投稿者: kmngr_kasumi_eater_0607

  • お釈迦様の話

    お釈迦様の言うことがわかるようになってきた、という話。

    お釈迦様がリアルに語った言葉として伝わるのは『スッタニパータ』や『ダンマパダ』だけと言われていて、それ以降の書物は教団が大きくなって権威付けしたり、派閥間の対立があったりして、ちょっとずつお釈迦様イズムから離れていった経緯があるようです。

    実はもっと若いころにもチャレンジしたのですが、全く歯が立たず、理解できず放置していました。いや、仏教徒にはなれんのだろうなぁとすら思っていました(笑)

    私はお釈迦様を宗教者というより哲学者だと思っています。もちろん人間とか人生とか生と死とか、そういったものを根源的にとらえているので、宗教者と言って全く問題ないとは思いますが。

    理由はいろいろありますが、お寺さんを訪ねるようになって、あるいは自分なりに日本仏教を勉強するうちに自分は仏教徒にはなれんなと思うようになりました。さきほどの『スッタニパータ』を読みこなせなかった時とは別に理由です。あとで気付きますが、お釈迦様が言ったこととは違ったからだと思います…というのは時間軸が逆で、日本仏教の勉強はしたけれど、全然しっくりいかず、そのうちそれなりの年齢になって、『スッタニパータ』などを再チャレンジしたら、なんのことはない、こっちの方が自然だわいとなったのが正しい流れ。

    ですから、日本仏教は長い伝来の過程の中で独特の進化をした日本独自の宗教なんだと思うようになりました。客観的に言って間違っていないと思います。

    私はクリスマスも好きじゃないんですよね。一緒に祝うような人もいないことが多かったし、何よりも大学の推薦入試のために某市の新幹線駅に降りたのがクリスマスイヴで、賛美歌を歌う人たちを見て…卑屈ですよね…クリスマスが嫌いになって、それでも毎年家ではケーキは出てくる。そんな平均的日本人から若干のゆがみは含むもののそう遠くない日本人です。

    で、なぜお釈迦様?かというと先ほども述べたように哲学者として見ていましたから、10代でカミュの『異邦人』を読んで衝撃を受けたのと同一線上です。お釈迦様という哲人に興味があったわけですね。

    日本人以外の世界では日本人を見て不思議に思うというじゃないですか。年始に初詣、教会で結婚式、お寺でお葬式。細かいことは別の機会にお話しできればと思うのですが、こういった姿勢は私の中で”日本教”として、理解することで一応決着したんです。その細かいことにひとつに日本の伝統宗教が日本人の心のよりどころとしてあんまり頑張ってこなかったんじゃないかっていう結論があります。その結論にたどり着くプロセスの中で、日本の仏教は日本仏教であって、原点たるお釈迦様の言葉とは距離がある…というより別物と言っていいくらい変貌した。それは別に良い悪いではなく、日本仏教はそれぞれの時代に日本に合ったものを発明したんでしょうから、問題はないと思っています。念仏さえ唱えれば、とわかりやすさが大事だっただろうし、心の平安のために座禅が大事だと考えたのはお釈迦さまも同じだし、ただ、そこからの進化は世の変化とともにありましたか?と。日本の一般の人たちは日本教を創設することで満足?することになったんです。日本人はなんでも柔軟に自分たちのものとして取り込んでいく…と良きにつけ悪きにつけ言われますが、神社やお寺は日本教の一部として登場はするものの主役ではないんです。そこのところは金まみれの新興宗教や強引な勧誘の問題を挙げるまでもなく、伝統宗教の怠慢はなかったかと投げかけておきたいと思います。

