カテゴリー: 人と組織

会社・職場というところ、マネジメントというもの、実務者というもの。

  • 完璧な計画より稚拙でもスピード

    籠城されると攻め手の負担が途端に増える。

    時間稼ぎされると攻め手にとっては費用対効果が悪い。

    籠城する方は端から籠城なんだから、最初から何日粘れるか、そのつもりでいるんだから。

    でも、攻め手は籠城を決め込まれた時点で、成果なく経費だけが掛かり始める。そうはいっても籠城側はいつか兵糧は尽き、攻め手側はいくらでも調達出来るんだから、最終的には籠城側は干上がってどんな形であれ、攻め手に勝利が転がり込んでくるでしょ? と思うだろうけど、何日かけようが攻め手が勝利によって手にする成果は城ひとつであって、かけた日数によって城が増えるわけではない。その成果から攻め落とすまでにかかった費用を差し引かねばならない。貴重な兵糧を無駄にはできないから、経費を考えると早めれば早い方がいい。ところが敵(籠城側)もそれなりに戦闘力のある集団だろうから、籠城側が弱り切ってから攻めた方が攻め手の人的損耗は減らせるかも知れない。そうすると籠城側が弱るまでの期間の兵糧も必要経費として含み置く必要があって、算段しなくてはならない。

    戦国武将とて領国を経営する経営者だから、そこから徴収した兵糧を資源にして敵地を切り取るんだから、同じものを得るのに何倍も兵糧を費やすような愚策は避けたくないはずがない。

    ただ…そこに気付かない人も少なくない。

    兵糧の計算はできる。目に見えるから。食べれば減るから。人数分減るから。

    なのに、”人が動く”ことに対して、動けば動くほどお金がかかってしまっていることに気付かず、できない人が多い。

    「おまえな、こうやって手でモノ触った時点でお金がちゃりんって音が聞こえにゃだめだ」って昔言われましたっけ。

    また、別の人からは「昼寝しているうちにあの仕事終わってたらいいのに」。

    若干仕事の姿勢は違うようですが、事実、昼寝まではいかなくても同じ成果を出すのに、汗水たらしている会社とそうでない会社があるのは確かです。

    汗水たらしている側も「もうちょっとなんとか楽できんのか」と思うのが正常で、汗水たらして悦に入っているのはこれは間もなく滅ぶ前兆。これはガテン系の方々を揶揄しているのではないですよ。

    兵は拙速を貴ぶ。

    若干稚拙であっても勝負事はスピード。

    実際の戦闘は緻密な計算より、意表を突くほどのスピードだ。意表を突けと言ったのは孫子だけれど。

    意表を突くというのは想像を超える、ということだから、爆速じゃないといけない。

    鍵十字のドイツ軍がイケない薬を使って不眠不休で行軍して敵の意表を突いたのも哲学としては同じもので、いや、薬を使ったところをあれこれ言おうかと思ったけど…戦争に良いも悪いもないものか…。

    兵は拙速を貴ぶ。

  • 職場の秩序

    結局のところ、仕事のやりやすさは秩序ではないかと思う。

    もう少し柔らかい表現をするなら、仕事や業務が整理されていること、だろうか。

    これはルールや決まり事で縛ることとはまったく違う。

    むしろ、シンプルなルールや法則の中に秩序が生まれる。

    事細かに場合分けされた法律は覚えたり、守ることが主になり、本業が機能しなくなる。

    ガチガチのルールで縛る割に、肝心なところは感覚や慣例、前例に倣え、だったりして、とどのつまり哲学(とまで言わなくても方針や方向性、共通認識)がないから、イレギュラーが起こると業務が止まり、学級会が始まる。そもそもの柱(基本方針のようなもの)がないから、ガチガチの方の思想(従来の考え方)とは別の思想が絡み込んでより一層複雑になる。

