投稿者: kmngr_kasumi_eater_0607

  • うつと「ごめん、むり」

    このサイトの大きなテーマのひとつと思っているんだけれど、なかなかどこから書き始めたらいいか少々悩む。よって、以前手書きで書き留めた、うつの人に役立ちそうな薬以外の症状緩和術をまずはUPしていこうかな、と。

    人間にはできることできないことがある。そりゃそうだ。でも、うつになるということは、おそらくその過程で、頑張ればできるけど相当な努力とか時間をかけないとできないことを「わかりました、やります」と請け負ってきたのではないか。

    頑張ればできる、がくせ者。

    で、頑張ってきた。でも、途中から頑張れているのか、限界を超えて”疲れた”とか”もう無理”っていう自覚症状が壊れてしまっているのかすらわからなくなって、実は神経が壊れてしまっている。それがうつになる直前とか直後の状態なんじゃないかと思う。

    ちょっと脱線するけど、うつがアドレナリンやセロトニンの分泌低下、枯渇やアドレナリンレセプターやセロトニンレセプターのダウンレギュレーション(減少や反応低下)を病態とする疾患なら、なぜそれらを定量化する検査方法が出てこないんだろう。大学の研究室レベルなら日常茶飯事だから、技術的な問題ではない。

    話を戻す。そんな無理が背景にあるのは誰も疑わないだろうから、自動的に心が弱いからじゃない。一応、これは言っておきたい。もし、弱さがあるとしたら、無理なことを断れないことかも知れないが、それを言い出したら、押し付けている側の罪を十分問うてからにして頂きたい。

    だから、まずは「ごめん、むり」と言えるようになる。つまり断れるようになるようになる。特にうつを発症した後はそれまでできたこともしんどいことが増える。なんなら”できます”も”できません”も言えないくらい神経が疲弊しているはず。

    「ごめん、むり」と言えるようになることがスタートだと思います。今はいい薬が増えました。発症しても比較的早期に一番底の状態を脱出できます(多少の賛否両論や個人差はちょっとここではいったん忘れて下さい)。お薬の力で少しでも浮上した時に「今の自分にはできないことがあります」と宣言してしまうことで、治療も進みやすくなり、のちのち本格的に社会復帰したしたときも無理しすぎず、気軽に「無理かなぁ」と言える自分作りをしておくことになります。

    このカテゴリーはそもそも文字を読むこともストレスな方が読む可能性も考えてなるべく短くします。あと、太字とかそこだけ読めばなんとなく大意は伝わるように工夫していきたいと思っています。

    もちろん、これひとつで解決するほど簡単じゃないです。でも、重いものが少し軽くなるテクニックのひとつだと思って。

  • 彌彦神社(越後國)

    二礼四拍一礼。

    代表的なのは出雲大社がこの御作法でお詣りします。

    単純に出雲系?と考える向きもありそうですが、御祭神の天香山命は饒速日尊の子で尾張氏の祖神、異母兄弟に宇摩志麻遅がいて、こちらは物部氏の祖神。

    御当地、彌彦神社では古式の参拝形式を残している、というような説明をしているようで、出雲との関連は述べていないようです。

    古ければ四拍、だといろいろ引っ掛かります。もちろん、明治維新以降の国家神道を推し進める政策の中で、整理されたものもたくさんありそうですが。

    古くて、尚且つなんらかの系統に乗っているから四拍、となればスッキリしそうなものなんだけど。

    となるとキーワードは物部氏。

    物部氏がこの辺りや日本海側、東北にかけて勢力を張っていたのはそんなに違和感のある話ではない。二田物部神社もあるし、一方、出雲っぽい地名もある。出雲崎もあれば、ずばり出雲もある。おまけに大神系の神社もぱらぱらと見つけることができる。起源まで調べていないので、意外と新しい時代に定まった地名や神社だとあてにはなりませんが、出雲型の古墳(四隅突出型墳丘墓)は北陸三県くらいならいくらかあったはず。

    だから、何かしらの所属部族単位の古式が残っている可能性はたぶんあるんだろうなと。

    ここで終わってもいいのですが、ずーっと気になっているのが、物部氏の出自。

    古事記では神武東征以前に大和を治めていた、しかも同族である神宝も携える饒速日尊を祖とするのだから、これを真っ正直にとらえるなら出雲系ではない。

    けれど、結果的には神武天皇に実権が移り、古代史ファンをもやもやさせたり、わくわくさせたりする。

    結局のところ、饒速日尊含め、物部氏がどこから来たのか…。

    単純に出雲族との結びつきが濃ければ四拍の謎は解決なんですけどね。

  • 榛名湖(上毛野國)

    榛名湖は1年経たず2回行きました。

    山と湖が好き。

    湖の青色がうまくでた1枚。

  • 『日本教』

    あやしげな宗教の話ではないので、ご懸念なきよう(笑)

