッカーの扉がいつも空きっぱなしの人に、土台無理なことではないだろうか。

  • OJTの原則

    (1)やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。


    (2)話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

    (3)やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

    (1)はOJTの基本プロセス。手順書。

    (2)は上に立つ人、教える側の姿勢。上司観。

    (3)は最終的に教え教わる文化が醸成された組織の話。組織論。

    やってみせ:まず手本を見せる。ときどきできないくせに口だけで説明して、教えたことになっていることがある。手本とは本来あるべき姿であり、本来要求されるスピードやクオリティーを示すことになる。つまり到達点。ただし、かっこよくスマートな状態だけを見せて、ほらやってみろは違う。動きがわかるようにゆっくり見せる必要もある。”やってみせ”だけですでにこれだけのボリュームがある。

    言って聞かせて:いわゆる動機付けの部分。その仕事をやる理由、必要性。仕事には必ず理由があるのだから、それを伝えてできれば内発的動機付けに持っていく。ただ…いまどきはそれがうまくいかない可能性がある。仕事上必要なことと自分がやるかどうかがきれいに分離している人間が割といる。会社なんだから、とか、仕事だから、とか、給料もらっているんだから、とか、そんな話はイチミリも動機にはならないし、これらは外発的な動機付けであり、言い続けないと失われる動機。一方、決まっていることなら理由が何であれやる、という人種もいる。理由なんてどうでもよくて、クオリティーもどうでもよくて、よりよくとか熟練にも関係がなく、決められたとおりに動くのみ、というパターン。だから、動機の在り方も会社目線とかお客様目線とかが通用しない時代。

    ほめてやらねば:ここで誤解してはいけないのは、そのままほめるという意味ではなく、評価するとか、その前に認知するという意味に置き換えておきたい。サンドイッチ話法とかそういうアドバイス方法が端的には出てくるカテゴリーなんだけど、もう少し深い。出来た出来ないの前に、やってるね、と認知する。腕前を向上させるかどうかはその次の話でね。

    話し合い、耳を傾け、承認し:議論できる時点でそうとう出来上がっている観はあるけど。少し前から聞かれるようになった話に「僕の考えでは」をごり押しする若者の話。ここでも会社とか組織の中にいるということをすっかり忘れているのだけれど、会社で決まったことに対し、意見を求められているような状況でもないのに「僕の考えでは」が出てくる。多くはそれって、先人たちによって失敗したこととか、法律に触れることとか、とにかく「やってごらん」すら上司が許可できない内容を堂々と、且つ頑迷に主張してくるパターン。

    任せてやらねば、人は育たず:いわゆる権限移譲。権限を適切に移譲するのは難しい。権限の範囲を設定して、適切な人材に移譲するわけだ。そして組織として成り立つように権限を振り分けなければならない。どうやっても権限と権限の間に隙間もできる。逆に集権化する組織もなくはない。以前投稿した教育に重点を置かない組織では適切な人材に乏しい。正しい判断ができるのは階層が高い人だけ…。まぁ、能力の良し悪しというより情報量の多寡なんだろうけど。集権化すれば、少ない人間で権限を行使できる。スピードが上がるような気もするが、いちいち下位層は上位層にお伺いを立てなければならない。稟議が増える。書類が増える。会議が増える…。下位層や若い層を教育する手間と経費を減らすことは短期的には利益に反映するだろうけど、権限という点では機能不全に陥りやしないか。一応、皮肉を言っておくと上位層が優秀であればいいね。

    やっている、姿を感謝で見守って:資本主義経済の中では、この感謝で見守ってが難しいんじゃないか…。上位層は下位層の仕事をやって当たり前とみている。事実そういう当たり前の面もあれば、当たり前と思ってくれんなよ、と思う面もあろうな。

    信頼せねば、人は実らず:私が初めて平社員から平社員じゃなくなったとき、「信じて頼るな、信じて用いよ」と言われた。人を管理するとはそういうことだと。具体的に人に仕事をさせるとはそういうことだと。

