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  • 人生に無駄はあるのか。

    無駄はある。
    人生に限らず、なんでも無駄なくことを為せることは極めて少ない。

    どんな天才もド真っ直ぐ生きることは難しいだろう。

    人生は常に取捨選択を迫られている。そのときそのときの選択が正しかったかなどとすべて検証なんかしていられないほど、日々、そして連続的に右か左かを迫られている。

    ふと振り返って、あのときの選択は…と思い悩むこともあるけど、どこかで折り合いをつける。後になってみると遠回りの選択をしてしまった自覚はあるけど、ああいう出会いや発見もあったし、正解っちゃ正解だよね、と。本来の主旨とかコンセプトから言えばズレてしまっているんだから、間違いだったと素直に認めるべきなんだけど、周辺の副産物のおかげで有耶無耶にされ、誤魔化されてしまっているだけ。総合的にはまぁまぁだよね…という見方も大事だろうけど、当初の方向性に照らしてどうだったか、という見方をすっかり忘れてしまっては、そこに反省や検証は発生しない。

    スピードありきのつもりが遠回りしたなら、所要時間が判断基準だし、副産物がを得たのは想定内のことならまだしも、偶然となれば、それでよかったよかったとはならないし、してはいけない。そこは切り分けたうえで、期日はどうだったのかをドラスティックに評価したうえで、別枠として想定外に得られた副産物を取り扱うべきだろう。

    そういう評価を冷静に出来ていることが前提として、遠回りだったことを単なる遠回りとするか、必要な遠回りだったか、無駄な遠回りだったかを見つめるべきだろう。

    ただ、それがどんな遠回りだったとしてもそれを認識したことがほぼすべてではないかとは思う。つまりこれに関してはPDCAでいうならば、Cの検証でいいじゃないの?ってこと。わかっているかどうか大事。そして、それを見て、精神論ではなく、冷静に無駄でしたね、と言えないとダメ。

    だから、無駄はある。

    ちゃんと認識する。

    精神論に騙されない。誤魔化さない。

  • 即断即決

    世の中の激変する。

    即断即決は日々の業務を構成する一番小さな点のようなものだ。日々の判断に無駄が生じれば、1日の活動に遅れが生じる。つまり、日々の判断の集積が1日、1週間、1ヶ月…の活動に影響を及ぼす。

    今答えを出すのも明日答えを出すのも同じ答えなら、遅らせる意味がない。

    もちろん、熟慮熟考すべき内容もときにもあるから、すべて即断即決のふりして短慮してはいけない。

    ただ、日々の業務の状況判断については即断即決する習慣を身に着けることができる。

    日々の業務について、「よく考えておきます」はない。何か作業工程に問題があるとか、抜本的な改善が必要となると即断即決とはいかないかも知れないが、それでも長期的な改善と短期的な姑息的改善は切り離さなければならない。

    改善すべき部分があるのに(放置しておけば危険性があるのに)、差し当たりの手も打たず完璧を期すばかりに長期的な手当てに気を取られて時間ばかりをかけていては、その間に時限爆弾が爆発してしまうかも知れない。

    そのくらいの想像力もなければ、すでに状況判断もあったものではない。

    ということは瞬時の即断即決と熟慮熟考、長期的対策を整理ができなくてはならない。この整理自体、瞬時にできなくてはならない。

    判断…という意味では”保留”という選択肢がある。先送りではなく、敢えて、今判断しないという判断をするという意味だ。これも大切な判断の在り方だと言える。焦らず時期を待つというのも大切で、この逆が短慮だ。必要な判断材料の揃わないうちに大事な決定をすることは慎むべきだ。

    即断即決を貴ぶあまり、闇雲に熟慮なく決断だけを繰り返し、結局後になって朝令暮改を繰り返す。これでは社員総出でやり直しを喰らう。朝令暮改をむしろ”スピード感のある我が社”と認識して誇りに感じていた企業もあった。確かにそのあとのM&Aや組織の拡大により、判断の遅さ、更に遅い上に熟慮熟考する習慣がもともとからしてなかったために、稚拙さと遅さが目立つようになった。

