カテゴリー: 人と組織

会社・職場というところ、マネジメントというもの、実務者というもの。

  • 家族経営が悪いわけではない。

    恐らく、そこに公共性があるか否かがカギではないだろうか。

    小規模すぎると会社の利益と、経営者家族の生活が直結しすぎて…という話はありそうだし、想像できる。が、経営者と経営者家族の常識はずれな贅沢のために、会社の利益が使われていることがあからさまになったとき、そこに働く人たちの心情は大変微妙なものになる。経済がいい時代なら、そんな会社辞めちまえと言えるのだが、今日こんなわけにもいかない。その贅沢家族のために従業員の給与やボーナスが左右されると知れば、これはいけない。

    そもそもそんな従業員にすれば聴きたくもない話を経営者自身が漏洩するくらいの感覚だから、ズレている。

    あるとき、ある知人に私がその経営者の元にいることを伝えたら、「あぁ、自分ファースト社長ですね」とさも周知のことのように言われたことがある。

    私は長い間ドッグストアのチェーンにいたから、知らなかったけれど(正しくは知ってはいたけど、よく認識していなかった)、薬局という業界は大手以外は小規模な個人経営か、若干店舗数を抱える薬局が更に小規模同士で同盟を組んでいるような、いずれにしても小規模と言える個人経営の薬局が何割か占める。

    ただ、大手といっても数ばかりで標準化されず、個人経営の集まりのような会社も多々ある。標準化されないから本当の意味では同盟を組んでもその目的である効率化はされていない。

    当時、私自身はお呼びが掛かればどこでも行きます、というスタンスで転職活動をしていたから、間に入ったエージェントにもたいそう驚かれたけど、いかにそれまで勤めてきた企業がまともかということを思い知った。

    ここで、整理しておいた方がいいかも知れない。日本語の定義としての家族経営はよく知らないけれど、経験上、家族親族、あるいは血の繋がりはないが、経営者と親密な関係のある人たちで会社の中枢を担っていても、公共(あるいは従業員)のために会社を動かしている(少なくともそういう体裁をとっている)ケースと、従業員はあくまでも使用人であり、あくまでも経営者とその家族の幸福が優先であるケースがある。

    とはいえ、どちらかにパカっと二分されるわけではない。

    つまり、前者であっても本音と建前があっても不思議ではなく、経営者家族の幸福を蔑ろにすることはないだろうし、でもそれだけでは、あるいはそれ優先では(大きくなればあるほど)求心力は得られないのだから、自然と公を意識した理念や方向性が示される。

    それが自然だろう。

    だから、まともな経営者なら家族親族が華美な服装や車で車内をうろうろすることは禁じるだろう。経営者の子供が車内をうろうろすることもないだろう。それはアットホームとは言わないことを理解しているからだろう。

    株式会社はひと様から資本を借りて運営する会社だから、すでに経営者個人の所有物とは言い切れなくなる。ひとにやりたくない場合は家族親族だけで株を分配するのだろうけど、公共性があれば、社内に持株会があって、一般の社員でも自社の株を購入できるなら、わずかな金額だろうけど、純粋に経営者及び家族だけのものではなくなる。

    以前どこかで紹介した経営の神様は経営者一族ではなかったけど、創業時から屋台骨を支えてきた創業メンバーであり、大番頭のような立場から系列会社を任されていたお方なので、おそらく家族経営の長所、短所は分かった上で、家族経営の強さを説かれた。

    若干精神論も混じるが、自分の名前を看板に掲げる、失敗すれば家族もろとも路頭に迷う、そういったことだけ考えても、家族経営をやるときの気概は並大抵のことではない、というのが本質的な話だったと記憶している。

    ただ、その気概がまじめに勉強して、経営に活かす経営者もいれば、MBAをとって、箔をつけることに勤しむか、その資格のために会社のお金をじゃんじゃん使って東京に通うとなると共感は得ないし、実務に活用されているか微妙なところだ。

    統計はないが、真に会社を大きくした(大きくしている)経営者はそんなお金の使い方はしないだろうし、身の程を弁えていないひとほど、派手なふるまいをする。金額だけではない。真の勉強家はそんなそぶりは見せないし、見栄が必要な人間は中身より、資格の素晴らしさや受講に通った苦労を宣伝する。