    ただ、こうやってお釈迦様を語る時点で、お釈迦様の言っていることがまだまだわかっていねぇなぁと暴露しているようなところは否定できませんがね。

  • うつと自然音、胡弓、二胡、古琴、琉球音楽

    うつのときにストレスを和らげる、解消する手立てとして何かいい音楽はないかと考えていました。

    発症直後のあまり状態がよくない時は「何も聴きたくない」が正直なところですし、家族が発する生活音ですらしんどさを感じますが。少し持ち直してくると気を紛らせたい気持ちも出てきます。

    そんな中でも自然音、胡弓、二胡、古琴、琉球音楽(三線など)の音はありじゃないかと。自然音は説明すると雨音や川のせせらぎの音、小鳥のさえずりなどです(レンタルCDやiTunesで入手しました)。不思議なのは自然音くくりなのに、海の波のさざ波はダメでした。しんどくてすぐやめました。雨音は比較的複数の方からも賛同を得ました。と言っても身近な数人ですけど💦水の音は総じて良いようですが、私は波の音はダメでした。民族楽器でも金属弦の二胡はキンキンしてダメなんじゃないかと予想していたのですが、そんなことなかったですね。割と心地よい。たまたまiTunesで見つけた川崎元司朗さんの『琉球島唄』はよかったですね。三線の音はもちろん、この方の歌声が柔らかくて。独奏なので騒がしくなくていい。琉球民謡でもお祭りなんかで合奏するにぎやかな奴はちょっと合いません。

    うつって、ある程度ストレス耐性が上がってこないと音楽を聴こうとか気持ちを紛らわそうという段階にすら入れない。だから、最初はいくらか薬で底上げする必要はあると思いますけど。

    ちなみに私はヘビメタでも大丈夫でした。全部が全部よかったとは言いませんけど。重い気分の時に楽しい音楽はダメです。上向かない時に無理矢理上向きの音楽はダメ。そもそもヘビメタはネガティブを体現した音楽ですから。そういう意味ではブルースとか中島みゆきも正解なのかも知れませんが、あまりしっくりいかなかった記憶があります。

    なので、何か共通の法則があるのかわからないのですが、気持ちを落ち着かせたり、ストレスを軽くしたり、そういう効果のある音があるのは確かだと思います。

  • 仕事と性格

    もし、あなたが問題を発見したらそのまま放置できない性格だとしたら、解決することが正しいとは思わないことだ。

    合理的に考えれば、問題を抱えたまま業務を続けることの愚かさは共感できる。それはたぶん無駄が存在し続けたり、リスクをはらんだやり方を続けていたりして、無駄がなくなれば当然利益に転嫁されるだろうし、リスクがなくなれば継続的な経営に寄与するだろうから、やはり問題解決をしない、という選択は考えづらい。

    ただ、その無駄な仕事やリスクをはらんだ業務のやり方を手放せないことは結構あるような気がするし、パッと思い返すだけで何件か思い当たる。

    無駄だということを感じていないのかも知れないし、無駄かどうか考えたこともないのかも知れない。そもそも無駄があったからってどこに問題がある?と思っているかも知れない。

    例えば、業務中におしゃべりが絶えない職場がある。すべてのおしゃべりが無駄だとは思わないけど、終わることがないケースもあった。お客さんが来店しない限り10分、20分、1時間と続く。お客さんがいても構わないというケースもある。これはもうおしゃべりが楽しくて仕事に来ているといっていい。注意しようものなら、楽しい仕事の時間を奪ったかのようなことになり、仕事が楽しくなくなったと不満を漏らす。これが楽しくて来ているのに!と。それも仕事なんだ!?と愕然させられる。仕事っていったい?もうよくわからなくなる。