    制御して使うものだと。ずっと平社員だとこの感覚はわからない。ひどいとか言われそうだが、それはあなた方の上司が表に出さないだけで、少なからずそう考えているか、頭を使っていない無能な上司かだ。無能な上司でも務まる組織なら、その組織はその程度のものだろうし。

    では、この場合の”信頼せねば”は如何なる意味だろう。これはもうそれなりの権限を移譲して責任とともに委ねられるほどの存在だろうから、信頼し切って失敗したとしても上司の知ったことではないんだよ。恐らく権限だけでなく、立場(職位)、報酬を頂いてのことだろうからね。守ってもらう立場じゃないんだ。だから、そこに覚悟もあろうから、育つ。

    それをわきまえないと上司は責任を取ってくれるひと、守ってくれるひとという勘違いが生まれる。権限移譲とはそういったドラスティックな面もある。

    この山本五十六元帥の格言とされる言葉は教育の至言の如く語られるけれど、深く考えれば考えるほど、”責任”とかシビアな話と切り離せなくなる。

    決して甘い話ではない。

  • カウンセリング命

    寄り添うこと。

    反論しないこと。

    相手の気持ちや心をひとつでも拾おうとする姿勢でいること。

    それはつまり、テレパシーでもない限りわかるはずないと切り捨てるのではなく、かといってわかった気になれというのでもなく、わかろうとする姿勢の話だ。

    そして、悪用せぬこと。

    宗教の勧誘、〇〇経営の営業、ネットにあふれるマル秘ノウハウと儲け話の勧誘、自己啓発系のセミナー…みんな手口は一緒。

  • 会社の評価制度

    会社の評価制度の核は面談。

    面談に尽きる。

    だけど、面談する側にスキルを要するし、評価者のスキルはまず間違いなくばらつくし、これまた評価者を育成する研修の費用対効果がわかりにくい。まず、面談を会社の指示通りやっているか、結構あやしい。

    意外にも評価される側にもまぁまぁ高度なスキルが必要になる。定型として、評価される半期や一年の業績を自己申告する場面がある。仕事の出来不出来とは別に自分の業績をアピールする場がある。多分一方的にしゃべる形で3分とか。だんだん上司の方から口を出して、対話形式になることもあるだろうけど。ベースは自分からこういうことを頑張りました、こういう成果がありましたと述べることができなければならない。もちろん、しゃべりが得意じゃないからと言って、評価に影響することはないと思うんだけど、やっぱりうまくまとめてくる人ともごもごしているのと比べると評価に反映させてしまう上司も多いかも知れない。

    本当はそれは正しくない。普段の働きを見ていて、尚且つ被評価者からのアピールがあって、上司が気付いていない部下の努力もあったり思い出したりするかもしれなく、そういった過程を経て両者のズレをなくす。あるいは部下が過剰、あるいは逆に過小に自己評価している場合は客観的な評価を伝えることで今後の仕事への姿勢、行動も現状から乖離しにくくなるだろう、ということを期待している。

    ただ、面談は先ほど述べたように普段の業務スキルとは別に面談のスキルが必要だと思うし、そのあたりの問題も述べた。結局のところ、面談に力点を置くより、評価制度、評価基準を明確にしていくことのほうがブレは少ないだろう。それでも定性的な内容は避けられないけれど、その評価基準の範疇で評価者と被評価者がすり合わせすれば済む。

    実際、若干のブレがあったとして、ボーナスの金額が何十万と変わることはないだろうし、多少の曖昧はあって然りだろう。

    「コミュニケーションが取れて」云々の項目に対して、被評価者は満点をつけているけど、上司はそれは雑談のことではないか?業務上のコミュニケーションが欠けていることで、後工程の担当者がさかのぼって確認するケースが増えている、だから、タイムリーな情報伝達がないと周りの人はいちいち確認しに行かなきゃいけないよ、など。