    大きな企業ではあったけど、稚拙ながらもスピードがあることで活路を切り開いてきた。その力の源が失われたら、会社の命運も尽きたも同然だろう。

    私はその会社では末端の社員であったから、評論家然とした言い方しかできないし、他社ではあるが、企業の中核を担ったこともあれば、それほど見方に間違いはないと思う。

    それは日々の状況判断が企業全体の前進に影響を与えるという法則にどのケースも外れていないからである。

  • 人生、苦労は必要か。

    これを人生訓のように言うのは若干違うとは思うのだが、ある程度は賛成。

    苦労はすればするほどいいとは思わない。

    逆に苦労知らずはどこかでつまずく、とかいう根拠のない戒めも果たして正しいだろうか。

    苦労をすれば人間としての経験値は上がるのだろう。難しい状況や失敗をリカバリーしなくてはならない状況に出会えば、乗り切るための知恵や工夫が必要になるから、トラブルがない人生より脳みそは働きそうだ。

    ただ、人生何の苦も無くやりおおせる人たちもいる。苦労と思っていないだけなら、それなりに実際には知恵や工夫のために脳みそは働いており、”苦労なし”ではない。

    更にトラブルにまったく巻き込まれず、サラッと生きてきている人も一定数いるように思う。

    サラッと見せているのか本当にそうなのかはわからないけれど。

    ここでスピリチュアルな話をしようとは思わない。

    運がいいにも根拠があると思うから。リスクを自然と避けている人は結構いるし、トラブルの多い人を見れば、わかりやすいかも知れない。

    深く考えない癖で二言目には「まいっか」と誰が見ても「十中八九失敗しそうだな…」と見えてしまうタイプ。深く考えない、考えが浅い、たいした経験や知識もないのに自信過剰…。

    他には悪い友人の誘いを断れず、ずるずると乗ってしまうタイプ。友人だけでなく、喫煙のような悪習慣も同様。

    タバコを吸わない人から見れば、タバコを吸っている人や「やめられないんだよね」と言っている人の言葉なんて、間抜けにか見えない、ということになる、自分からリスクを背負いに行っているんだから。

    だから、運がいい人の中にはちゃんとリスクを予見して避けられている人と見ることもできるから、あながち経験値が低いとも言えない。

    一部の何か人智を超えた力に守られている人はここではちょっと取り上げないでおこう。

    いずれにしても、苦労はしなくてはならないものではなく、しなくてもその人の力量とは関係なさそうだと言える。

    ただ、自分たちのように凡人は若干の苦労でもないと真剣に取り組む状況が生まれず、怠惰な人間になってしまうかも知れず、そんな人生の注意喚起のためにも多少の苦労は必要なのかもしれない。

    一方、やたら苦労が多い人というのもある。決して頭が悪いとか無鉄砲とか、そういうわけではなさそうなのに。ただ、物事を悪い方にとらえると言動にも表れるかも知れない。言動なら気を付けて避けられるかも知れないが、習慣化したり、とっさに判断、選択しなくてはならない場合に、”とっさ”だけに本能的に、感覚的に、普段の思考の癖が出てしまう可能性は高い。

    人生は常に右か左かの選択に迫られている。選択の連続だと言える。そんな状況の中で、常に自分の癖が出ないように情報を精査して整理して、偏りなく判断し続けることなんてまず不可能だろう…。つまり、ひとことで言ってしまえば、日頃の思考回路が日々の選択に影響し、知らず知らずのうちに”負”を引き寄せているのかも知れない。

    かも知れないといったのはほぼ脳みその中で処理されてしまっていることで、目に見える現象は選択の結果と「なんかよくわからないけど、うまくいかない(まわりもそれに影響される)」とか”なんかよくわからない”けど、結果いい方向にいかない。恐らく、ひとつひとつの選択は大きくは間違っていなさそう…。

    世の中には試練を買ってでもしたがる仁がいる。先ほどから”選択”とは言うけれど、選択の仕方にも趣味趣向がある。楽かどうかで道を選ぶ御仁もいるだろうし、儲かるかどうかで判断する向きもあろう。判断基準はひとつではないし、その時々で適切な基準を以て判断できる人もいる。

    基準がひとつではない以上、決して答えは同じにはならない。ひとそれぞれ答えが違ってくる。

    それが順調を示すものか困難を示すものか、誰にもわからない。こうやって、あとになって、うまくいくやつといかないやつがいるなぁと見て取れるだけだ。

  • Dickey Betts

    いまどき、この人のことをAllman Brothers Bandの中でDuaneの陰に隠れてとか、Allman Brothers Bandの中でDuaneばかりを英雄視したり主役のように扱う人はいないだろう。