    後者の実例が自分ファースト社長だけど、残念ながら、MBAは活かされず、いつまでも直感だった。利益が落ちてきた、新しい人の採用ができない等々の原因は社名だった。熱心に社名を考え、変えるべきタイミングを占いで決めて安心していた。利益が落ちてきた原因は社員が報告していたけれど、理解する頭がなかった。採用するために小規模な経営では人脈も必要だろうけど、人脈の素晴らしさを誇るばかりで採用には直結しなかった。

    その素晴らしいと言われる人脈も聞いたことのない名前ばかりでずいぶん辟易としたものだったけれどね

    多分、自分ファーストの意味は自分を着飾ること優先という意味だったのかも知れない。

  • 自分の頭の中だけで仕事をすると…

    地頭というんだろうか、深い思考性を持った人は生きる力があるし、思考力だけでなく、情感も豊かだったり、周囲に配慮ができる人間らしい人間のような気がする。

    一方、自分の頭だけで思考してしまう人は文字通り”してしまう”から、自分では気付いていない。

    仕事でもなんでもたいてい相手がいて世の中が動いているから、相手との意思の疎通なく、自分の頭だけで考えてもうまくいくはずがない。

    もちろん、”配慮”や”気遣い”のような形で自分の中だけで考えるケースは十分ある。でも、それは相手をよく見ていたり、普段接する中で情報をキャッチしていて、”配慮”や”気遣い”のベースになる根拠や背景を持ち合わせていて初めて成り立つものだろう。

    わかりやすい表現として、”思い込み”が当てはまる。

    世の中の人は自分も含めて平凡な人間の集まりで、ひとの気持ちや立場、状況、状態を本人から情報を得ることなく、キャッチできるような超能力者はいない。

    これはコミュニケーションが大事とかいう単純なことではなくて、それすら考慮されず(つまり、コミュニケーションは大事だよね、という認識が時々でもなされず)、個々が独断で物事を進めている状況がそこかしこにあるのではないかという懸念だ。

    まぁ、”在る”のだから既に懸念ではないのだけれど。

    例えば、「訊いてくれたら」と親切心のつもりでいうケースは多々あるけれど、全体的なレクチャーもなく、疑問を持った順に訊ねろという態度には辟易する。

    既にどこかにも書いたけど、ずっとその職場にいて全体像を把握している人が全体像を示さず、全体の流れをレクチャーせず、新しく来た人に「訊きなさい、何でも答えますから」という姿勢は怠慢というものだろうし、なんとも効率が悪い。もっとも職場の労力が必要なスタイルになる。

    例えば、まっさらな新人ではなく、ある程度経験のある人間であっても…むしろ、そういう経験者へのレクチャーは高等技術かも知れないが、それこそその経験者の力量を把握する作業なくして(できることとできないこと、知っていることと知らないことの仕分け)、その経験者の欠けていることを補う作業はできまい。

    ”頭の中だけで思考(仕事)してしまう”ことの弊害はこういった類例を示しても示さなくても、まずいことなんだ。なのに認識されず、そのまま放置されている職場がいかに多いことか。

  • 仕事との距離の置き方(その4)語学

    語学はうつの頭にはいいような気がしています。

    使えるようになれたらいなぁ、ならいいのですが、使えるようにならなきゃ、とか、〇〇検定に受からなきゃ、となるとしんどいし、モチベーションよりプレッシャーが強くなる。

    検定もある程度勉強が進んで、力試しに受けてみるか―くらいの気分でちょうどいい。

    縛りを設けずに正に自分ペースで学んでいくなら、毎日少しずつでも前進するし、小さなことでも毎回学びがある。つまり日々小さいかも知れないけど達成感がある。且つ、わずかな単語であってもやっぱり文法や構文が頭に入らなくても、小さな達成はしているから、片言でも伝わるかも知れない。初めての国でもなにかしらのコミュニケーションが取れるかも知れない。そんな前向きな気持ちの元にもなる。

    私の場合はあるきっかけから、とにかく外国語をもう一度勉強しようと思いました。でも、まったく白紙の状態からではなく、大学時代の第二外国語であるドイツ語ならとりあえずとっかかりとしてはいいだろうと。

    男性名詞、女性名詞、中性名詞、複数名詞によって冠詞が変わることくらいは知っていましたから、英語とは違う難しさがあることも知っていました。でも、英語だと新鮮さに欠ける…。そんな感じの選択でした。