    私の中で日本独特の宗教観をこう呼んでいる、というお話です。

    いわゆる初詣は神社に行き、結婚式は教会、お葬式はお寺、12月にはクリスマスを祝い、最近ではハロウィンとかイースターも祝う…というか騒ぐネタになる、という日本人の習性を個人的にはいいじゃねぇのぉ?と許容しています。

    まぁ、毎年渋谷で大騒ぎというのはまた別の話で、ひと様に迷惑をかけるのはちょっと違う。

    それはさておき、なぜ日本人の宗教観として認めたらいいんじゃないかと思うかというと、そんなに日本人のDNAから逸脱してはいないんじゃないかと思うから。

    恐らく、今後このサイトで何度か繰り返し述べることもあろうかと思うのですが、外来のものを受け入れる習性は昨日今日のことではない、ということです。

    多分、文化とか習慣的なことは理解しやすいんだと思います。明治維新で西洋文化が入ってきて、洋服着たり、肉食をするようになったり。ただ、心のよりどころたる宗教、信仰は抵抗があるから、日本人おかしい、になる。

    確かにキリスト教もイスラム教もユダヤ教も同じ神様を崇拝しているのに敵対関係にあるんだから、キリスト教徒がイスラム教のお祭りを祝うなんてことはあり得ない。わかります。

    でも、すでに”同じ神様を崇拝しているのに”、”のに”と言っている時点でこれは日本人の習性が挟まっている。もう少し分解すると、同じ神様を拝んでいるんだから、仲よくすればいいのに、なぜけんかするの?という感覚になる。

    「Aというアイドル好きなんだよね」「そうなの?!私も!いいよねぇ!」てなるじゃん。

    「Bってギタリストが好きなんだよね」「は?お前にBの良さなんてわかんのかよ?」

    あ、後者なのか?

    神様と一緒にするなとおっしゃるんでしょうけど、一緒になっちゃうのが日本。

    『国譲り神話』というものがある。出雲が治めていた国を大和が「ほしいからちょうだい」っていった事件。誰も天照大神を止めなかったんすかねぇ。そこは本題ではないので割愛しますが、最終的に出雲を巨大神殿に祀ることで契約成立となった。いろいろ裏話はありそうですけど、少なくとも出雲の神様を神社に祀ることになったのは間違いない。恐らく出雲と大和では信仰が異なるというより、民族、DNA、そもそもの出自が違ったのではないかと思います。でも、神社という枠組みの中で祀ることになった。本音かどうかは別として、出雲の神様はそうしてくれたらいいよ、って。

    民族的に別系統と思われる神様を一緒に祀るということを神社はやってきました。客人神(まろうどがみ)やアラハバキが典型でしょうか。

    挙句の果てに怨霊すら祀る。受験のたびにお詣りするあのお方や権力争いに敗れた高貴なお方、上司に追い込まれて三度おみくじを引いて謀反を決めたあのお方も祀られています。

    ちょっと違うかも知れませんが、沖縄のどこだったか、どんな悪人も7代経てば神様になるそうです。

    根底にある感覚はみんな同じ。敵も味方も神様も悪霊も区別がない。まぁ、なんだったら敵とか悪霊こそ祀りたいのかもなぁ、とは思いますが、かといって、神聖な神社に敵や悪霊を入れないなんて料簡の狭い話はないから、これは脈々と流れ続けてきた日本人の精神なんだから、これでいいんだと思う。

  • 須々岐水神社(信濃國筑摩郡)

    ご当地開拓は卦婁真老(けるのまおい)を中心とした高麗系のひとたちだったようです。

    のちに須々岐氏を賜姓され、平たく言えば帰化したということなんだと思うのですが、当然、その前から当地の開拓に尽力されていたんだとは思います。

    興味深いのはこの朝の時間帯にちゃんと朝日を拝む形の配置になっていること。

    聞くところによれば、寺院建築が中国から輸入された頃から、大きめの建物は南向きになったそうで。いわゆる「指南」の語源にも通ずる、南を意識した文化が定着していったようなのですが、それは中国大陸あたりの気分で、日本列島では朝日を拝む形が原形だと思います。

    うろ覚えですが、「寺」という文字もそもそも仏教の建物という意味ではなく、大きな建物くらいの意味だったような…。

    きちんとした神社建築がない、小規模な古代祭祀の痕跡を感じさせる場所ほど、実はお日様をお詣りする形になっているところが時々あります。

    もっとも時代とともに建て替わったりして、向きが変わることも全然ありそうですが。

    ふと…壱岐の月読神社の向きは…気になりますね(笑)