    それで連携しないと円滑な業務にならないですね、となればいい。ただ、そんなにうまくいかないことも多くて、ここまでの解説をしていても「じゃ、訊きにこればいいじゃないですか」。受け持っていた仕事を後工程の人に引き継ぐときに伝えればそのまま円滑にいけるのに、言わないで訊きたければ訊きに来い、と認識しているとなると難儀。何が知りたいのかわからないんですよ。最近の空気読まないタイプですかね。

    別にそれはそれで構わないのですが、まわりはいつも面倒とか尻ぬぐいを強いられるし、そんな気分になる。それを改善しましょうよ、という話でもこういうこじれ方は時々ある。

    私の個人的な拙い経験では極めて稀だけれど、ごく少数存在する。たまたまその個人、ではなく集団的に。つまり、組織的な問題…と言いたいが、社風、風土、習慣なのだろう。

    そうなると組織やチームが相乗的に向上するのはかなり厳しい課題で、自然ルーティンをこなすだけのチームになる…。

    やはり、組織の問題。部課長あたりが現場に精通し、有機的な視点であたらないとね。

  • 薬局の時間外労働対策

    まずはサービス残業対策。
    次に退勤間際の時間帯の段取り。
    本丸は朝から帰るまでの作業(頭脳労働ではなく、ルーティンというか、定型業務)の手順、オペレーション改革。

    これはどんか業種業態にも当てはまる。

    まず、サービス残業対策。
    これをやらないと(今まで勤怠などで把握できていた)残業時間は減るけれど、把握できないものにすり替わる可能性があって、当然法にも触れるし、働いている人たちのモチベーションも体力も損なわれる。1ミリもいいことはない。まずは残業がサービス残業化しないよう予防策を講じておく。

    見えていた残業が管理されないサービス残業化するのは、「残業=悪」という標語が「残業禁止」→「残業すると会社に把握される」→「隠れてやればいい(勤怠を通さない)」or「残業代を払いたくないなら自分の時間でやるわ」に歪んで変換された結果ではなかろうか。勤怠に記録が残らなければいいんだろ?という発想になり、誰かがトラブって退職するときにお上に通報されて明るみに出るパターン。

    そもそもは善意からやっていることが多いのではないか。朝早く出勤して◯◯をやるんだから、そもそもは悪意じゃない。なのに、れっきとした業務であるのに違法だのサービス残業だのと言い渡される。れっきとした業務なんだから、その時点で違法だのなんだのって間違っているんだけど、その朝早く来てやっている業務を勤務として認める、充てる。それだけでいい。朝が無理なら他の比較的手すきの時間に変更する。とにかく勤務時間の枠の中に充てる。人智を尽くしてもどうにもこうにも勤務時間内に当てはまらないなら、それって全体の人時(人手)不足。増員案件。まぁ、増員となると費用対効果も考えなきゃいけないから、単純に採用しましょうとはならないかも知れないけど、そうなると本当にやらないといけない仕事?という議論もまじめにせねばならない。やらなくていい仕事なら言いにくくてもそういう話をせねば、解決しない。

    総じて、「〇〇したほうがいい」はしない。「〇〇しなくてはならない(マスト)」の仕事に力点を置く。

    とにかく、れっきとした業務なら勤務時間として認めるところから。

    次に「帰りましょうキャンペーン」。一見安っぽいけど、効果がないこともない。本来は段取り、1日の仕事の流れの中で計画的に時刻通り帰るのが理想だけど、そもそも時計を見る習慣のないのもいるし、帰ってもいいのかしら?と気遣いが脳裏をよぎることもある。だから、「時間ですよ」とバッサリいけばいい。言ってみれば、退勤時刻になったら、「時間です」と宣言する係を作る。実はこういう具体性が大事。ただ、仕事も終わってないのに時間だからとさっさと帰る輩も躾のない学級会には多い…。

    で、本丸。

    一般論としては一連の業務フローの中で律速となっているポイントを見付ける。一日の業務の核、あるいは大多数を占める業務の手順や環境を整える。

    いきなり細かいことから言うようだけど、毎日使う文房具を使うたびに置き場所まで取りに行くことが無駄だと気付かなければならない。毎日使うなら、いつも使う場所に定位置として設置することが実は象徴的な改善策。