    でも、ある程度進んでいくとマンネリもあってか他の近隣言語にも興味が出て、スペイン語、フランス語、チェコ語、ロシア語、アジア圏ではタイ語、台湾華語に手を出しました。

    スペイン語はドイツ語よりもっと日本人にとってなじみ深いローマ字読みで読めることと時制が多く、極めようと思うと大変なんでしょうけど、簡単な文章なら読めて理解できるまでが早い点で、とっつきやすい。

    フランス語はアルファベットの読みから癖があるので、単語を読むのも若干コツが要りますが、そこはフランス語の癖で、そこさえクリアできれば、読むことが可能になります。やはり、読めることで先に進めるようになります。フランス語は一周することができました。忘れちゃいましたけど、英語でいえば中1レベルでしょうかね。

    ここで語族の話をすると、英語とドイツ語は同じインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語に属する言語なので、系統としてはそんなに遠くはありません。ですが、語順や先ほどの冠詞のルール等々、やはりまったく別の言語です。そこで気付いたのは英語がいかに簡略(シンプル化?)された言語化ということに気付きます。ドイツ語の方が古い様式を残しているのかな?と思ったりしました。

    フランス語とスペイン語はロマンス語に属しますが、やはり別々の言語ですね。どちらかを勉強すれば応用が利くとかいうレベルではありません。まぁ、現地の人たちなら、普段から見聞きしている言葉ですし、共通の単語もあるでしょうから、聞き取りにくいことはあっても手も足も出ないということはないでしょう。

    チェコ語、ロシア語はバルト・スラブ語に属します。突然、単語の感じから違ってきます。個人的にはアジア的な…日本語にありがちな語順が割と自由に入れ替わるようなところがあって、親近感が湧きます。このあたり東欧の言語はそもそも近い感じで、国をまたいでも通じそうなくらい。ロシア語はキリル文字なので読めないと困りますが、音は共通するものが多いです。

    「ありがとう」なら…

    ポーランド語…ジェンクイェン

    チェコ語…ジェクイ

    スロバキア語…ヂャクエム

    ロシア語…スパシーバ

    ロシアだけ違いましたね(笑)

    ハンガリー辺りは地理的には東欧に近くてスラブ語圏に囲まれていますが、ハンガリーは民俗的にアジア系なので、まったく言語が違います。それも語学を勉強して知ることができるおもしろさです。

    私はこうやって、興味本位な比較言語学をやってしまっていたので、いい頭の体操になっていたのだと思います。

    ドイツ語も気付くとテキストの終盤まで進んでいたので、検定も受けてみました。幸い検定レベルの丁寧な発音のドイツ語なら聴き取りはできて、5級4級まではすんなり合格できました。

    でも、そのあと間が空いてしまうとダメですね。

    やっぱり英語ほどの蓄積がないので、続けないとだめです。

    本当は3級くらいまでは流れでいけそうだなぁと思っていたのですが、なんかいろいろあって…。

    いずれにせよ、あまり重い目標を設けず、語学を楽しむとか、私のように文化や民俗と一緒に学ぶとかすると無理せず、続けられるのではないでしょうか。

  • 仕事との距離の置き方(その5)遠征

    だいぶ前から”ひとり遠征部”を名乗って、あちこちでこの名称を使わせて頂いているのですが、ふと気付くと遠征できる人の特殊能力みたいなショート動画を見かけるようになりました。

    まず、私の言う”遠征”とは”ひとり旅”のことです。

    ひとことで言えばひとりで何事も決定を下していかなくてはならない状況に敢えて向かうわけですから、”状況判断”と”決断力”を要求されます。

    更に…というか、遠征のスタイルによっては”計画性”がシビアに求められることもあるでしょう。

    ちょっと言葉を濁したのは”行き当たりばったり”の旅を貴ぶ人には少々注意を促したい…。ほとんどの日本人は”帰宅しなくてはならない期日”を持っているはずだし、旅慣れしていないひとに”自由気ままな旅”を推奨したり、これこそ旅の醍醐味とばかりに褒めそやすのはやめて頂きたいと思うのです。

    いや、特に私に何か迷惑が掛かっているわけではないので、お好きにどうぞと言っていたらいいのかも知れないけれど、日本にだって、何時間も電車が止まらない駅があるんです。逆に時刻表やルートにないけど、行きたいところまで行ってくれるバスがあったりするんです。公共交通機関も以前ほど悪天候で無理はしません。