    なにもDuaneを軽視しようっていうんじゃない。
    Duaneなくしてsouthern rockは語れないし、レスポールも語れず、当然彼を象徴するスライドプレイも語れない。

    当世活躍のDerek Trucksも彼の血を引いているんだし、やっぱり偉大過ぎる先人がいると苦労…いや、Derek Trucksはとっくに先人を超えて天才の呼び声も高く、唯一無比の存在になっていましたっけ。

    でも、忘れちゃいけないのがDickey Betts。Duaneのスライドプレイを”洗練されたソロプレイ”に置き換えれば、Allman Brothers Bandの双璧だったと言って差し支えない。それにDickey Bettsのスライドも…いやむしろDickey Bettsの方が荒くれてカッコいいかも知れん…。

    そう思うとDuaneの方は結構繊細な人だったんじゃないかとすら思うし、Dickey Bettsの洗練された感じはいつも失われないし、25歳で亡くなったDuaneに対し、80歳まで生きたDickey Bettsと比べてはDuaneにも気の毒だろう。

    ただ、スライドお任せだったDuaneが亡くなったことで、スライド”も”やらなくちゃならなくなった…という面もあったかも知れない。

    わたしもそこまで聴き込んだわけでもなく、何かインタビューを読んだわけでもないけど、それにできないはずがない人でもあったんだと思う。

    若くして死ぬとどうも神格化されがちではあるけど、そのあともやり続けた人たちも同等だと思う。

    今回、あらためてDickey Betts & Great Southern『Live At Rockpalast 1978 and 2008』を聴いて、真っ黒なブルースではないけど、ブルース愛に満ちた人たちの音楽を復習して、そんなことを思った次第です。

  • 異邦人

    身の上に何か大きな事件・事故といった出来事が起きてしまっても、日常という毎日はやってくる。

    その日常を続けたことを責めるのは倫理観とか個々の価値観に拠るものだろうし、なにかひとつに決めることは難しい。

    ひとは完全に自由にはなり得ないけれど、許されていい勝手もあって、ときにそれが侵害されて、非難までされる。

    この作品の最大の山場はそこだと思う。

    非難する大衆。その非難に疑いを持たず、むしろ正しいと思ってひとりを袋叩きにする大衆。

    かと言って、袋叩きにされている方は反論するとか自分を正当化するとかでもない。何だったら、動揺も憤慨もない。

    その理不尽と呼ばれる状況に反応しないのもひとつのスタンスだろうけど、この無感情さが実存主義なんだろうか。

  • 孫子の兵法(3)短期決戦

    最小の労力で最大の結果を出さなくてはならない。

    出したい。

    かと言って、労力を惜しんで失敗しては元も子もない。

    ありとあらゆる準備はするけれど、投入する労力をダラダラ使い続ければ、やはり無駄が増える。

    イニシャルコストよりランニングコストを管理すべきという話にもなるし、自動的に短期決戦という話になる。

    最小の労力とは何も人員やお金だけじゃない。見方を変えれば時間だって労力だし、時間は無料じゃない。時間が経てば経つほど、人は飯を食い、給料が発生する。それだけでなく、疲れてパフォーマンスも落ちる。リアルな戦争だとパフォーマンスの低下は致命的になり得るし、死者の数にも繋がる。国を失うかも知れない。

    リアルな戦争なら誰も死なないことなんてないんだから、考え得る最大限の準備をして、一気呵成に決着をつけるのが一番損失が少なくなる。

    それが最小限の労力で結果に結び付ける方法だろう。

    何度か最小限とは言ったけど、出し惜しみせよという意味ではないこは前述したし、むしろ考え得るすべての準備をしたい。そして、最終的には費用対効果のバランスは取らなくてはならない。

    ありとあらゆる戦力を投入しても全滅したのでは何のために戦うのかわからないから。

    最後のひとりとなっても戦い抜くのは誇りのためだというなら、それはそれでいいけど、生き残って再起を期するのも選択肢としてあるだろうし、すべてを失ってまで戦い抜くのは国を守ることにはならないだろう。