    文字通り、ルールや考え方に層ができる。

    まるで一貫性がないから、丸覚えするしかなく、法則や理屈で覚えることができない構造になっている(なってしまう)。

    考える力より記憶する力を求められる。

    考えてしまうと理屈に合わないことや矛盾に気付いてしまうことになる。新旧の違いにも違和感を感じ始める。

    こうして、秩序とは程遠い環境が分厚く醸成されていく。

    だから、秩序とは結局、機能的であるかどうかで評価できるかもしれない。

  • 仕事に哲学があるということ

    わたしは何か具体策を提示したいのではない。もちろん、具体的な方が読みやすいだろうし、ちゃんと読んでもらえるんじゃないかとは思う。でも、そうしたくてもできないだろう? 自分が経験した業務業態ならそのまま書けばいいんだろうけど、私が伝えたいのは仕事の本質とはどんな仕事にも応用できることだということだから。だから、具体性に欠ける部分があっても、まったく異なる業界の人でもちょっと想像力を働かせて読んで頂けるとありがたい。

    そう、根底にあることは同じはずだと思っている。

    …世の中の啓発本やビジネス書をいくらかでも読んだことがある人なら、ある程度のところでやめるんじゃないかと思う。もちろん、具体的な知識や技術を得たい場合は…例えば最新の労働基準法の知識のように法律の変更で知識の方もアップデートしなくてはならない場合や新しい仕事や職務を得た場合に今までの知識では足りない場合など…都度、新しい情報を仕入れる必要はあるだろうけど。

    つまり、それは哲学だ。

    もう少し平易な言葉にするなら、考え方やモノの味方。

    哲学なくして、前には進めない。それができるとしたら、単なる無知か無鉄砲じゃないだろうか?

    『孫子の兵法』は具体的じゃないから、わかりにくいと言われ、ときに敬遠されたり、役に立たないとさえ言われるけど、読む人が読めば、どの世界にも応用可能な万能な哲学書だ。

    「こういうケースはこうやれ」などの指導書は言ってみれば手順書は会社のマニュアルのようなものでよくて、脳みそは必要とはしないし、目的が違う。会社が最低限機能するためのものだし、ここで言っている哲学は今ある業務をもっと効率的にできないか、あるいは事故が起こりやすいから安全に完了できないか、今でも仕事のほとんどは人間が動かしているのだから、職場の人間関係は重要なポイントだろう、とかそういった視点で役に立ちたいと思っているから、書いている。

    でも、さっき、世の中にはそういった啓発本やビジネス書はあふれて居るって自分で言ったよね?

    言った。

    わたしもいろいろ読んでみた時期があって、ほどなくしてやめた。尚且つ最初の10%を読めば、全部読まなくてもほぼ本質はつかめることにも気付いた。

    全部読まないと最後までネタが尽きない本は小説の他はさきほどの「孫子の兵法」のような古代の人たちが記した指南書くらいだろう(別途、オススメ一覧は作ろうと思います)。

    わたしが言っていることは…孫子と競うつもりはないけれど…それに近い。ただ、孫子の場合は戦略・戦術思想だから、もう少し戦闘に生かせる目線であればいいなと思っています。そこに本質を見出して頂けたら…そう思っています。