    「1時間に一本くらいはあるでしょ」は甘い。

    時間のあるお方はいくらでも好きなだけ無人駅で過ごすのもぜいたくというものでしょう。

    ただ、日本人の旅行はごく平均でいえば、せわしない。

    電車と飛行機を乗り継ぎ、夜行のバスに乗る。

    なんだったら安価なLCCは夜中早朝発着。

    タイトです。

    それを事前にリサーチして、タイトな段取りを完璧に遂行しないと成り立たないのです。

    これは田舎や離島ほど、注意が必要です。海外はタイトではない代わりにルーズさが乗り換えの切迫を生む可能性(リスク)があるので、そのルーズさを加味しなければなりません。

    だから、どちらかというとガチガチの”計画性”ではなく、現地で起こり得ることに対する想像力です。

    海外のバスターミナルに行くのに、事前に時刻表は把握しているからといって、ぎりぎりに到着する人はいないはずです。バスの発着がルーズだからということもあるでしょうけど、チケットはどこで買うんだろう、そもそもチケット売場はあるの? 目的のバス停には他の行き先のバスも停まるだろう、見分けがつくようになっているのだろうか? 私は若干心配性ではありますが、リスクヘッジはするべきです。

    ひとり遠征はビジネスに必要なスキルを持ち合わせていないと難しいことであると同時に、遠征とは「無事帰ってくること」が最終目標です。

    無鉄砲な遠征は厳に慎むべきで、遭難や命に係わる事故に遭っても、日本という国はそんな無鉄砲者のために国内だろうと海外だろうと救助しに向かう国で、仮に遺体となったとしても国まで送り届ける国だということを感謝とともに忘れてはいけません。

  • PDCAサイクルをまわす。

    Plan→Do→Check→Action

    このサイクルをまわすこと自体はそんなに難しいことじゃない。

    放置せず、期限を設ける、それだけ。

    いつまでに計画を実行するか、その計画をいつまでに実行すべきなのか、リミットが決まっているなら、そこから逆算すればいいだけで、自然と全体の日程が決まること。

    よく検証(check)が難しいとは言われるけど、それにしたって、毎週何曜日何時(あるいは定期のミーティング)、と決めてしまえば、もうサイクルはまわったと同じだし、そこに信頼(安定してサイクルが回ること)があれば、厳格なPlanは必要ないかも知れない。走りながら修正するシステムに乗っているんだから。

    ただ、このcheckはcheckそのものに少々技術が必要かも知れない。checkするメンバーが揃いも揃って事なかれ主義なら意味はないし、あまり、掘り下げすぎて課題を盛り込みすぎても今後のスピードが落ちる。それも着地の時期によっては急ぐこともあるだろうし、時間があればあったで、優先を決めて動かないといつまでも問題を抱えたままになる。抱えたままでもいい問題ならむしろ流して(放置して)おけばいいけど、爆弾級の問題を抱えて走り続けるのはリスクだろう。

    だから、PDCAサイクルをまわすとは単に期限管理ひとつで終わる話。やり方はそれだけ。

    ただ、そもそもこのサイクルをまわすのが正しいのか、ふと疑問や戸惑いを感じることが増えた。

    わかりやすい理由は常に改善をし続けなくてはならないプレッシャーとかストレスがなくはないこと。もちろん、これによって仕事が楽になったり、質が良くなったりすれば、結果的には自分たちの利益になることだから、無駄ではないんだけど。

    問題を抱えたまま…という状況がどのくらいのリスクかにもよるかも知れない。手が付けられないほど、根深い問題が何層も折り重なっている…そんな場所もある。

    一度全部ぶっ壊すしかない…そう思えてくるような場所もある。

    もし、そんな状況なら、PDCAなど生ぬるいし、時間と手間の割りに物事の進まなさ加減に疲れるに違いない。

    恐らく、PDCAを回し始める時点で、着地が見えているのではなかろうか。そのくらいの全体像でなければ成り立たないのかも知れない。

    だから、その場限りの思い付きでやる付け焼き刃のPDCAよりもKJ法か何かで問題の全体像を明確にして、一発で問題を仕留める策を組み上げた方がいいだろう。

    問題が多すぎるからと言って、しらみ潰しのPDCAを何回転も回すのは所詮、無駄になるのではなかろうか。

  • 仕組みで動かすことと人の成長

    そもそも、仕組みで組織を動かすということはそこにいる人たちがベテランだろうがビギナーだろうが、ある一定のパフォーマンスを発揮することを目指している。もっと言えば、病気や配置転換でやむを得ない人員配置の変化があってもそのパフォーマンスを低下させないことも含まれる。