    結局、何のために戦うのかを考えれば、実情がどうであれ、短期決戦を念頭に置くのが冷静な戦術と言える。

    兵は拙速を貴ぶ。

  • 孫子の兵法(2)意外性

    兵は詭道なり。

    あまりにも有名すぎて使いたくはないけれど、この言葉に象徴されるから仕方ない。

    いずれにせよ、敵を欺くこと、敵が思っていることの裏をかくこと、意表を突くことで、こちらも味方戦力の損害を最小限に敵を叩くこと。

    ここでもやはり”損害を最小限に”という哲学が根底に流れている。もうひとつは戦争を終わらせることは即ち敵を徹底的に叩くこと。徹底的に叩くことで敵の繊維を挫き、なるべく早く降参を促すためであろう。

    徹底的に敵を叩くことで云々の部分はクラウゼヴィッツの『戦争論』だったかも知れない。

    混ざっていたら申し訳ないが、国の戦争を受け持つひとたちは一番戦争をしたくなくて、なるべくひとが死ぬのは見たくない人種なのだと思う。

    真剣に戦争するひとは真剣に戦争を回避することを考えるし、ひとが死なない方法を真剣に考えた(と思いたい)。

    敵味方の正面衝突ほど損害の大きい戦い方はないんだろう。それでは数の大小で勝敗が決まってしまうし、単純な引き算で勝敗が決してしまい、小国の方はやる前から全滅が決まってしまっている。

    10,000人対1,000人の正面衝突が仮に1,000人側が最強の精鋭だとしても、真正面の斬り合い撃ち合いになったら、10,000−1,000の引き算で勝負は決する。

    小国とてやりたくない戦をやらねばならない状況もあっただろうから、そんなわかり切った引き算の戦争なんて無意味以上に損害しかないことになる。

    歴史を見ると常に劣勢の寡兵が大軍を打ち破る武勇譚が登場するけど、いくらか話を盛っているとしてもやりようはあって、大軍に大損害を与えて、引き分けるかその大軍を退却させることは可能なのだろう。

    それが数を宛てにした力押しの戦法ではなく、寡兵なら寡兵で敵の意表を突く戦法しか方法はない。

    思いがけない場所に出没する、思い込みという常識の裏をかく方法を採る、とにかく相手が思いつかないことをやる。

    ナチスドイツが敵を欺くために異常なスピードで進軍し、敵の計算より何倍も速く移動した、まさに意表を突く戦法を取ったことがあったけど、これはある種の薬物を兵に投与して三日三晩一睡もせず進軍したというのが種明かしのようだから、戦争というのはやはり狂っていないとできないことなのだろう。

  • 孫子の兵法(1)非戦

    世界最古級の戦術書が述べるところの最大のテーマは非戦ではないかと思う。

    ”兵法”とあるから如何に戦うかという話になりがちだけれど、ことの本質は違うと思う。

    どんな戦も始まる前から始まっている。

    ほんとのほんとに殺し合いになる前から始まっている。

    できれば、その殺し合いになる前にその殺し合いを回避する方法を模索する。

    『外交』だ。

    できるなら、双方の国民が誰ひとり死なずに解決できれば、それに越したことはない。仮に斬り合い撃ち合いになったとしても最小限の被害に留めたい。

    それは最終的に勝っても負けても被害を最小限にしないと勝ったとしても自国民が大量に死に、街も破壊されてしまっては負けた国を占領するまで手が回らないし、負けた国から何かを奪うために戦争を仕掛けたのではなかったか。それなら、負けた国を完全に駆逐してしまってはやはり復興に手がかかる。

    自国も敵国も傷だらけでは復興も何もあったものではない。

    日本神話に出てくる戦はどこかのんびりしていて、殺し合いをせずに譲り合いとか同盟とかによって共同して国土を発展させましょうという形が定型になっている。

    事実はどうであれ(神話だから事実がどうとか議論しても仕方ないという考えもあるだろうけど、一応、私個人のスタンスとしては歴史的事実を何かしらの形で反映したものととらえています)、勝ち組の作った神話としては勝ち組によって国が繁栄した体でないと神話の存在価値もないから、その繁栄の背景は日本神話の場合、”非戦”だったのではないだろうか。

    いずれにせよ、孫子の時代から可能なら戦闘を避けたい意志は十分あったはずで、そのために考えられることは外交努力だったのだろう。

    当初は戦闘を避けるための外交であり、開戦となれば損害を最小限に終戦を迎えるため、戦争を終わらせるための外交だっただろう。

    歴史を見ても多くの戦争が泥沼化して先が見えない状態となり、両者がボロボロになって終わる。仮にどちらかの国力が優位であっても、やはり殺し合いをした後の終戦は難しいことなのではないか。