    GoogleMapを見ると東南方向に拝む形…ちょっと考えすぎだったかも知れません💦

    どんな文化であれ、どんな民族であれ、太陽を拝まない信仰ってないと思うんですよね。程度の差はあっても。

    話はおひさまの話中心になってしまいましたが、須々岐水神社の神様は渡来の神様か薄川の神様か…。どっちもありそうだけど、中世の諏訪系の影響を受ける直前は水の神様かな。現実的な生活を守るための。更にその前となると、自分たちのルーツを示すような大陸の神様というのが自然だと思うんですけどね。

    ちょっとこの辺は想像です。ありそうな想像をしてみたまで(笑)

    この時見てこられなかったんですけど、針塚古墳というのが松本市内にあって、積石塚なんですって。帰ってから知りました。積石ってなんとなくイメージは朝鮮タイプな感じがするんですよね。須々岐氏が高麗出自と言っているんですから、このあたりに勢力があったって不思議ではありません。

    お社の写真はやはり神様降臨っぽい感じを頑張ってみました。朝の時間はこういう画が撮れます。

  • 薬局の時間外労働対策

    まずはサービス残業対策。
    次に退勤間際の時間帯の段取り。
    本丸は朝から帰るまでの作業(頭脳労働ではなく、ルーティンというか、定型業務)の手順、オペレーション改革。

    これはどんか業種業態にも当てはまる。

    まず、サービス残業対策。
    これをやらないと(今まで勤怠などで把握できていた)残業時間は減るけれど、把握できないものにすり替わる可能性があって、当然法にも触れるし、働いている人たちのモチベーションも体力も損なわれる。1ミリもいいことはない。まずは残業がサービス残業化しないよう予防策を講じておく。

    見えていた残業が管理されないサービス残業化するのは、「残業=悪」という標語が「残業禁止」→「残業すると会社に把握される」→「隠れてやればいい(勤怠を通さない)」or「残業代を払いたくないなら自分の時間でやるわ」に歪んで変換された結果ではなかろうか。勤怠に記録が残らなければいいんだろ?という発想になり、誰かがトラブって退職するときにお上に通報されて明るみに出るパターン。

    そもそもは善意からやっていることが多いのではないか。朝早く出勤して◯◯をやるんだから、そもそもは悪意じゃない。なのに、れっきとした業務であるのに違法だのサービス残業だのと言い渡される。れっきとした業務なんだから、その時点で違法だのなんだのって間違っているんだけど、その朝早く来てやっている業務を勤務として認める、充てる。それだけでいい。朝が無理なら他の比較的手すきの時間に変更する。とにかく勤務時間の枠の中に充てる。人智を尽くしてもどうにもこうにも勤務時間内に当てはまらないなら、それって全体の人時(人手)不足。増員案件。まぁ、増員となると費用対効果も考えなきゃいけないから、単純に採用しましょうとはならないかも知れないけど、そうなると本当にやらないといけない仕事?という議論もまじめにせねばならない。やらなくていい仕事なら言いにくくてもそういう話をせねば、解決しない。

    総じて、「〇〇したほうがいい」はしない。「〇〇しなくてはならない(マスト)」の仕事に力点を置く。

    とにかく、れっきとした業務なら勤務時間として認めるところから。

    次に「帰りましょうキャンペーン」。一見安っぽいけど、効果がないこともない。本来は段取り、1日の仕事の流れの中で計画的に時刻通り帰るのが理想だけど、そもそも時計を見る習慣のないのもいるし、帰ってもいいのかしら?と気遣いが脳裏をよぎることもある。だから、「時間ですよ」とバッサリいけばいい。言ってみれば、退勤時刻になったら、「時間です」と宣言する係を作る。実はこういう具体性が大事。ただ、仕事も終わってないのに時間だからとさっさと帰る輩も躾のない学級会には多い…。

    で、本丸。

    一般論としては一連の業務フローの中で律速となっているポイントを見付ける。一日の業務の核、あるいは大多数を占める業務の手順や環境を整える。

    いきなり細かいことから言うようだけど、毎日使う文房具を使うたびに置き場所まで取りに行くことが無駄だと気付かなければならない。毎日使うなら、いつも使う場所に定位置として設置することが実は象徴的な改善策。

    部長がハンコを押すべき書類をいつも溜め込んで決済が進まない。部長が溜め込んでしまう癖の人なのか、そもそも社内の書類管理が多いのか、その部長に集まってくる書類の量が適正じゃないのか、部長の前の段階の人が溜め込んで一気に持ち込むから部長が悪く見えるのか…。ちょっとここでは個人の癖とか能力は別の話なので、稟議回覧のフローを簡略する(つまりこれは単にハンコを押す欄を削る、省くという話ではなくて、適切に権限移譲して、書類の回覧のみにするか、それでは書類は減らんということなら、権限者が周知するところまで責任を持つ、等々の内部統制的な話になる)ことになる。