  • 教える側の責任80%

    いや、何%でもいい。
    教える側の責任が大多数であり、教わる側はせいぜい一生懸命メモを取って、なるべく同じことを訊ねなくても済むように努力すること。

    と言ったのは私の仕事の師であり、のちに様々なOJTの書に、教育担当養成の研修の場で言われたことでありました。

    つまり、特別変わった話ではありません。

    OJTが作業手順を教えることくらいの意味しかないとしたら、責任はいらないんだけど、この責任がないと、その作業手順すらいい加減な教え方になる。

    尤もその作業手順を書き取る時間も与えない教育は教育と呼ぶに値しないんだけれど。

    そもそもOJTとは一定のパフォーマンスを発揮するまでの時間を最短化することです。

    そのためには仕事の意義から始まり、全体像と体系的な流れを示し、これから教わる手元の手技との関連性や位置づけを理解しないと始まるものも始まらない。


    OJTという概念のない場所では日常業務の合間に、作業手順を点で教える…というより”言う”だけで、初心者初学者が短期間にできるようになる可能性は極めて低く、一部の天才か要領のいいタイプだけが自力で習得できるのみだろう。日頃の作業手順の通り”伝える”ならまだしも、その手順すら無視して断片的に”伝えて”も結局”慣れる”のを待つしかない。

    教える…できるまで習得できるまで面倒を見ること。

    言う…言葉にして発する。



    点で…というのは作業の前後関係なしで、「それはこうやって」言ってくるようなケースで、連続性がないから、何の後”こうやる”のかまるでわからないことになる。それではどんなときに「こう」やって、どういうときは「そう」やるのか、受け手(教わる側)がかなりの努力をして整理しなくてはならない。もちろん、「そう」とか「こう」とか様々なバリエーションを自分の中で蓄積させる必要がある。教える側は全部(全体)を知っているはずなのに、それを整理せずに断片で話をする。

    決して、珍しい話ではない。

    A→B→Cがスタンダードな手順ならば、まずそれスタンダードであることとその手順を習得しないと次はない。

    仮にイレギュラーとしてA→B’→C’という工程があったとして、B’のみ、C’のみ教えられても仕方ない。

    文字通り仕方ない。

    つまり、どこから教えるかも法則がある。考えるまでもない。

    一番スタンダードなやり方からしかあり得ない。もし仮に一番スタンダードなやり方の難易度が高いとしたら、スタンダードなやり方を切り分けて、それぞれの位置関係を確認しながら、教えていくか、イレギュラーではあるけど、導入しやすい簡単なものから教えるに如くはなし。



    教える側に責任がないと、できなければできない側の責任になってしまい、それが原因で辞めてしまっても居なくなれば覚えの悪い奴でしたね、で終わる。教える側の成長の機会も失われる。

    最後に残った者が勝ちなのは何もリングの上だけではないけれど、貴重な費用をかけて採用した正に貴重な人材を自分たちの無知のせいで捨てることになるかも知れない。受け入れる会社にとってもなにひとついいことがない。

    教育も採用もやるとわかるけど、教育できないなら採用するな、と思う。

    教わる側、採用される側が気の毒なだけでなく、教える側、採用する側にもいいことがないだけでなく、相当な経費を使っているだけに損しかない。

    何も手取り足取りとは言わない。けれど、採用した以上、道筋をつける責任か必要はあるのではないか。これはあくまでも採用した側、教える側の姿勢として、という話だ。現場ではなかなか経営上の損得まで見えていないことが多いだろうけど、人として、も現場の実務上もそれほど間違っていまい。

    だから、本来現場では”教えてできるようにする必要性”があるはずなんだ。にしても、その辺りの理屈と行動が一致していないのが不思議でならない。

    時々困ったことに教わる側がふんぞり返っていることがある。「さあ、上手に教えてごらんなさい」と言わんばかりの。仕事の不出来を指摘すると「教え方が悪いんじゃないですか?」とくる。”教える側の責任”云々と言っている以上、怯まないでもないが、結局のところ、教える側が教える側の責任を果たし、教わる側も仕事を覚えることに専念する、その関係性、構造がなければ、成り立たない。それにどちらかがふんぞり返っていたら、それぞれの人生もそこまでだろう。

    いずれにせよ、教える側が教えることに責任を持ち、教わる側もそれに喰らいついていく、そして周囲も何を教わって、何をまだ伝え切れていないかを把握して、面倒を見る風土こそが、ひとりの新入社員なり初学者を育てる環境となる。