    部長がハンコを押すべき書類をいつも溜め込んで決済が進まない。部長が溜め込んでしまう癖の人なのか、そもそも社内の書類管理が多いのか、その部長に集まってくる書類の量が適正じゃないのか、部長の前の段階の人が溜め込んで一気に持ち込むから部長が悪く見えるのか…。ちょっとここでは個人の癖とか能力は別の話なので、稟議回覧のフローを簡略する(つまりこれは単にハンコを押す欄を削る、省くという話ではなくて、適切に権限移譲して、書類の回覧のみにするか、それでは書類は減らんということなら、権限者が周知するところまで責任を持つ、等々の内部統制的な話になる)ことになる。

    つまり、部長ではなく課長に権限移譲されておれば、課長段階で周知なり運用に移行すれば事足りる。部長は「はい、見たよ」でおしまい。

    調剤薬局なら棚。棚の配置が命。よく使う医薬品を一番下の引き出しにしまって、都度しゃがんだりかがんだり、腰を痛めて、取る無駄は良識があればそうならない。と、こう読めば「そんなバカな」というだろうけど、どういうわけか、薬局というところは考えなくても変だな、という状態の上にさらに次の層が覆いかぶさっていることが多くてそのまま保存される。つまり普通に実在するし地層化する。若いから腰痛くない、とかそういう話じゃないんだが、高頻度に使うAという医薬品を28錠取ってくるためにいちいちしゃがんだりかがんだり、腰を痛めたりすることを繰り返す時間の浪費と筋肉・関節の疲労に向き合わないといけないんだが。

    よく使うものは簡単に手の届く場所に。これは見える化もセットだと思う。ひとに訊かなくても見たら見つかる。

    更に徹底するなら、最下段の引き出しは使用不可(備品などは可)。

    次に法則の単純化。一般的には50音順。50音順と言ったら50音順。例外を作らない。自動的に1ヶ所展開になる。Bという医薬品があっちとこっちにもあるなんてことは愚の骨頂(だけど、やはり実在するし、薬局あるある)。湿布が(ガタイが大きいから)あっちの棚とこっちの棚に分かれているなんてことも同様。法的には普通薬・劇薬を区分するけれど、次の区分は剤形。錠剤カプセル、軟膏チューブ、目薬…。予備在庫が本籍の棚に収まらないなら、その本籍棚が頻繁に使うものなら、その使用頻度に耐える場所でなければならない。本籍棚が取りやすい上段の目線にあるのに予備在庫は最下段の引き出し、あるいは別のオリコンにしまってある、脈絡のない別の棚に別途あいう…が並んでいるなんてことも作業性を完全に無視しているだけでなく、混迷以外の何物でもない。

    狭義の調剤(いわゆるピッキング)は単純作業だから、効率(作業性)がすべて。余計なことが頭をよぎれば間違いのもと。配置ルールの単純化と徹底に尽きる。正しいお薬を正しい数量持ってくるだけにする。

    ここまで効率命でお話ししたけれど、”薬効分類別”という棚の考え方もある。チェーンの薬局が大多数を占めるから、応援などの人の貸し借りが普段から起きる環境では恐らく極めて少数派ではあると思うし、個人薬局限定かも知れない。ただ、どうしても薬効がひとつとは限らないので、配置に困ることになる。つまり、初学者や配属間もない人間にとっても教える側にとっても一言では説明し切れないし、慣れるまでの時間が必要になる。つまり、熟練が必要。一方、剤形別と50音順を伝えれば済むのであれば、OJTする方もされる方も短時間だし、覚えることも少ないから経費の面でも年取った頭でも負担が少ないし、今日からある一定のパフォーマンスを期待していい。教育が一番お金がかかる。教える人と教わる人の人件費はいつも×2以上だし、習得したかどうかわかりにくいから効果も微妙。費用対効果が悪いというより算出しづらい。

