教える側の責任80%

いや、何%でもいい。
教える側の責任が大多数であり、教わる側はせいぜい一生懸命メモを取って、なるべく同じことを訊ねなくても済むように努力すること。

と言ったのは私の仕事の師であり、のちに様々なOJTの書に、教育担当養成の研修の場で言われたことでありました。

つまり、特別変わった話ではありません。

OJTが作業手順を教えることくらいの意味しかないとしたら、責任はいらないんだけど、この責任がないと、その作業手順すらいい加減な教え方になる。

尤もその作業手順を書き取る時間も与えない教育は教育と呼ぶに値しないんだけれど。

そもそもOJTとは一定のパフォーマンスを発揮するまでの時間を最短化することです。

そのためには仕事の意義から始まり、全体像と体系的な流れを示し、これから教わる手元の手技との関連性や位置づけを理解しないと始まるものも始まらない。


OJTという概念のない場所では日常業務の合間に、作業手順を点で教える…というより”言う”だけで、初心者初学者が短期間にできるようになる可能性は極めて低く、一部の天才か要領のいいタイプだけが自力で習得できるのみだろう。日頃の作業手順の通り”伝える”ならまだしも、その手順すら無視して断片的に”伝えて”も結局”慣れる”のを待つしかない。

教える…できるまで習得できるまで面倒を見ること。

言う…言葉にして発する。



点で…というのは作業の前後関係なしで、「それはこうやって」言ってくるようなケースで、連続性がないから、何の後”こうやる”のかまるでわからないことになる。それではどんなときに「こう」やって、どういうときは「そう」やるのか、受け手(教わる側)がかなりの努力をして整理しなくてはならない。もちろん、「そう」とか「こう」とか様々なバリエーションを自分の中で蓄積させる必要がある。教える側は全部(全体)を知っているはずなのに、それを整理せずに断片で話をする。

決して、珍しい話ではない。

A→B→Cがスタンダードな手順ならば、まずそれスタンダードであることとその手順を習得しないと次はない。

仮にイレギュラーとしてA→B’→C’という工程があったとして、B’のみ、C’のみ教えられても仕方ない。

文字通り仕方ない。

つまり、どこから教えるかも法則がある。考えるまでもない。

一番スタンダードなやり方からしかあり得ない。もし仮に一番スタンダードなやり方の難易度が高いとしたら、スタンダードなやり方を切り分けて、それぞれの位置関係を確認しながら、教えていくか、イレギュラーではあるけど、導入しやすい簡単なものから教えるに如くはなし。



教える側に責任がないと、できなければできない側の責任になってしまい、それが原因で辞めてしまっても居なくなれば覚えの悪い奴でしたね、で終わる。教える側の成長の機会も失われる。

最後に残った者が勝ちなのは何もリングの上だけではないけれど、貴重な費用をかけて採用した正に貴重な人材を自分たちの無知のせいで捨てることになるかも知れない。受け入れる会社にとってもなにひとついいことがない。

教育も採用もやるとわかるけど、教育できないなら採用するな、と思う。

教わる側、採用される側が気の毒なだけでなく、教える側、採用する側にもいいことがないだけでなく、相当な経費を使っているだけに損しかない。

何も手取り足取りとは言わない。けれど、採用した以上、道筋をつける責任か必要はあるのではないか。これはあくまでも採用した側、教える側の姿勢として、という話だ。現場ではなかなか経営上の損得まで見えていないことが多いだろうけど、人として、も現場の実務上もそれほど間違っていまい。

だから、本来現場では”教えてできるようにする必要性”があるはずなんだ。にしても、その辺りの理屈と行動が一致していないのが不思議でならない。

時々困ったことに教わる側がふんぞり返っていることがある。「さあ、上手に教えてごらんなさい」と言わんばかりの。仕事の不出来を指摘すると「教え方が悪いんじゃないですか?」とくる。”教える側の責任”云々と言っている以上、怯まないでもないが、結局のところ、教える側が教える側の責任を果たし、教わる側も仕事を覚えることに専念する、その関係性、構造がなければ、成り立たない。それにどちらかがふんぞり返っていたら、それぞれの人生もそこまでだろう。

いずれにせよ、教える側が教えることに責任を持ち、教わる側もそれに喰らいついていく、そして周囲も何を教わって、何をまだ伝え切れていないかを把握して、面倒を見る風土こそが、ひとりの新入社員なり初学者を育てる環境となる。

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