    おしゃべりが楽しくなっちゃうのはよくわかるけれど、無駄な仕事、できれば本当になってほしくない仕事を頑なにやめない人種がいる。古い話で恐縮だけど、昔々の話。錠剤のヒートシールはごく一般的には10錠単位で2錠ずつちぎれるようになっているけれど、切った後、角が尖っている。その尖った角を丸める”隅切り”という仕事があった。実はかくいう私も実際に見たわけではないんだけど、その仕事を頑なに続ける薬剤師さんがいて、仕事にならないと薬局長だったかエリアを統括する人間からだったか訴えがあった。権限を使って止めさせたかったのかも知れないが、こういうケースにはまず効果がない。実務者は理詰めだからかえって届かない。薬歴を終わらせてほしい(そっちが優先だから)、施設のお薬の準備をしてほしい、在宅の患者さんをひとり担当してほしい、いろいろやってほしいことがあって、優先順位を訴えて、無駄順位の高いその隅切りをやめさせようとするんだけど、やめない。ときどき感じることだけど、その隅切りをやっても在宅の患者さんのお家を訪問しても時給は同じなのだ。ましてや在宅の担当なんて持とうものなら定時で帰れないじゃないか。さすがにそんなことを口に出して、上司の指示を断ることはないだろうと思うだろうけど、公明正大(?)に言われるのがこの世界特有の話。簡単に言うと面倒な仕事を押し付けられないための予防策として、客観的には無駄な仕事をさも必要だと手放さない。決して珍しいことではない。

    そして確たる証拠はないけれど、ざっくり言って、そういう環境では残業が多かったり、一部の人に残業が偏って多かったりする。大抵はその”手放さない人”ではなく、周りの誰かがかぶっているパターンが多そう。

    だから、ムリ・ムダ・ムラをなくすことは大変いいことだけど、必ず抵抗勢力がいるということ、よく知っておかなければならない。

  • ギター挫折率90%

    別に私は挫折していないし、かといって、ギター歴は薄ーく、長ーくなので、それほど自慢できるギター歴でもない。実際、うつの期間はほとんど触った記憶がなく、その証拠にアコギについてはだいぶ傷ませてしまって、今になって自力で修理したり、プロに頼んだりしている。

    さて、挫折率90%という数字が何を基に算出されているかは知らないけれど、単純に中古のタマ数(買取数?)÷新品のタマ数(販売本数)だろうか。単純にほとんど続けられないという象徴として”90”としただけの可能性もある。

    上の計算式であれば、単に飽きて家に置いたままのケースは挫折に換算されないことになる。売却=挫折。そうすると実際の挫折率はもう少しかさましされることになるが、「仕事忙しくてなかなか弾けないけど、いつかまた…」と大事にしまっている人は挫折ではないのだ。

    それでいいと思う。

    学生のときのように、日がなギターを弾いていられる生活なんて続くはずがないのが普通なのだから、”弾く時間がないけど、自分はギタリストだ”というスタンスで良いのではないか。

    精神の問題だ。

    あと、本格的に挫折するケースについても考えてみた。結論から言えば、ステージの上のあの人たちになりた過ぎるのがいけないんだと思う。いや、そのステージの上のかっこいいあの人たちに憧れてギターを買うところまでは間違っていないと思いたい。

    でも、自分もああなれるかというとそりゃ違う。彼らは才能もあっただろうし、運もあっただろう。時代もあっただろうし、その時代に乗る才覚もあったかも知れない。とにかくいろんな条件がうまいこと重なってステージに立っている。下手したら、腕前はそれほどでも…と思う人でも堂々とプロ活動をされていたりする。何かひとつではないんだろう。

    一応、10%の人が何らかの形でギター(でもなんでもよくて楽器というものを)続けている。その時点でまぁまぁ弾けている可能性は十分あるけど、当然その10%みんながスポットライトに照らしてもらえるわけじゃない。

    きっとどこかの時点で「〇〇になりたい」という動機から解放されているはず。うまくなって、アンサンブルに耐え得る腕前を身に着けたなら、〇〇になれなくても自分のバンドで輝けるかも知れないし、それが続ける動機になる。別にバンドがしたくてやっている人ばかりじゃないし、そこまでの腕前でなくても続けるには相対的な”上手さ”から解放されなくてはならないんじゃないだろうか。