    長引けば長引くほど、終われなくなる。

    だから、回避できるものならしないに越したことはない。

    それが『孫子の兵法』の根底に流れる最大のテーマだと思う。

  • おれ、まっすぐ歩けないんだ。

    どこをどう行ったら、一番近いか、どこが楽なのか、最初からわかってる。

    なのに、まっすぐ歩けないんだ。

    考えたらわかるのに、最短距離もわかっているし、険しい道も避ければいい。

    なのに、まっすぐ歩けないんだ。

    考えなくてもわかってる。でも、正しさじゃないんだ。そっちは危ないけど、面白そう…、そっちは険しいけど、理屈じゃなくて行ってみたいんだ…、と感覚がそうしたいと言ってくることもある。

    だから、まっすぐ歩けなかったこともまったく後悔していない。

    険しい道も遠回りも期待通り、まっすぐ歩いていては見られない景色に出会えて、大満足。

    むしろ、まっすぐ歩かないことを勧めてやろうとすら思う。

    ただ、ときどき因果な性格だとも思う。

    もっと楽できただろ?

    もっと早く成果を出せただろ?

    無駄なお金を使わずに済んだだろ?

    もっと楽な人生を送れただろう?

    もっと、もっと、もっと…。

    でも、そのもっともっとは豊かとは限らないんだ。

    寄り道、迷走、行き止まり、対面通行できない道…。

    それが我が道となる。

    それが我が歴史となる。

    まっすぐでは得られない蓄積がそこにある。

  • 10年

    ひとつの仕事を10年やって初めて、その仕事の本質がわかる、そう言われてきた。

    10年選手という言葉がある。これも裏を返せば、10年やって初めて隅々まで実務を熟知した頼られる存在となる、という意味を含んでいるのではないか。

    10年とはそんな意味を含んでいるのではあるまいか。

    10年という期間のとらえ方も年齢とともに変わったと思う。

    20代くらいまでは、10年とは膨大な時間のように感じられたし、もう少し年齢を減るとひとつの重量感のある時間単位に思えるようになった。50代となった今はうかうかしてられないスピードを認識する単位になった。

    10年もあると思うな…。

    時間の感覚が年齢とともに変わる原理についてはまたどこかで述べたいと思う。割と科学的に証明…までいかなくても仮説はある。

    さて、この時間感覚の話は往々にして、仕事との付き合い方の話だったりするけど、一方3日3ヶ月3年という言葉もある。

    若い人が仕事を辞めたくなる時期を喩えた言葉だけど、あまり数字に深い意味はないと思う。

    3日:仕事のイロハを知る前なのに、合わないと思って、入ったばかりだけど、もう辞めたくなる。

    3ヶ月:やっぱり3日目に感じた自分には合ってないという気持ちは間違いなかったと反芻。何事も初めてのこと、慣れないことを習得しようとすれば多少の努力もいるし、挫けることもある。でも、普通に考えたら、同じ人間がやる仕事にやってやれないことなんてないし、何の苦労もなく何事も習得できるならそれはごく一部の天才だけだろうから、自分はごく普通の凡人と認めるべきだろう。

    3年:3年もすれば確かに基本的な仕事やある程度の応用、トラブルにも対応できるくらいにはなっているだろうけど、先輩や後輩と仕事の技術を共有し、これからは後輩というより部下と言うべき存在も増えるし、そうなると仕事の仕方、仲間との接し方も変わってくるから、むしろやっとスタートラインに立ったところなのかも知れない。

    ここまで書いて、3年で基本的な業務習得をして、社会人、企業人としてスタートラインに立てたとして、それって結構スムーズに進んだ人なんじゃないかと思える。

    3年くらいだと何か役職を頂いてもにわか上司だろうし、自分の部下を育てるとか、一人前にするとか、ひと様に紹介することもままならないかも知れない。

    そう思うと3年は全然だなと思う。それはそんな頃の自分を振り返っても恥ずかしくなるような、そんなレベルだ。

    一人前だなんて程遠い。

    でも、そんなゆっくりできない世の中でもあった。

    dog age とか言われる時代でもあった。時代が目まぐるしく移り変わる時代に現状維持は衰退なり、とも言われた。自分たちがどうであろうと世の中の方がどんどん変わっていった。だから、世の中の変化に追随しなければ、企業とすればそれは終わりを意味した。