    裏を返せば、しかもdrasticな言い方をすれば、そこにいる人間の能力に頼らないことを念頭に置いている。

    これは心情的にはやや不愉快さを感じる向きもあろうが、経営的にはいつ辞めるかわからない人にお金をかけて教育(育てる)するより、仕組みを運用できる能力さえあれば十分で、それはマニュアルが読めるだけの日本語能力がある、とか、仕事の手順といった社内のルールや今時なら法律を守るだけの遵法精神さえあれば、それで十分で、コストも格段に低く済む。

    某社にいたとき、自分を含めた各部の部長がまとめて解任されたことがあった。本当の理由は何であれ、こんなことを言われてすごく意外だったことがある。「お前らみたいにパソコンから作れる人材はもう要らないんだ。パソコンは操作さえできれば十分」と。

    なるほど、それだけ会社は成熟し、仕組み化(パソコンは作成)されたわけで、もうそれさえ運用(パソコンを操作)できれば十分なんだと。

    まぁ、当時解任された部長たちへの賛辞ととらえてもいいし、やっぱり解任されたのだから、本人たちにとってみれば理不尽この上なかった。

    パソコンを作る能力に長けていて重用されたかと思えば、その能力は邪魔だから、外れてくれ、と。

    今更ではあるけど、私も含めてその部長連に会社への不満もなければ、経営トップに対する不信感や反感もなく、むしろ世代交代の時期でもあったから、新しい社長を支えることを考えていたし、真剣に会社の今後の発展を考えていたと断言する。

    もちろんね、サラリーマンですから、何ひとつ文句がなかったとは言いません。でも、それは自分たちの力で解決していけると思っていただろうし、その責任がある立場だと認識していたんじゃないでしょうかね。

    ただ、本当にもうパソコン操作のみできればいいというのであれば、会社にとっては迷惑な存在だったのかも知れない。恐らくそれ以降もよかれと思い、改善改革に邁進したであろうし、私は人事担当であったから、私が入社した頃のトップだった人の言に従って、”人の育つ環境”を模索し続けたでしょう。

    細かい部分での考え方の違いや、立場の違いで、理解の仕方も違っていたかも知れないし、今の時点でも私自身、当時の経営陣の気持ちを正しく理解していないのかも知れない。

    ただ、少なくとも当時在籍していた会社がどうとかいう話ではなく、ひとを育てるにはお金がかかるし、やり方も固定(既成)のものはないし、そうすると効果も達成度もわかりづらい。そんなふわっとしたものに経営資源を投入し続けるリスクはやはり冷静な経営者ほど難しいと考えるに違いない。

    だから、企業体の中で”人を育てる”ということが如何に難しいことであるかは理解しなくてはいけない。

    かたや、マンパワーに依存して拡大してきた企業は規模が小さいうちはそれなりに技術伝承が可能でうまくやれているようにも見えたけど、仕組みも体系的な教育もないとなると企業の規模拡大とともに急速に技術伝承ができなくなり、品質が落ちる。せめて教育という概念があれば、ひとりの熟練者が多くの若手に技術を伝授しようという思考にもなったかも知れないが、残念ながら個人→個人の伝達では会社の規模拡大のスピードに追い付けず、一気にパフォーマンスが薄まった(人材の薄まりはこの時期、業界全体の課題ではあった)。それでも勢いのあるうちは経験豊富な人材(中途採用者)が集まり、それなりにその勢いは維持された。でも、あるとき、その勢いに陰りが出始めた途端に経費に目を向け始めた。いや、経費に目を向けるのはいつでも大事なことなのに、行き詰ったときに目を向けると大抵”経費だけ”に目を向ける。つまり費用対効果ではなく、経費(販管費)単体で数字を見て、多い少ないとこねくり回し始めるのが常で、客数を呼び込むはずのチラシを全部やめてしまったり、計算値だけで人件費を削り始めた。当然優秀な人材の採用もやめてしまい、店舗の人時も削り始めた。いや、計算値自体何も悪くはなく、何かしらの基準を設けて人員配置するのは何も風変わりなことではないけど、その数値を用いる人間の方が不勉強なのか、判断が適正ではなかった(と感じている)。