    つまり、部長ではなく課長に権限移譲されておれば、課長段階で周知なり運用に移行すれば事足りる。部長は「はい、見たよ」でおしまい。

    調剤薬局なら棚。棚の配置が命。よく使う医薬品を一番下の引き出しにしまって、都度しゃがんだりかがんだり、腰を痛めて、取る無駄は良識があればそうならない。と、こう読めば「そんなバカな」というだろうけど、どういうわけか、薬局というところは考えなくても変だな、という状態の上にさらに次の層が覆いかぶさっていることが多くてそのまま保存される。つまり普通に実在するし地層化する。若いから腰痛くない、とかそういう話じゃないんだが、高頻度に使うAという医薬品を28錠取ってくるためにいちいちしゃがんだりかがんだり、腰を痛めたりすることを繰り返す時間の浪費と筋肉・関節の疲労に向き合わないといけないんだが。

    よく使うものは簡単に手の届く場所に。これは見える化もセットだと思う。ひとに訊かなくても見たら見つかる。

    更に徹底するなら、最下段の引き出しは使用不可(備品などは可)。

    次に法則の単純化。一般的には50音順。50音順と言ったら50音順。例外を作らない。自動的に1ヶ所展開になる。Bという医薬品があっちとこっちにもあるなんてことは愚の骨頂(だけど、やはり実在するし、薬局あるある)。湿布が(ガタイが大きいから)あっちの棚とこっちの棚に分かれているなんてことも同様。法的には普通薬・劇薬を区分するけれど、次の区分は剤形。錠剤カプセル、軟膏チューブ、目薬…。予備在庫が本籍の棚に収まらないなら、その本籍棚が頻繁に使うものなら、その使用頻度に耐える場所でなければならない。本籍棚が取りやすい上段の目線にあるのに予備在庫は最下段の引き出し、あるいは別のオリコンにしまってある、脈絡のない別の棚に別途あいう…が並んでいるなんてことも作業性を完全に無視しているだけでなく、混迷以外の何物でもない。

    狭義の調剤(いわゆるピッキング)は単純作業だから、効率(作業性)がすべて。余計なことが頭をよぎれば間違いのもと。配置ルールの単純化と徹底に尽きる。正しいお薬を正しい数量持ってくるだけにする。

    ここまで効率命でお話ししたけれど、”薬効分類別”という棚の考え方もある。チェーンの薬局が大多数を占めるから、応援などの人の貸し借りが普段から起きる環境では恐らく極めて少数派ではあると思うし、個人薬局限定かも知れない。ただ、どうしても薬効がひとつとは限らないので、配置に困ることになる。つまり、初学者や配属間もない人間にとっても教える側にとっても一言では説明し切れないし、慣れるまでの時間が必要になる。つまり、熟練が必要。一方、剤形別と50音順を伝えれば済むのであれば、OJTする方もされる方も短時間だし、覚えることも少ないから経費の面でも年取った頭でも負担が少ないし、今日からある一定のパフォーマンスを期待していい。教育が一番お金がかかる。教える人と教わる人の人件費はいつも×2以上だし、習得したかどうかわかりにくいから効果も微妙。費用対効果が悪いというより算出しづらい。

    だから、ルールがシンプルで、教えること覚えることが少ないことが正義なのだ。

    ただね…、”薬効別分類”はその会社や薬局の姿勢としては嫌いじゃないし、立派だと思う。つまり、そこに思想があるか否かだと思う。

    また、機会があれば作業動線とかもう少し人間の動きの話もいつか。

  • 初期教育の重要性

    平たく言えば、これがないと、もっと突っ込んで言えば、もし会社にそういう思想(育てようという思いといってもいい)がなければ、例えば新入社員に対してよく言われそうな「いつまで学生気分なんだね?」みたいなセリフは30歳だろうが40歳だろうがそ言いたくなる状況が変わらずずっと続く可能性がある。

    仮に初期教育がなかったとしても、日頃から会社つまり上司などが部下に対し、報告連絡相談を求めたり、何か問題があった場合に改善するよう指導する風土があれば、十分気付きのきっかけになるし、40歳になっても自分のミスを処理できない(決して腹を切るということではなく、普通に責任をもって仕事をすることを意味しているのだが、その対処方法は上司に出張ってもらう、みたいなことになったりする)子供みたいな状況がは避けられそう。不平ばかり言っていちいち仕事を止める部下がいても「反論があるならその根拠と代案を示せ」と多少の摩擦は避けられないかも知れないけれど、仕事っぽい議論になればお互いに気付きになる可能性が増える。