    だから、ルールがシンプルで、教えること覚えることが少ないことが正義なのだ。

    ただね…、”薬効別分類”はその会社や薬局の姿勢としては嫌いじゃないし、立派だと思う。つまり、そこに思想があるか否かだと思う。

    また、機会があれば作業動線とかもう少し人間の動きの話もいつか。

  • 初期教育の重要性

    平たく言えば、これがないと、もっと突っ込んで言えば、もし会社にそういう思想(育てようという思いといってもいい)がなければ、例えば新入社員に対してよく言われそうな「いつまで学生気分なんだね?」みたいなセリフは30歳だろうが40歳だろうがそ言いたくなる状況が変わらずずっと続く可能性がある。

    仮に初期教育がなかったとしても、日頃から会社つまり上司などが部下に対し、報告連絡相談を求めたり、何か問題があった場合に改善するよう指導する風土があれば、十分気付きのきっかけになるし、40歳になっても自分のミスを処理できない(決して腹を切るということではなく、普通に責任をもって仕事をすることを意味しているのだが、その対処方法は上司に出張ってもらう、みたいなことになったりする)子供みたいな状況がは避けられそう。不平ばかり言っていちいち仕事を止める部下がいても「反論があるならその根拠と代案を示せ」と多少の摩擦は避けられないかも知れないけれど、仕事っぽい議論になればお互いに気付きになる可能性が増える。

    尤も…建設的な議論ができるのなら、「学生気分」くらいは卒業しているんだろうけどね…。

    つまり、本当の意味での”仕事”をしているなら、普段から気付きがあり、自然と成長する機会が発生するものなのだろう。

    本当の意味での仕事とは多分何かに”貢献”することだろう。それは業種業態によって様々だろうから一概には言えないけれど、お客さんとか、利用する人とか、患者さんとか、会社だったり、上司だったりするかも知れない。

    まぁ、後半は時に「上司の顔色ばかりをうかがって」と揶揄される対象になりがちだけれど、見方を変えれば、上司や会社の顔色をうかがって、それが円滑な業務につながているのであれば、そんなにダメなこととは言えない。

    話を戻す。

    日頃からこういったやりとりがないとしたら、文句を言って好きなことしかやらなかったら、ごく一般的な普通の人が成長のきっかけをつかむのはかなり厳しいことになる(一般的な普通の…と言ったのはごく限られた天才は周りがどうであろうと成長できるので、そういう人は省いて考えなければいけない)。

    文句を言って…といったが、文句を言う方がまだましで、黙って好きなことをしないというタイプもいてこれは厄介。

    いずれにしてもやると決まっていることをやらなくて済む状況は本人にとっても会社にとっても大ダメージなように思うけれど、結構ある。

    かくいう私もやらずに済む仕事ならやらずに…と思うことは多々ある。そいつは経験です(笑) 会社から指示は出たけど、この類は立ち消えになるか、中止になるな、と。固まるまで保留するに如くはなし、というケースは結構あった。

    では、日頃の業務次第で、初期教育は必ずしもマストではないのではないかと思うこともあるけれど、果たして現場やそれを監督する中間層のクオリティーも必ずばらつく。つまり、上記のような経験値を高める環境をこさえてくれる中間層ばかりではないから、結局統合的な初期教育を施すことがベースを整えることになるし、少なくともスタートラインが揃う。

    この中間層の力量のことを言ってしまうと、初期だけでなく、継続的に何かしらの統一された教育を施していくのがセオリーなんだろうけど、ここではせめて初期教育だけでも…というスタンスに留めておく。

    スタートラインとは仕事をする姿勢がある一定水準まで引き上げられる、または均一になるということをイメージしている。

    実はこの話は冒頭で何となく察知された方もいるだろうけど、とんでもない地獄をはらんでいる。社員の成長というものを会社がひとつも願わず、本質的に期待していないとしたら。

    経済がいいときの話かも知れない。社員の成長が会社の成長と言ってもらえたのは。

    初期教育をせず、現場任せ(任せますよ、と言っていればまだ救いようがあるが)だとしたら(つまり放任主義といった主義ではなくただの放置)。評価制度という枠組みはあるけど、前述の上司部下間のやりとりがなければ、評価制度のあるなしはあまり関係なく、いい歳して上司の方から訊ねるしか状況把握する手段がないとか、訊ねても報告の的を射ない、上司が何を求めているかがわからない、なんてことは珍しいことではなくなる。