    例えば、売上と人時を比例させるところまでは売上と作業量が比例するという視点で大きく間違ってはいないけど、売上の大小に関係なく必要とされる最低限の業務というのはどんな仕事にもあって、それが考慮されなかった。間もなく修正はされたけど、そのたびに何万人という社員従業員が右往左往した。人件費削減のために右往左往した社員従業員のコストがプラスされた。イニシャルコストではあるけど、不要なコストだったはず。※仮に6万人の従業員が「え?」と立ち止まっただけで、それが仮に1秒だったとして、6万秒=1,000分=16.7時間、社員の平均時給は2,000円程度らしいので掛け算すれば33,333円/時。もちろん「え?」だけでは済まず、それまでに費やしてきた準備の時間や、朝令暮改の修正のために何時間と時間を掛けることになる。10時間なら30万円、24時間なら80万円。小規模なドラッグストアなら何日分もタダ働きしたことになる。

    小売業(だけではないかも知れないが)には「走りながら考える」という言葉(思想と言っていい)がある。緻密に計画している間に走り出せ、走りながら考えろ、そして走りながら修正しろ、という思想。これが行き過ぎると無計画に何も考えずに走り始め、会社の規模によっては修正(走りながら思いついたこと)のために膨大なコストが発生する。大勢の人間はやり直しに近い手間をかけることになり、これほど無駄なことはない。修正とは言ったものの、実質やり直しが多い会社もあった。

    仮にマンパワー一辺倒の企業に社員教育という概念があれば、若干均一性と継続性の高い運営が可能だったかも知れないと思う。

    日本最大の小売業のイオンは組織力と教育を両立していた会社なのではと思ったりもしたが、確証はない。いくらか企業間の交流があり、知り合いがいた程度であるから、自信はないし、正直企業規模が大き過ぎてよくわからないといった方が正しいかも知れない。ただ、〇〇一辺倒ということはなく、歴の古い方にお話を伺えば「昔は勢いというか…」と小売業らしく、マンパワー頼りだった時代もあり、それでも大きくなるにはそれだけでは無理で企業体として権限移譲や人材育成、広報などのイメージ戦略等々を以て巨大化したのであろう。

    何かひとつではないのは確かだろうし、何かひとつに偏るリスクはあるのではないか。何かひとつ得意分野があってもいいのだろうけど、それだけではリスクヘッジできない。

    ただ、偏るにしても何に偏るかによって強い弱いはありそう。少なくともマンパワー依存だけは違いそうだし、それで何十年もやってきた会社に新しい文化は難しいのだろう…。

  • ダブルチェックは本当に必要か?

    そんなだいそれたことではない。罠でも何でもない。

    ダブルチェックが機能する環境というのは極めて限定的だと思うのです。

    正直、このダブルチェックが継続的に機能している環境を見たことがない。比較的簡単に破綻する。だから、ダブルチェックしたにも関わらず、ミスが通り抜けてしまった場合、まず、トリプルチェックしましょうという発想になるのはほぼ不正解と言っていい。チェックの在り方を検証しないで回数を増やしても同じこと。

    よく言われるのはAさんがチェックしたから大丈夫、2回目のチェックだから、1回目の人がちゃんと見てるはず、結局Aさんか1回目のチェック者だけでやっているのと同じことだね。下手するとAさんが「ほかの人も見てくれるから」と気を抜いたら、誰もチェックしていないのと同じになる。

    ある意味、精神力の問題になる。

    そして、それに気付いている薬局、企業は多いから、チェックの回数を増やすこと➡ただ単に手間(人件費)が増えて、チェックの質も落ちていいことない、のが常識であり、通説なのではないだろうか。

    結局、システムの力を借りて、人間的な先入観を消すのが一番だとは思う。

    あと、可能なこととしてはダブルチェックといっても同じことをやるのではなく、違う角度で確認をする手法だろうか。ひとりは処方箋の文字を見て必要なものを集めてくる、ひとりは出てきたものの名前と数量を確認したのちに処方箋を見る。プロセスを変える。ここまでくるとやはりシステムの方が得意分野ということになろうが。