    そもそも音楽なんだから好きにやればいい、の境地に立てればなんのことはない。

    きっと私もブルースの完璧なフィンガーピッキングにとらわれていたら、しんどかったに違いない。Eric Claptonだって、その辺は適当…ではなく、あれは奏法にこだわらず、かっこいいところを抽出しているんだと思うけど…完璧にやっているわけじゃない。フィンガースタイルやスタイルのかっこよさなら、世界に名は轟いていないかも知れないけど、内田勘太郎の方がECの上だと思う。

    つまり比べても仕方ない、という境地に立てば、上手さから束縛されなくなる。

    ただね、上手い方が楽しいに決まっている。ちょっと語弊があるな。上手く…というより、一曲それなりに通しで弾ける、とかかな。

    それに60歳70歳でデビューするブルースマンなんてざらにいる。それだけの年齢を重ねないと醸せないものがあるだろうしね。

    いくら間があいても「やめてねぇし」って思っていれば継続中だ。

    その気概があれば、と思う。

  • Dr.MartensのAdrian:直していく。

    だいぶブサイクだけど、取り敢えず塞いだ。

    履き口からめくれてきそうだけど、延命にはなったのかな…。必ず靴べらを使えば、めくれることも防げるか…。

    いいのかわるいのか、粘着面の粘着がいいのと、素材もぺらーんとしているし、曲面だし、貼りづらい💦

    実はすでに靴底も一度貼り直している。外身が大丈夫なだけになんとか履けるようにしておきたい。

  • 榛名神社(上毛野國)

    本殿拝殿がずっと工事中でして、あまりいい構図がないので、でも榛名神社は参道がずっと滝や川が拝めて、木々が茂っていますし、何よりも夕方でも早朝でもいい光が集まってきます。

    やっぱり東西の向きは意識されているんじゃないかなぁ。と言っても参道が谷間に沿ってつながっていて、本殿拝殿は巨岩を背負っていますので、自然にそういう形になったと考えるのが自然でしょうね。

    榛名神社は2025年10月に日帰り、12月9~10日の一泊二日と短期間に二度行ってます。

    気に入ったと言ってしまえばそれまでなのですが、二度行ったのは上毛三山ではここだけです。赤城山も湖がありますので、近い雰囲気はありますけど、修験道のにおいの濃い榛名山より柔らかい感じがします。御祭神も火産霊神なので、強力な威厳を感じます。一方、妙義山はさらにごつごつの岩山なので、見たまんまの強靭な印象。それ故に榛名山に比べると乾いた感じがします。

    上毛三山はそれぞれカラーが違うのですが、総じてもともとの地元の神様がいた感じはします。あとから古事記に載っているような神様が重層。

    火の神様、修験道と並べるだけで、鉱山の存在、製鉄の存在を予感させます。修験道の行者は鉱山開発の技術者でもあったはずですから。もう少し、資料的なものを繰らないと…。関東自体が遠かったので、地域のことやなんかに疎いんですよね。どこそこに古墳があるとか、どこそこに製鉄の遺跡があるとか、そういった点の情報をいちいち調べないといけないので。

    少しずつ深掘りしていきますね。

  • 所有ギター(その2)

    このところ、Japan Vintageが華やかですが、一番最初に買ったOrville SG(by Gibsonではない)は当然日本製で当時としてはUSAなんて買えるわけもなく、廉価版のそれを買ったわけですが、結局一番弾いてきたのがこいつで、フレットもすでに交換時期をとっくに過ぎているにも関わらず、廉価版に約3万もするフレット張替えは無駄だと楽器屋に馬鹿にされそのままとなっていました。

    ところが、当世ジャパヴィンブームのおかげで当時の廉価版が再評価され、中古市場を賑わせているそうで。chatGTPも今ならフレット張替えも夢ではないのではないかと(笑)