    尤も…建設的な議論ができるのなら、「学生気分」くらいは卒業しているんだろうけどね…。

    つまり、本当の意味での”仕事”をしているなら、普段から気付きがあり、自然と成長する機会が発生するものなのだろう。

    本当の意味での仕事とは多分何かに”貢献”することだろう。それは業種業態によって様々だろうから一概には言えないけれど、お客さんとか、利用する人とか、患者さんとか、会社だったり、上司だったりするかも知れない。

    まぁ、後半は時に「上司の顔色ばかりをうかがって」と揶揄される対象になりがちだけれど、見方を変えれば、上司や会社の顔色をうかがって、それが円滑な業務につながているのであれば、そんなにダメなこととは言えない。

    話を戻す。

    日頃からこういったやりとりがないとしたら、文句を言って好きなことしかやらなかったら、ごく一般的な普通の人が成長のきっかけをつかむのはかなり厳しいことになる(一般的な普通の…と言ったのはごく限られた天才は周りがどうであろうと成長できるので、そういう人は省いて考えなければいけない)。

    文句を言って…といったが、文句を言う方がまだましで、黙って好きなことをしないというタイプもいてこれは厄介。

    いずれにしてもやると決まっていることをやらなくて済む状況は本人にとっても会社にとっても大ダメージなように思うけれど、結構ある。

    かくいう私もやらずに済む仕事ならやらずに…と思うことは多々ある。そいつは経験です(笑) 会社から指示は出たけど、この類は立ち消えになるか、中止になるな、と。固まるまで保留するに如くはなし、というケースは結構あった。

    では、日頃の業務次第で、初期教育は必ずしもマストではないのではないかと思うこともあるけれど、果たして現場やそれを監督する中間層のクオリティーも必ずばらつく。つまり、上記のような経験値を高める環境をこさえてくれる中間層ばかりではないから、結局統合的な初期教育を施すことがベースを整えることになるし、少なくともスタートラインが揃う。

    この中間層の力量のことを言ってしまうと、初期だけでなく、継続的に何かしらの統一された教育を施していくのがセオリーなんだろうけど、ここではせめて初期教育だけでも…というスタンスに留めておく。

    スタートラインとは仕事をする姿勢がある一定水準まで引き上げられる、または均一になるということをイメージしている。

    実はこの話は冒頭で何となく察知された方もいるだろうけど、とんでもない地獄をはらんでいる。社員の成長というものを会社がひとつも願わず、本質的に期待していないとしたら。

    経済がいいときの話かも知れない。社員の成長が会社の成長と言ってもらえたのは。

    初期教育をせず、現場任せ(任せますよ、と言っていればまだ救いようがあるが)だとしたら(つまり放任主義といった主義ではなくただの放置)。評価制度という枠組みはあるけど、前述の上司部下間のやりとりがなければ、評価制度のあるなしはあまり関係なく、いい歳して上司の方から訊ねるしか状況把握する手段がないとか、訊ねても報告の的を射ない、上司が何を求めているかがわからない、なんてことは珍しいことではなくなる。

    実は報連相は結構難しい。

    別に上司部下間でなくてもいいのだけれど、相手が同僚でもよくて、つまり、相手が欲しい情報を的確に伝えるのが報連相だろうから、相手の立場や自分の仕事の後工程の立場を理解していないとうまくいかないものなのだ。

    実際の現場では、報連相がなくて、でもなんとなく業務は進んでいて、リレーのバトンのようにバトンの受け渡しはしているけれど、そのバトンが今いったいどこにあるのかわからないし、誰も知らない…なんて状況…例えば、状況が変わっていつもより早めに仕事を進めなければいけない、トラブルがあって修正が必要、のようなことがあっても現状把握ができない、しづらいようなケース。一見流れ作業が円滑に回っているようにも見えるんだけど、イレギュラーに弱い。イレギュラーな状況にいちから現状把握しなければならないとしたら、これは大変だ。タイムリーに現況がわかっていたら、その場で適切な指示も出せよう。

    こういう状況でなぜバトンを受け流すだけのことしかしていないんだろうと振り返ったときに、どうやら教育らしい教育を受けていない、報連相?聞いたことあるなくらいの反応(上場企業じゃないと明確な初期教育はないかもしれない)、中途入社でいきなり現場に放り込まれた、という話にぶち当たるパターン。

    さて、システム上で業務上の期限や進捗報告を求めてくる会社がある。これはそういう時代だし、むしろ漏れをなくし、且つ会社が即座に現場の状況を把握するには好都合な仕組みではある。人間の上司が期限や業務の進捗を確認する手間や面倒を省ける…、負担を減らす、ことが本来の目的だったかも知れないけど、もしかすると、人対人の摩擦を避けるためだったり、今となってはロストテクノロジー(失われたスキル)みたいなもののような気もする。特に薬局なら、専門知識の教育なり体制はあってもマネジメントに関する教育はないのが普通。個人の能力で比較的できそうな人がやっているにすぎない。小売業でもよほど経営層に深い思想(想い)がなければ、それ用の教育はない。