    実は報連相は結構難しい。

    別に上司部下間でなくてもいいのだけれど、相手が同僚でもよくて、つまり、相手が欲しい情報を的確に伝えるのが報連相だろうから、相手の立場や自分の仕事の後工程の立場を理解していないとうまくいかないものなのだ。

    実際の現場では、報連相がなくて、でもなんとなく業務は進んでいて、リレーのバトンのようにバトンの受け渡しはしているけれど、そのバトンが今いったいどこにあるのかわからないし、誰も知らない…なんて状況…例えば、状況が変わっていつもより早めに仕事を進めなければいけない、トラブルがあって修正が必要、のようなことがあっても現状把握ができない、しづらいようなケース。一見流れ作業が円滑に回っているようにも見えるんだけど、イレギュラーに弱い。イレギュラーな状況にいちから現状把握しなければならないとしたら、これは大変だ。タイムリーに現況がわかっていたら、その場で適切な指示も出せよう。

    こういう状況でなぜバトンを受け流すだけのことしかしていないんだろうと振り返ったときに、どうやら教育らしい教育を受けていない、報連相?聞いたことあるなくらいの反応(上場企業じゃないと明確な初期教育はないかもしれない)、中途入社でいきなり現場に放り込まれた、という話にぶち当たるパターン。

    さて、システム上で業務上の期限や進捗報告を求めてくる会社がある。これはそういう時代だし、むしろ漏れをなくし、且つ会社が即座に現場の状況を把握するには好都合な仕組みではある。人間の上司が期限や業務の進捗を確認する手間や面倒を省ける…、負担を減らす、ことが本来の目的だったかも知れないけど、もしかすると、人対人の摩擦を避けるためだったり、今となってはロストテクノロジー(失われたスキル)みたいなもののような気もする。特に薬局なら、専門知識の教育なり体制はあってもマネジメントに関する教育はないのが普通。個人の能力で比較的できそうな人がやっているにすぎない。小売業でもよほど経営層に深い思想(想い)がなければ、それ用の教育はない。

    薬剤師として専門知識が豊富な人と薬局運営とは関係ないし、売場作りが得意な人と店のシフト作りも料理がうまい料理人と店舗経営はやっぱり関係がない。別の能力。

    でも、そこにお金がかけられないのがメーカー(製造業)と違うところ。これは粗利率の問題だからどうしようもない。



    話を戻す。お店や薬局といった職場単位の現場ではシステムを使って進捗管理することはない。毎日会う人同士は言葉でのやりとりがある。システムを介して、どうなってますか?と訊ねることはない。

    まぁ、”ない”とは言ったけれど、デスクワークをやる人の中にはひとこと本人に確認すればいいことでもメールで…という話も実は結構あるから、ストレスなのかもしれないね。

    仕事の核として、どんな仕事でも、期限までに業務を完了させるとか、もしできない(できそうにない)場合には前もって期限を再設定するとか、内容を修正、変更するとか、中止するとか、中止しても大丈夫なのかとか、中止や変更に妥当性があるのかとか、そんなことが日常的に行われているだろうけど、片方でそんな高等なことではなくて、基本的な社会人の姿勢や知識、行動として、わからないことはまずわかる人に相談する、教えてもらう(わからない人同士でごにょごにょ相談しても時間の無駄になりがち)とか、社内規定でデニムやジャージはダメということになっているけど、根拠は会社のルールではなくて、(特にお客さん相手の仕事では)、社会通念の面で違和感(不快感)を感じる人がいるということや、昼休憩は労働者の義務であり権利ではあるけど、労働契約書上は労働時間ではなくても拘束時間であるから、そうでなくてもどこに行くのかわからない状態で職場を離れることが同僚に迷惑をかけるかもということすら、教えなければ(教えなくてはならないのか?想像力の問題と一蹴する向きもあろうけど)、もし、そういったことを誰も知らない環境では、誰もその異常には気付かないということになる。店長や薬局長といった現場監督者(小単位の長)も教わったこともなければ自分から学びに行くことがなければ、そのまま知らないままだし、気付かないままとなる。中途入社か何かで他社での社会経験がある部下がいても、「上司に批判めいたことは言っちゃいけない」みたいな慣習(悪習だけど)がどこにでもあって、特に薬局には長以外にも薬剤師にも物申してはいけない風土があったりする。そうなると間違ったまま何年も過ごし、結構な年齢になる。