  • 見たらわかる。

    もうだいぶ使い古された言葉ではあるけど、この見ればわかる状態にするというシンプルなコンセプトに素直に従うと、驚くほど仕事のストレスがなくなる。

    見たらわかる、その場に行けば説明不要で理解でき、どうしたらいいかわかるようになっている、記憶やもしかしたら経験に頼ることもないから思い出す時間もなくなり、即行動に移ることができる。

    対極にあるのが記憶を掘り起こしながら仕事することだろうか。あるいは覚えないと仕事がスムーズにならない、そんな状況。必要な部品や備品、文房具に至るまで、業務に関連する場所にあれば、即座に目に入り、探すまでもないけど、かといって、それらいつも作業場に並べておくわけにはいかないから、連想できる場所であれば十分で、とにかく脈絡のない関連性のない場所には置かぬことだ。

    ただし、間違った”見える化”として、棚や引き出しの中身を事細かに棚や引き出しの外側に表示するのは見にくく埋もれるだけで、ほとんど役にも立たないと言っていい。実際にその場で働けばなんと無駄なことかと気付くだろうに、何年もその表示を中身が入れ替わるたびに徹底している。

    人は「はさみ」という文字を探していないから、「はさみ」と書いてあっても見付けられず、はさみという物体の映像をイメージしているから、はさみの形をしたものが目に入らないと見付けられない。

    整理整頓の意味を間違えると、何もかも見えないところに仕舞ったりする。パッと見、すっきり整理されてよさそうに見えるが、機能ということを考えると、仕舞ってある場所を教える手間も増え、探す手間も増える。それだけでも十分販管費の無駄使いなのだが、熟練者であってもその仕舞ってある場所まで必要なものを取りに行く時間は年間何分、何時間になるだろう。それが仮に大したことのない時間だったとしても、目をつむったままでも必要な道具や備品が揃う環境とどちらがいいか考えるまでもない。

    見える化の本質は全部見えていることということではなく、直感的に、連想的に、業務を進められる…なんか人間工学みたいな話なわけだ。

  • 動機付け

    端的に言えば、その仕事の意義、必要性、大切さ、影響力を理解し、自発的に取り組む意欲を醸成することでもあるし、配置転換であれば、職場や職務、立場が変わることの意義を理解させることだし、配置転換後の行動に大きく影響する。

    人間という生き物は意義を知れば、自然と行動が変わる。種々雑多な業務があったとしても、意義を知っておれば、優先すべき業務に気付けるし、力を入れるべき業務がわかる。

    仮に定型業務主体の仕事でも、動機付けがあるかないかは個々の仕事の成果を左右するだろうし、であれば、自ずと個々の業務の総和たる職場や会社全体の成果も左右するだろう。トヨタのカイゼン活動を例に挙げるまでもないし、改善し続けるという動機を生み出していることは着眼に値する。

    問題や課題がわかっているのに放置することほど愚かなことはない。

    愚かだと言ってしまおう。

    かなり昔の話だけれど、ある製造業の社長にお会いすることができた。当時、メーカーだけでなく卸や小売業からも経営の神様のように言われたお方で、当時自分の上司が会うことになったのを聞きつけ無理を言って御伴することになった。

    その時、その社長はいくつかのお話の中で「問題解決より、問題発見」だというようなことをおっしゃった。事実、自社の営業マンには問題発見をしつこく求めるのだそうな。問題発見の数と担当する取引先様への訪問回数(これは業務の数値化のような意味合いがあるはずで、評価制度上の基準のひとつだったのかも知れない)。

    この話はいろんな意義を含んでいるので説明しづらいが、観察眼を磨けということがあると思う。安易に解決策に走るより、問題の全体が見えた(見えてからの)方が実は少ない打ち手で解決できることが経験上言える。モグラたたきは問題解決ではなく(愚策であり)、一石二鳥、三鳥を考えるのが仕事であろうし、経営であろう。