    わたしが社会に出たのはバブルが崩壊し、氷河期と言われる時代だったし、何をやってもモノが売れる時代から、何をやっても簡単にはモノが売れない時代になった。自ずと価格競争が激化し、日用品の価格設定はドラッグストアによって破壊された。

    だから、平成のデフレスパイラルを生み出したのはドラッグストアではないかとすら思う。スーパーはその煽りを喰らって多くの企業が倒れたし、そのくらいドラッグストアが市場でチカラを持っていたんだと思う。

    もちろん、ドラッグストアも多くの企業が淘汰された。日用品を扱う業態において、いわゆる差別化は簡単ではなかった。どこでも買える商品を扱うのにその中で選ばれる店になるということは一筋縄ではいかない。

    ましてや値段競争で差別化を図るなど愚の骨頂で、製造原価という最低限の経費がある以上無限の価格競争などあり得ないし、得てしてメーカーはぎっちり利益は確保していたから、身を削るのは中間の卸と小売店だった。時に原価を割る価格設定もあったけど、今思えば狂気の沙汰の他なんでもなかった。

    新店のオープンセールで、開店したばかりの店の利益ですらプラスなのに協賛で一緒にセールチラシを入れた近隣の仲間の店がセール期間中赤字で店長がお叱りを受けたなんてことがあった。

    モノが売れると働いた感じがするし、儲かった気分になるけど、まだまだ経営視点が子供だった時代だから、原価割れした商品を無制限に売るということをやってしまった。

    同じAという商品でもセール期間中の原価と普段の原価は違う。セール分の安い原価でも売価が原価を下回ることは珍しくなかったが、普段の原価は当然セール時より高い。だから、予定数量より多くあれば赤字幅の大きい商品を売ることになる。

    昔から安売り商品の販売限定数という概念はあったけど、ある程度の現場経験を積めば店長にくらいはなれてしまうドラッグストア業界では今では恥ずかしいことだけれど、そんな稚拙な店長がいたことは大した珍しくなかった。

    幸い、私が配属された地域はその会社にとっては最前線だったし、故にそれなりの人材が投入されていた感はあったから、店長になる前から損益決算書は概略的には理解していたし、短期的に戦略上赤字経営を強いられる期間があったとしてもどこかの時点で降り積もった赤字を回収し、借金を返し、利益の出る形にしていく必要があることは理解していたと思う。必要…とはつまり、資本力があればこそ赤字の時代を耐え忍ぶことができるわけで、でもそのままではダメで、ちゃんと利益を出し、従業員の給料を毎月きちんと支払い、売るための商品を買い付けるにももちろんお金がいるし、客数を確保するためにチラシに費用を使い、店内を明るくするために電気代もかかる。その他諸々の販管費を賄いつつ、今日も明日も明後日も存在し続けるお店であり続けることがある意味経営と言ってもいい。

    今はその業界からは離れてしまったけど、業界自体がだいぶ成熟しているだろうから、先に述べたような無用な薄利多売はやらないだろうし、商品部の仕入れ能力はその当時の比ではないだろう。小売側の規模が当時の比ではないから、売り手に主導権が生まれたし、どんな商品が売れるのか必要なのか作り手に要求できる規模になった。

    この間、30年と経っていない。

    平成時代は経済停滞の30年とは言われるけれど、民間は何もしなかったわけではない。

    個々の人材が3年やそこらで成熟しないしないように環境そのものもそれなりの時間は要したけれど、着実に変化はあった。

    ただ、30年を振り返ると着実に成長なり成熟した企業や業態、業界はあっただろうけど、30年経てば誰でもよくなっているわけじゃない。

    やっぱりそのときそのとき、ギリギリの選択や方向性の見定め、ときに失敗をしながらもリカバリーした歴史があるのではなかろうか。そうやって継続性のある軌道に乗って今に至るのだろうし、乗ったからといって安心もできなかっただろう。そうやって積み重ねてきた企業もあれば、そんな企業ばかりでもない。

    ひとも然りで、弛まぬ努力を積み重ねるひととそうではないひとがいるのは不思議なことではない。

    だから、10年おれば、必ず間に合う人間になれるわけではないし、20年経っても学級会だとか動物園と揶揄される職場は普通にあるし、我々普通の凡人にとっては環境が大事なのではないだろうか。