    物申してはいけない風土とともに相手に敬意なく失礼な物言いが横行する場…というよりこの辺はやはり家庭環境や育ちが反映しやすいのか、個人の問題に見えることは多い。

    だから、ここまで書くとほぼ躾の範疇かとも思えてくるけれど、上記のようにわざわざ法律や社内規定で定められていることでもあるから、やはり会社側が「こういうものですよ、守りましょう」という場があって然りではなかろうか。つまり、”外に出しても恥ずかしくない”ように。

    せめて、育ちがよろしければ、マナーとして「お昼(休憩時間)、ちょっと外出しますね」とかお客さん商売なんだからマッキンキンの金髪はダメだよね、とか考えるかも知れない。

    尤も多様性…がはやりですから、あまり今までの常識が通用しなくなってきてはいますけど。

    私も若かりし頃、母親から言われた言葉で当時は若干”学生気分”だったことに気付かされた一件があります。大学を卒業してすぐに真っ赤な外車を買おうとした私に「お客さん相手の仕事をするのにその車で出勤するの?駐車場に停めておくんでしょ?お客さんの家に配達もあるんじゃないの?」と。似たような話でだいぶ年齢を経てからある程度経験を積んだ部下から「お客さんよりいいものを身に着けるのはダメだと思うんです」と熱弁を振るわれたり。そんな昔の話ではないよ。でも、お客さん相手の仕事をそうとらえているというエピソードとしては大事な考え方。

    一方で、冗談みたいな「やりたくなーい」「そんなの無駄じゃね?」みたいなことが冗談ではなく、そのまま”やらない”ことに定まって(あるいは好きなやり方でやってしまう)、通用してしまうことも割とあって。何度も言うが、本当にやらなくも大丈夫な仕事というのが結構あったりして、まずます混迷を深めるのだけれど、マストな仕事でも結構簡単にやらない方向で進むことはままあって、「仕事なんだから」と諫めることが無駄なだけでなく、謂れのないパワハラのような身に覚えのない罪状でお咎めを受けたりするから、躾されていない(道徳観がないと言った方が正確か)環境、集団の中では十分気を付けなくてはならない。同じ日本で、そんなに時代差はないんだけど、急速にこの方向に加速しているような気がする。

    単独店舗で利益が出ているのは実は店の運営努力の割合は極めて少なくて、出店した時点(つまり開発の時点)ですでにある程度の規模が決まっている。若干乱暴だとは思うが、調剤薬局についてはその色合いが極めて濃い。隣接医療機関の処方箋発行枚数で決まるもので薬局は受け皿をやっているに過ぎない。処方医の人気か腕に依存している。

    当然、それが永遠に続くはずがない。一番簡単で分かりやすい例はその処方元の医師が何らかの理由で亡くなる、いなくなるという例。これは突然売上がなくなるし、時々耳にする。医師もにんげんだから。確率的にここまでレアじゃなくてもごく普通にドラッグストアはそこから溢れてくる処方箋を虎視眈々と狙っているし、日々誘導の営業をかけている。利用者(患者さんやご家族さん)も門前の薬局でもらう必要性は時間とともに薄れて医療機関の近所ではなく、自宅の近所のほうが便利だと気付く。ましてや隣接医療機関が出してくる処方の在庫すら確保できない薬局の存在価値はかなり低くなる(少なくとも門前薬局にはその隣の医療機関が出す処方薬は備蓄してあるという大前提があるし、それだけの連携をしているし、医師も安心して自分の考える治療をしたいからタッグを組んでいる…と思いたい)。門前の薬局に処方箋が増える要素は発行元の枚数が増える以外には難しく、新規開業開局後の自然増の後、衰退する方向の話はなるべく遅延させるしか手がない。もし、門前薬局の欠品が多ければ、衰退のスピードはさらに加速する。