    薬剤師として専門知識が豊富な人と薬局運営とは関係ないし、売場作りが得意な人と店のシフト作りも料理がうまい料理人と店舗経営はやっぱり関係がない。別の能力。

    でも、そこにお金がかけられないのがメーカー(製造業)と違うところ。これは粗利率の問題だからどうしようもない。



    話を戻す。お店や薬局といった職場単位の現場ではシステムを使って進捗管理することはない。毎日会う人同士は言葉でのやりとりがある。システムを介して、どうなってますか?と訊ねることはない。

    まぁ、”ない”とは言ったけれど、デスクワークをやる人の中にはひとこと本人に確認すればいいことでもメールで…という話も実は結構あるから、ストレスなのかもしれないね。

    仕事の核として、どんな仕事でも、期限までに業務を完了させるとか、もしできない(できそうにない)場合には前もって期限を再設定するとか、内容を修正、変更するとか、中止するとか、中止しても大丈夫なのかとか、中止や変更に妥当性があるのかとか、そんなことが日常的に行われているだろうけど、片方でそんな高等なことではなくて、基本的な社会人の姿勢や知識、行動として、わからないことはまずわかる人に相談する、教えてもらう(わからない人同士でごにょごにょ相談しても時間の無駄になりがち)とか、社内規定でデニムやジャージはダメということになっているけど、根拠は会社のルールではなくて、(特にお客さん相手の仕事では)、社会通念の面で違和感(不快感)を感じる人がいるということや、昼休憩は労働者の義務であり権利ではあるけど、労働契約書上は労働時間ではなくても拘束時間であるから、そうでなくてもどこに行くのかわからない状態で職場を離れることが同僚に迷惑をかけるかもということすら、教えなければ(教えなくてはならないのか?想像力の問題と一蹴する向きもあろうけど)、もし、そういったことを誰も知らない環境では、誰もその異常には気付かないということになる。店長や薬局長といった現場監督者(小単位の長)も教わったこともなければ自分から学びに行くことがなければ、そのまま知らないままだし、気付かないままとなる。中途入社か何かで他社での社会経験がある部下がいても、「上司に批判めいたことは言っちゃいけない」みたいな慣習(悪習だけど)がどこにでもあって、特に薬局には長以外にも薬剤師にも物申してはいけない風土があったりする。そうなると間違ったまま何年も過ごし、結構な年齢になる。

    物申してはいけない風土とともに相手に敬意なく失礼な物言いが横行する場…というよりこの辺はやはり家庭環境や育ちが反映しやすいのか、個人の問題に見えることは多い。

    だから、ここまで書くとほぼ躾の範疇かとも思えてくるけれど、上記のようにわざわざ法律や社内規定で定められていることでもあるから、やはり会社側が「こういうものですよ、守りましょう」という場があって然りではなかろうか。つまり、”外に出しても恥ずかしくない”ように。

    せめて、育ちがよろしければ、マナーとして「お昼(休憩時間)、ちょっと外出しますね」とかお客さん商売なんだからマッキンキンの金髪はダメだよね、とか考えるかも知れない。

    尤も多様性…がはやりですから、あまり今までの常識が通用しなくなってきてはいますけど。

    私も若かりし頃、母親から言われた言葉で当時は若干”学生気分”だったことに気付かされた一件があります。大学を卒業してすぐに真っ赤な外車を買おうとした私に「お客さん相手の仕事をするのにその車で出勤するの?駐車場に停めておくんでしょ?お客さんの家に配達もあるんじゃないの?」と。似たような話でだいぶ年齢を経てからある程度経験を積んだ部下から「お客さんよりいいものを身に着けるのはダメだと思うんです」と熱弁を振るわれたり。そんな昔の話ではないよ。でも、お客さん相手の仕事をそうとらえているというエピソードとしては大事な考え方。

    一方で、冗談みたいな「やりたくなーい」「そんなの無駄じゃね?」みたいなことが冗談ではなく、そのまま”やらない”ことに定まって(あるいは好きなやり方でやってしまう)、通用してしまうことも割とあって。何度も言うが、本当にやらなくも大丈夫な仕事というのが結構あったりして、まずます混迷を深めるのだけれど、マストな仕事でも結構簡単にやらない方向で進むことはままあって、「仕事なんだから」と諫めることが無駄なだけでなく、謂れのないパワハラのような身に覚えのない罪状でお咎めを受けたりするから、躾されていない(道徳観がないと言った方が正確か)環境、集団の中では十分気を付けなくてはならない。同じ日本で、そんなに時代差はないんだけど、急速にこの方向に加速しているような気がする。