    ある程度の企業体であれば、この程度のシステム導入はそれほど大きな問題ではないだろう。費用対効果から言っても必要最低限の投資と言えよう。

    ただ、これが小規模な薬局や病院となると難しいかも知れない。システムだって数を買えば単価は下がる、道理だ。でも、メンバーチェンジが少ない環境でもあるので、「大丈夫だ」という自信も慢心も生まれやすい。そのくせ効率的ではないことが多く、且つ人不足も相まって、気合いとか誇りで解決しようとする。

    そこまでいくと昭和的でもなく、精神力でゼロ戦飛ばせと言うに等しい。

    が、しかし令和でも存在する。化石と言っていい薬局(薬剤部)は実在する。それもベテランだけでやっていけるなら、それでいいのかも知れない。ただ、経営的な観点で継続性は低く、継続以前に従業員が有休を使うこともうっかり体調を崩すことも許されない、過酷な環境がある。それどころか、電話当番とかオンコール対応と称して、公休日にやたら電話が鳴る業務が回ってくる。

    一方、小規模とは関係なく、調剤報酬制度の中に夜間休日に喜んで対応することが組み込まれた。

    今回のテーマとはだいぶ乖離しているが、薬剤師は夜間休日という余暇を捨てることを求められるようになってしまった。

    一方、医師は当直はあるだろうけど、しっかり休むようになってきているんじゃないだろうか。ましてや個人のクリニックであれば、盆も正月もGWもSWもしっかり休む。当番があれば別だけど、なければ緊急電話もないだろう。

    この逆転現象は一体なんなんだろう。

    薬局側は単に薬剤師会のアピールだと思う。

    医師の側はワークライフバランス。

    これで十分説明はついたか…。

  • 完璧な計画より稚拙でもスピード

    籠城されると攻め手の負担が途端に増える。

    時間稼ぎされると攻め手にとっては費用対効果が悪い。

    籠城する方は端から籠城なんだから、最初から何日粘れるか、そのつもりでいるんだから。

    でも、攻め手は籠城を決め込まれた時点で、成果なく経費だけが掛かり始める。そうはいっても籠城側はいつか兵糧は尽き、攻め手側はいくらでも調達出来るんだから、最終的には籠城側は干上がってどんな形であれ、攻め手に勝利が転がり込んでくるでしょ? と思うだろうけど、何日かけようが攻め手が勝利によって手にする成果は城ひとつであって、かけた日数によって城が増えるわけではない。その成果から攻め落とすまでにかかった費用を差し引かねばならない。貴重な兵糧を無駄にはできないから、経費を考えると早めれば早い方がいい。ところが敵(籠城側)もそれなりに戦闘力のある集団だろうから、籠城側が弱り切ってから攻めた方が攻め手の人的損耗は減らせるかも知れない。そうすると籠城側が弱るまでの期間の兵糧も必要経費として含み置く必要があって、算段しなくてはならない。

    戦国武将とて領国を経営する経営者だから、そこから徴収した兵糧を資源にして敵地を切り取るんだから、同じものを得るのに何倍も兵糧を費やすような愚策は避けたくないはずがない。

    ただ…そこに気付かない人も少なくない。

    兵糧の計算はできる。目に見えるから。食べれば減るから。人数分減るから。

    なのに、”人が動く”ことに対して、動けば動くほどお金がかかってしまっていることに気付かず、できない人が多い。

    「おまえな、こうやって手でモノ触った時点でお金がちゃりんって音が聞こえにゃだめだ」って昔言われましたっけ。

    また、別の人からは「昼寝しているうちにあの仕事終わってたらいいのに」。

    若干仕事の姿勢は違うようですが、事実、昼寝まではいかなくても同じ成果を出すのに、汗水たらしている会社とそうでない会社があるのは確かです。

    汗水たらしている側も「もうちょっとなんとか楽できんのか」と思うのが正常で、汗水たらして悦に入っているのはこれは間もなく滅ぶ前兆。これはガテン系の方々を揶揄しているのではないですよ。

    兵は拙速を貴ぶ。

    若干稚拙であっても勝負事はスピード。

    実際の戦闘は緻密な計算より、意表を突くほどのスピードだ。意表を突けと言ったのは孫子だけれど。

    意表を突くというのは想像を超える、ということだから、爆速じゃないといけない。

    鍵十字のドイツ軍がイケない薬を使って不眠不休で行軍して敵の意表を突いたのも哲学としては同じもので、いや、薬を使ったところをあれこれ言おうかと思ったけど…戦争に良いも悪いもないものか…。