    開発ありきだと言い切ったが、薬局運営が無力だとは言わない。でも、受け皿としての機能を発揮できなければ、ひはり存在価値を見出すのは難しくなる。

    教育がなければ、処方箋枚数が減ったら…いや減ってからでは遅いんだけど、みたいな商売の法則、ものの見方も知らないまま転がり落ちるように衰退、縮小することになる。現状分析の手法がなければ、他責にするのが人間の性で、よくはないけどやりがちなミス。典型例は「天気が悪い」。これは分析ではないし、永久に雨降りではないから合理性がない。売上が減少し始めるとみるみるうちに業務縮小が進み、仕事が減ってよかったね、なんて寝言が聞こえてきそうだけど、会社は遠くにいても人員削減の口実だけは目ざとく見付けるから、削れるものを削って数字上の利益は出すことぐらいはやってのける。若干飛躍はあるけど、日産は役員給与は変わらず(責任を取らず、という意味)、工場閉鎖して現場従業員をリストラ。薬局やドラッグストアのように大人数ではない業態では、人員は多いほど柔軟に動けるものだけど、業務縮小による人員削減の際は適正化ではなく、数字上の利益を出すためだけの人員配置をすることはままある。原則論としては売上と人員は比例するかも知れないけど、数字が小さくなると当てはまらない。いくら売上が少なくても最低限の人員配置は必要なもの。例えば売上1000万円に対し、スタッフ4人が妥当だとしても、売上500万なら2人、250万円なら1人、125万円なら0.5人と完全に比例させるのは無理が出てくる。きっと250万でも125万でも現実は2人必要みたいな話になるし、売上に関係なく定型業務はある。いずれにせよ、損益決算書も見たことがなければ適正かどうか数字で判断・反論できずしんどい人員で運営することを強いられる。

    体のいいリストラ策になりかねない。

    そういったビジネスパーソンとしての思考を身に付けず働き続ければ働き続けるほど、奴隷化する。上司を言い負かすのが仕事ではないけれど、目上の人に意見するとき、同僚でもいいけど、議論の根拠は数字。それを使いこなせなければ、決められたルーティンをこなすだけになる。さらにやらなくても上司からお叱りを受けずに済むなら、社員である必要もなく(いや会社も指示しなきゃいいんだが)、責任を負わないルーティンだけの業務なら、社員の給料は出ない(会社だって出したくないだろう)。同一労働同一賃金だから、社員と短時間のアルバイトで時給換算に差をつけるのはよろしくないけれど、責任ありとなしで時給に差をつけるなら、むしろ妥当だろうし、勤務時間が長いだけで責任のない社員は一体なんなんだろうとなるし、短時間の勤務だけど、責任をもって職場やお客さんに貢献している人たちが何人も思い浮かぶから、社員も社員の待遇に胡坐をかいていてはいけない。

    働く側がそういう地獄を見ないためにごく簡単でも初期教育は不可欠だろうけど、逆にうがった見方をすれば、戦後の共産主義者のように社員従業員を教育しなければ(知恵をつけなければ)、会社の思うとおりに働かせられる…まさかそんなことはないだろうと思いたいが、状況としては妙に腑に落ちる。

    いずれにしても、30歳、40歳、50歳になっても子供っぽいままだとしたら、それはそれで結構きつい。仕事の出来不出来もあまりに極端に出来ないと困るし、時々だけど、本当にどんな経験を…いや、そんなに経験を積まずに来られたのか?とやばさを感じる人もいなくはないけど、人間として、仕事人として歳相応のスキルと立ち居振舞いができないとそれだけで地獄ではないだろうか。

    とまぁ、立派なこと言っても言ってる本人がそうでもないから、だからこそ努力をね。