    もっと言えば、ボタンひとつで問題のすべてを解決するのが賢いものの選択だ。

    違う言い方をするビジネスパーソンもいるかも知れない。どんな現場に行ってもまず初手は「現状把握」。これも同じことを言っていると言っていい。

    何よりも問題の発見が一番難しいよ、と経営の神様はおっしゃった。

    おまけのように付け足したが、営業マンに訪問回数を求めたのも深いお考えがある。どんな話をするか、どんな提案をするか、そこではないと。若干、昭和のにおいがしないでもないけれど、会う回数が増えれば、自ずと必要な化学反応は起きるということだろう。上司や会社があれしろこれしろ、こういう提案を持って行けだのと言うより、足を運ぶことでそれぞれの取引先様に必要な問題や課題が発見され、明確になって実現する。

    成果はおのずとついてくる。

    こういった話は決して新しい思想でもなければ、むしろうまくいっている会社が昔から愚直に繰り返しやっていることであって、いくらでも書籍などで触れることができることだから、参考にしない手はない。

    実際、この経営の神様にお会いしたのは2010年より前の話だし、トヨタの〇〇みたいな書籍ならもっと昔からある。

    いいことは真似るという単純でいいことをしない会社やビジネスパーソンはその時点で思考停止していると言っていい。停滞は衰退と言われ始めてこれも何十年と経つ。私が社会に出た1998年の時点ですでに言われていた。

    他者から学ばない会社やビジネスパーソンには衰退の道しかない。

    動機付けがあるかないかで、その会社の、その部署の、その職場の程度が知れるし、そこに働く人間の未来を左右するかも知れず、あまりにも責任が大きい。

  • 仕事との距離の置き方(その3)絵画

    絵はずっと描きたい衝動はあったんだ。

    でも、描きたいものが思い浮かばないし、まじめにデッサンという気分でもない。そもそも高校の美術の授業以来ちゃんと習ったこともない。もっと描きたいものを描きたいというシンプルな衝動でいたかった。だから、折に触れてスケッチブックは買ってみるけど続かなかった。

    ある時をきっかけに変わった。

    ひとつは万年筆。

    もうひとつはテレビを見なくなったこと。

    たぶん、この2点で説明し切れると思う。

    万年筆を使い始めたきっかけ自体はよく覚えていないけれど、大人の筆記用具を持ってみたかったんだと思う。少しいいものも買ってみたけど、結局絵に適していたのは一番安いKAWECOの万年筆だった。その中でも持ちやすさでパケオというシリーズで、恐らくブランドの中で一番安いモデルではなかろうか。

    これがよかった。万年筆で線を引く感覚が気持ちいいのだ。これは確実にうつに奏功したに違いない。

    そうはいっても素人のお絵描きには違いないので、道具にお金をかけるのもなぁと控え気味だった。でも、そのうち色鉛筆に手を出した。最終的にはホルベインがよかったような記憶がある。色鉛筆で満足しようとその時は思っていたのに、絵の具に手を出した。でも、知識がないので、高校の美術の時間に多少使ったことのある、アクリル絵の具を手に入れた。やはりホルベインだった…といっても日本海側の田舎都市で絵の具を買えるところなんてそうはないんだよ。ホルベインは某ホームセンターにもフルラインナップで置いているし、オンラインでも購入可能。

    そもそもアクリル絵の具には2種類あって、ポスターカラーのようにベタ塗りしかできないタイプと重ね塗りして映えるタイプと2種類あった。当然後者。

    ただ、技術的な話にはなるけれど、絵の具は混ぜれば混ぜるほど濁る。なるべく少ない種類でイメージする色に近付けないときれいな色にはならない。

    そもそも絵が描けるようになった、つまり描きたい絵がイメージできるようになったのはテレビを見なくなったことだ。これは間違いないと思う。

    当時、自分の部屋は2階にあったけど、わんこが年齢とともに階段の上り下りができなくなった。それなら自分は1階に居を移せばいい。ただ、残念ながら1階にはBSがつながっていなかった。その頃すでにテレビといっても大河ドラマくらいしか見ていなかったんだ。がちゃがちゃしたバラエティーだのどこかの企業のマーケティングを反映させた情報番組なんて、脳みそのゴミにしかならなかったし、そもそもうつの脳には受け付けなかったんだろう。