    単独店舗で利益が出ているのは実は店の運営努力の割合は極めて少なくて、出店した時点(つまり開発の時点)ですでにある程度の規模が決まっている。若干乱暴だとは思うが、調剤薬局についてはその色合いが極めて濃い。隣接医療機関の処方箋発行枚数で決まるもので薬局は受け皿をやっているに過ぎない。処方医の人気か腕に依存している。

    当然、それが永遠に続くはずがない。一番簡単で分かりやすい例はその処方元の医師が何らかの理由で亡くなる、いなくなるという例。これは突然売上がなくなるし、時々耳にする。医師もにんげんだから。確率的にここまでレアじゃなくてもごく普通にドラッグストアはそこから溢れてくる処方箋を虎視眈々と狙っているし、日々誘導の営業をかけている。利用者(患者さんやご家族さん)も門前の薬局でもらう必要性は時間とともに薄れて医療機関の近所ではなく、自宅の近所のほうが便利だと気付く。ましてや隣接医療機関が出してくる処方の在庫すら確保できない薬局の存在価値はかなり低くなる(少なくとも門前薬局にはその隣の医療機関が出す処方薬は備蓄してあるという大前提があるし、それだけの連携をしているし、医師も安心して自分の考える治療をしたいからタッグを組んでいる…と思いたい)。門前の薬局に処方箋が増える要素は発行元の枚数が増える以外には難しく、新規開業開局後の自然増の後、衰退する方向の話はなるべく遅延させるしか手がない。もし、門前薬局の欠品が多ければ、衰退のスピードはさらに加速する。

    開発ありきだと言い切ったが、薬局運営が無力だとは言わない。でも、受け皿としての機能を発揮できなければ、ひはり存在価値を見出すのは難しくなる。

    教育がなければ、処方箋枚数が減ったら…いや減ってからでは遅いんだけど、みたいな商売の法則、ものの見方も知らないまま転がり落ちるように衰退、縮小することになる。現状分析の手法がなければ、他責にするのが人間の性で、よくはないけどやりがちなミス。典型例は「天気が悪い」。これは分析ではないし、永久に雨降りではないから合理性がない。売上が減少し始めるとみるみるうちに業務縮小が進み、仕事が減ってよかったね、なんて寝言が聞こえてきそうだけど、会社は遠くにいても人員削減の口実だけは目ざとく見付けるから、削れるものを削って数字上の利益は出すことぐらいはやってのける。若干飛躍はあるけど、日産は役員給与は変わらず(責任を取らず、という意味)、工場閉鎖して現場従業員をリストラ。薬局やドラッグストアのように大人数ではない業態では、人員は多いほど柔軟に動けるものだけど、業務縮小による人員削減の際は適正化ではなく、数字上の利益を出すためだけの人員配置をすることはままある。原則論としては売上と人員は比例するかも知れないけど、数字が小さくなると当てはまらない。いくら売上が少なくても最低限の人員配置は必要なもの。例えば売上1000万円に対し、スタッフ4人が妥当だとしても、売上500万なら2人、250万円なら1人、125万円なら0.5人と完全に比例させるのは無理が出てくる。きっと250万でも125万でも現実は2人必要みたいな話になるし、売上に関係なく定型業務はある。いずれにせよ、損益決算書も見たことがなければ適正かどうか数字で判断・反論できずしんどい人員で運営することを強いられる。

    体のいいリストラ策になりかねない。

    そういったビジネスパーソンとしての思考を身に付けず働き続ければ働き続けるほど、奴隷化する。上司を言い負かすのが仕事ではないけれど、目上の人に意見するとき、同僚でもいいけど、議論の根拠は数字。それを使いこなせなければ、決められたルーティンをこなすだけになる。さらにやらなくても上司からお叱りを受けずに済むなら、社員である必要もなく(いや会社も指示しなきゃいいんだが)、責任を負わないルーティンだけの業務なら、社員の給料は出ない(会社だって出したくないだろう)。同一労働同一賃金だから、社員と短時間のアルバイトで時給換算に差をつけるのはよろしくないけれど、責任ありとなしで時給に差をつけるなら、むしろ妥当だろうし、勤務時間が長いだけで責任のない社員は一体なんなんだろうとなるし、短時間の勤務だけど、責任をもって職場やお客さんに貢献している人たちが何人も思い浮かぶから、社員も社員の待遇に胡坐をかいていてはいけない。

    働く側がそういう地獄を見ないためにごく簡単でも初期教育は不可欠だろうけど、逆にうがった見方をすれば、戦後の共産主義者のように社員従業員を教育しなければ(知恵をつけなければ)、会社の思うとおりに働かせられる…まさかそんなことはないだろうと思いたいが、状況としては妙に腑に落ちる。