    兵は拙速を貴ぶ。

  • 職場の秩序

    結局のところ、仕事のやりやすさは秩序ではないかと思う。

    もう少し柔らかい表現をするなら、仕事や業務が整理されていること、だろうか。

    これはルールや決まり事で縛ることとはまったく違う。

    むしろ、シンプルなルールや法則の中に秩序が生まれる。

    事細かに場合分けされた法律は覚えたり、守ることが主になり、本業が機能しなくなる。

    ガチガチのルールで縛る割に、肝心なところは感覚や慣例、前例に倣え、だったりして、とどのつまり哲学(とまで言わなくても方針や方向性、共通認識)がないから、イレギュラーが起こると業務が止まり、学級会が始まる。そもそもの柱(基本方針のようなもの)がないから、ガチガチの方の思想(従来の考え方)とは別の思想が絡み込んでより一層複雑になる。

    文字通り、ルールや考え方に層ができる。

    まるで一貫性がないから、丸覚えするしかなく、法則や理屈で覚えることができない構造になっている(なってしまう)。

    考える力より記憶する力を求められる。

    考えてしまうと理屈に合わないことや矛盾に気付いてしまうことになる。新旧の違いにも違和感を感じ始める。

    こうして、秩序とは程遠い環境が分厚く醸成されていく。

    だから、秩序とは結局、機能的であるかどうかで評価できるかもしれない。

  • 仕事に哲学があるということ

    わたしは何か具体策を提示したいのではない。もちろん、具体的な方が読みやすいだろうし、ちゃんと読んでもらえるんじゃないかとは思う。でも、そうしたくてもできないだろう? 自分が経験した業務業態ならそのまま書けばいいんだろうけど、私が伝えたいのは仕事の本質とはどんな仕事にも応用できることだということだから。だから、具体性に欠ける部分があっても、まったく異なる業界の人でもちょっと想像力を働かせて読んで頂けるとありがたい。

    そう、根底にあることは同じはずだと思っている。

    …世の中の啓発本やビジネス書をいくらかでも読んだことがある人なら、ある程度のところでやめるんじゃないかと思う。もちろん、具体的な知識や技術を得たい場合は…例えば最新の労働基準法の知識のように法律の変更で知識の方もアップデートしなくてはならない場合や新しい仕事や職務を得た場合に今までの知識では足りない場合など…都度、新しい情報を仕入れる必要はあるだろうけど。

    つまり、それは哲学だ。

    もう少し平易な言葉にするなら、考え方やモノの味方。

    哲学なくして、前には進めない。それができるとしたら、単なる無知か無鉄砲じゃないだろうか?

    『孫子の兵法』は具体的じゃないから、わかりにくいと言われ、ときに敬遠されたり、役に立たないとさえ言われるけど、読む人が読めば、どの世界にも応用可能な万能な哲学書だ。

    「こういうケースはこうやれ」などの指導書は言ってみれば手順書は会社のマニュアルのようなものでよくて、脳みそは必要とはしないし、目的が違う。会社が最低限機能するためのものだし、ここで言っている哲学は今ある業務をもっと効率的にできないか、あるいは事故が起こりやすいから安全に完了できないか、今でも仕事のほとんどは人間が動かしているのだから、職場の人間関係は重要なポイントだろう、とかそういった視点で役に立ちたいと思っているから、書いている。

    でも、さっき、世の中にはそういった啓発本やビジネス書はあふれて居るって自分で言ったよね?

    言った。

    わたしもいろいろ読んでみた時期があって、ほどなくしてやめた。尚且つ最初の10%を読めば、全部読まなくてもほぼ本質はつかめることにも気付いた。

    全部読まないと最後までネタが尽きない本は小説の他はさきほどの「孫子の兵法」のような古代の人たちが記した指南書くらいだろう(別途、オススメ一覧は作ろうと思います)。

    わたしが言っていることは…孫子と競うつもりはないけれど…それに近い。ただ、孫子の場合は戦略・戦術思想だから、もう少し戦闘に生かせる目線であればいいなと思っています。そこに本質を見出して頂けたら…そう思っています。