    そんな経緯から脳みその中のゴミが徐々に排除されたんだと思う。

    3年半で300枚描いた。

    狂気の沙汰…ではなく、頭に描かれたものを写しているだけのことだった。

    当然、脳内でのイメージ化の方は早く、手で描く方はそれより劣る。そこは若干の根気が必要だった。描く方の技術は誰かに教わったわけではないから、下書きだけで終わっている作品もあった。でも、いつか続きは描くと思う。

    この1年は転職もあって、だいぶ描くペースは落ちてしまったけど、描くというベースはできているからいつでもまた描き始められる。絵の具は使わないでいるとだんだん固まっていくからそれだけは気になってはいるけれど。

  • 仕事との距離の置き方(その2)

    20代30代と仕事に明け暮れた。

    40代はうつでほぼ空白の時代だった。

    その40代後半になって、気付きがあった。うつが好転したからかも知れない。でも、誰かに言われたわけでもなかったと思う。

    「若いときに忙しさを言い訳にして諦めたことをそのままやらずに死んでいいのか?」ということだった。

    そもそも海外で医療をやりたかった。それなら初志貫徹、医師免許を取る道に進むべきだった。でも、そこからつまずいた。思えば学業成績よりも気力との戦いだった。

    自分でいうのもなんだけど、持て余した。

    100%順調とは言わないけれど、ごく世間平均から見れば、十分順調だったと思う。

    ドラッグストアの店長も調剤薬局の薬剤師も薬局長も…それなりに短期間で形にはなった。もちろん極めたわけではないけど、いつも2年で異動だった。

    だから、多彩な経験を積むことができたし、今それをネタに人様の役に立つものを考えられるようになった。

    が、しかしだ。それは仕事人としての満足(自己満足に陥らないようにこうして世に出す努力を始めたのではあるが)。

    個の自分はどうだ?

    やりたかったことはやれたか?

    続けたかったことは続けられたか?

    どれもYESとは言い難かった。

    音楽は子供のころから何かしら続けてきたけど、社会に出てからというもの途端に時間がなくなった。

    海外で仕事するための準備はできたか?学生時代英語の成績は優秀で、その勢いに乗って映画は字幕なしで観るようにしていて、英語脳を獲得できたような気になっていたけど、映画自体見る機会がなくなった。

    コロナウイルス感染症パンデミックの直前頃、目覚めたんだ。

    このまま仕事だけやって、やりたいことをせずに死んでもいいのか?10代の頃、ロック少年だった自分は(今もロック少年だが?)明日死んでも悔いない生き方をするというのがポリシーだった。それはつまり、いつだって真剣に取り組んで手を抜かずやり遂げることだったはずだ。

    その精神は仕事にも活かされただろうから、決して失われたわけじゃない。ただ、方向が偏った。

    40代後半の一番の変革は語学と絵画、そして遠征。

    長くなったので、続きはまた後日。

  • 採用担当になりたい新入社員

    やめておけ。

    私は会社を代表して新卒を採用することにまじめに取り組んでいたとは思うし、自分の会社のいいところもわるいところもなるべく率直に伝えて、過去の成り立ちもこれからの方向性も語ってきた。でも、特に新卒採用という場は若干の興奮状態がある…のは経験者なら少なからず感じることだろう。それがわかっているからこそ、のぼせた状態で就職しないよう、冷静な判断の中で社会に出られるよう、こちらも冷静なふるまいをしてきたつもりだった。