    いずれにしても、30歳、40歳、50歳になっても子供っぽいままだとしたら、それはそれで結構きつい。仕事の出来不出来もあまりに極端に出来ないと困るし、時々だけど、本当にどんな経験を…いや、そんなに経験を積まずに来られたのか?とやばさを感じる人もいなくはないけど、人間として、仕事人として歳相応のスキルと立ち居振舞いができないとそれだけで地獄ではないだろうか。

    とまぁ、立派なこと言っても言ってる本人がそうでもないから、だからこそ努力をね。

  • 所有ギター(その1)

    Orville SG

    高校生くらいの時。ワインレッド。Orville by Gibsonではないので、いわゆる国産廉価版。今となってはJapan Vintage(笑)。奇しくも今でも一番弾くギターでフレットの劣化もひどいけれど、少し前まで6万かそこらの安ギターにフレット張替えなんか…と楽器屋からは拒否されたものの、Japan Vintageとなった今ならアリか?!

    Gibson Les Paul Standard

    学生時代に無理して買ったUSAモノ。でも、先輩からは「カスタムじゃないんだね」とやや馬鹿にされた感が…。当時、スタンダードは20万ちょっとでカスタムが上位機種といってもそれほど価格差はなかったかと。もちろん音でスタンダードを選んだのは言うまでもありませんが。だめだったんですよね、カスタムのジャキっとした感じが。なぜって、SGとは違うマイルドな感じが欲しくてアーチトップを考えてるのにカスタムじゃ意味が分からん。中域の鼻声も魅力もだし。今思えば、アーチトップ病の発症はここから始まったのでしょうな。今、30年越しのアーチトップ病再発で、こじらせにこじらせたCHAKIのP系を…それがだめならとあれこれ物色中。なんならGuildのアーチバックでもいい…。

    もちろん、中抜きなんてしていない超重量の漢仕様です。

    Gibson J200 100周年モデル

    いつか語りますが、11年のうつ病期に傷ませてしまいまして、ギタースタンドのゴム焼けによるバックの塗装割れとブリッジ浮き…。幸い(?)、自前でブリッジ固定に成功し、塗装面のひび割れもニトロセルロースラッカーでなんとか悪化は治まりました。今更ですが、楽器屋に持ち込んだら、当面大丈夫でしょう、と。恐らく呆れてたんだと思いますけど💦 多少のネック起きはあるもののトップは浮いておらず、緊急オペするより温存療法といった感じでしょうね。もともとは音量もあるモデルなので、スライド専用なんて思っていましたが、これまた一番弾いているのがこいつで、「Rollin’ & Tumblin’」だろうが、「Tears In Heaven」だって、こいつで弾くんですよ。私に常識は通用しません。

    Martin 000-15

    意外にも30年のダメージを負っていたのがこいつで、2026年5月後半から入院中です。ブリッジはがれ、トップ浮き、内部のブレーシング外れ…意外と重傷で。音はJ200より好きというか耳障りはさすがというかマーチンらしい音。じゃ、「Tears In Heaven」はマーチンで弾けよって言われそうですけど、それは違うんですよ。Eric Claptonのコピーをしたいだけならそれでいいんじゃいないですか? 楽器の音を存分に発揮して音楽やろうと思うと、マーチンじゃなきゃならない理由は別にない。

  • 塩野神社(信濃國小県郡)

    御神体は「水」だそうです。

    奇しくも当日は雨天。

    御祭神は出雲系の神様。

    生島足島神社の御神体が「土(日本列島)」なので、縄文後期から弥生時代の稲作の神様とは言い切れない…言えないと思っています。

    もっと古い時代の「土」は稲作以前の土から草木が生える、あるいは蛇や蛙や蝉…などが土の中で一定期間暮らし、時機を見て土から這い出てくる、そんな素朴な生命への畏敬…そうもっともっと素朴な信仰があったのではと。

    「水」もやはり稲作に必要とかそんな大層な話の前に、魚などの生物が暮らす場、のどを潤す水、もしかすると災害の原因としての水…もっと素朴な原始で原子な感覚だったんじゃないかと。

    だから、縄文からの層、稲作が始まってからの層があるんじゃないかと。出雲の神様が勧請されたのが1300年前の天武帝の御代(塩田まちづくり協議会サイトより)。結構最近ですので、その前歴のほうが重要。恐らく、1300年前に初めてこの地に信仰の場ができたとは考えにくい…。集落もずっと前から存在していただろうし。何かが更新された時期なんだろうけど。

    ご当地は小高い丘であり、この奥は山です。

    ちなみに天武天皇といえば、皇祖神が天照大神に定まった時期の天皇。まだ、地方は地方の気分で「出雲の神様がいいんじゃね? 諏訪の神様も近いし。」と勝手に妄想。