    だから、わかるだろうか。

    これから入社しようとする新入社員に、さっきまで就活生だった新入社員に「〇〇さん(←わたしのこと)みたいに採用の仕事がしたいんです」と言われてしまったら、完全敗北なのだ。

    大げさかもしれないけれど、ひとさまの人生を変えてしまうかも知れない採用担当になどなってはいけない。

    もちろん、決めるのは本人だ。

    それに事実、「だまくらかして採っちまえばいいんだよ」という採用担当も経営者も普通にいる(出会った)。私が採用をしていた会社はそんなことはなかったし、人事関係のメンバーもしごくまじめで見習うところも多かったから、なんの後ろめたさもなく取り組んでいたと思う。

    でも、常に一抹の不安はあった。こちらに後ろめたさはなく、誠心誠意伝えていたとしても、20年かそこらしか生きていない、せいぜいバイトくらいしか社会を知らないひとたちに勘違いさせずに仕事を選んでもらえるだろうか…。

    それが「採用担当になりたい」と言われた日にゃ、完全敗北以外に何があろうか。

    もっと大げさに言えば罪悪感という言葉があるかも知れない。

    もちろん、若いひとたちの判断力や見る目も信じてあげればいいんだけど、それは彼ら彼女らの能力の話で、こちら側の気分とは別の話だ。

    採用の仕事に関わっていたのはもう15年以上も前のことだけど、今なら絶対にしないし、今どこかで採用の仕事をなさっている方にお会いしたら、変な目で見てしまうかも知れない。悪しからず。

  • 男子、三日会わざれば刮目すべし

    男子はあるとき急成長する、の意。

    裏を返すと、社会に出てから成長の余地がある。

    なぜこんな言い方をするかというと、企業で採用をしていた身の上、女子は学校というところを卒業した時点でわりとしっかりしている。人間らしい。統計を取ったわけではないけど、毎年新卒だけで千人単位の面接をしていたので、それほど偏ってはいないとは思う。ざっと平均して、の話ではあるけど。女子はやっぱり男子に比べると様々な面で苦労してきているのかも知れない。あるいは就活も含め、男子のようにぼんやりしてられないから自然と姿勢から違ってくるのかも知れない。男子は総じて…やめておこう。自分が大学を卒業したころなんて、果たして人間にすらなれていたか自信がない…。

    つまり、男子は娑婆に出た時点では何もないんだ。そこから成長せずに何がある?

    そういう意味で刮目せよ、があると思うけど、社会出てずっと成長するわけではないし、いつまでもこいつは…と馬鹿にされるタイプもいる。いつしかダメな奴で定着する。いつしか使いもんにならんとまで言われるようになる。でもしかしなのだ。そんな彼らが突き抜ける時がある。

    私自身、ニヤリとすることもあれば、私自身サジを投げたこともある。どちらでもいい。突き抜けることがあるんだ。

    いつまでも古いイメージで馬鹿にしていると箸にも棒にもと言われた彼らに抜かれているんだ。こんな痛快なことはない。

    だから、久しぶりに会った男子には先入観を持たず、よくよく観察せよ、と。

    ちなみに教育の仕事をしていて、いや専門的に教育の仕事をしていなくてもどんな仕事でも教育する場面はあろうから、そのどちらでも構わないのだけど、情熱を傾けて接した箸にも棒にもの彼らが「おかげで店長になれました」なんて言ってきたら、これに勝る喜びはないし、会社からの評価なんかよりずっと大事なことだよ。しかも誰でももらえるわけじゃないボーナスをもらえるわけ。まぁ、私もその時はそれなりに出世させて頂いていたから、ゴマをすることを覚えたのかも知れないし、偉くなった私に指導されたことがあると誇りに思ってくれたのかも知れない。

    いずれにしても当時は叱ったり叱られたりするばかりの関係だったのが、何年かの月日を経て、お互い立場も変わり、感謝し合えることがいいじゃないか。