    いい加減な世の中だな。

    ちなみにこのOrvilleは当時のフジゲンの製作だそうで。なんとも息の長い、いいもの作る人たちが生き残る、そんな世の中であってほしいですね。更に遊びで買った(?)島〇楽器PBの5弦JazzBASSも中身はフジゲンです。

  • Eric Clapton

    大学時代、音楽はこの人中心でした。

    『Unplugged』が1992年発表ですから、このアルバムとともに大学生活が始まったようなものです。いや、勉強しろよ(笑)

    いま改めて聴くとまったく違って聴こえますね。

    近いうちに全曲弾けるようにがんばってみようかなって。

    当時習得したのは『Hey Hey』『Tears in Heaven』『Walking Blues』『Rollin’&Tumblin’』。

    『Hey Hey』は初めてのフィンガーピッキングスタイル。クラプトンって黒人ブルースマンほどがっちりベース音弾かないんで、ベースとメロディーで苦しまないんですよね。手持ちのギターだとマーチンの方が合うんでしょうけど、J-200でも迫力が出ていいんです。

    『Tears in Heaven』この曲を聴くたびに当時一緒にギター弾いてた後輩君が言ってた「この曲のイントロ、スケベですよね。絶対女を泣かせる気満々」という言葉を思い出します。そうかなぁと思いつつ、それでも女子ウケを狙ったかどうかは知らんけど、まぁ女子はキュンとするんやろか。いや、クラプトンくらいのモテ男ならそのくらいの芸当は朝飯前か…。最近になって改めて弾いてみようと思って思い出しながら弾いてみたんですけどね。でも、この曲の”I must be strong”のところで歌えなくなっちゃって😢。幼い我が子を不慮の事故で亡くして、それなのに「もっと強くならなきゃいけないね」ってそんな状況でもっと強くならなきゃいけないのかい?あんたは?って。苦しくなってしまって。おいそれと歌えん💦

    英語圏の人は自分の体験を曲にするものだそうで、自然とアルバムとか曲を出し続けることはなくて、発表したらそのあとは人生を積み重ねる期間が必要なんだそうな。だから、Tears in Heavenは典型的な体験曲なんだろうけど。

    『Rollin’&Tumblin’』は単独の曲でもあるし、『If I had Possession Over Judgement Day』の一部分でもあります。それを含んでいるのか『Unplugged』ではフェイドインで始まります。初のアコギ・スライド曲。これはJ⁻200がばっちりハマる曲。そもそもJ-200はストロークででかい音出す用のギターですが、私はお構いなしですね。でかい音が出るなら音が細くなるスライドと組み合わせて好都合でしょ。この曲もクラプトン氏はベースは全く弾かないので、かなり早い段階で弾けるようになっていた記憶があります。

    『Walking Blues』、古典ですね。だから、L-00あたりで弾いてみたい一曲ではありますけど。夢遊病の曲。朝起きたら靴がない。そういう歌。しかし、夢遊病ならちゃんと靴を履くなんてことはなさそうだけど、どこかで脱いできちゃった? ギターの腕前を悪魔に魂売って手に入れたせいでうなされたんじゃないですかね。こちらも言わずと知れたスライド曲。

    『Unplugged』ではないですけど、『From the Cradle』収録の『Driftin’』あたりは手数も少なくて雰囲気出るし、今の自分にもなんとなく合うので狙い目かな。

    全曲弾けるようにはなるつもりだけど、どこかで動画をアップしたいと思っています。でも、うまい人なんていくらでしょうから、ちょっと違う角度でね👍

  • うつと認知行動療法

    簡単に言うと自分自身の思考パターンを見つめ直す手順が書かれています。パターンもだけれど、今日は、今週は、ストレスを感じている、イライラしている、不安が強くなっている、そんな今の状況も追っかけます。

    実はその自己分析あたりで抜けるきっかけみたいのに突き当たって、そのまま(と言っても1年かけてですが)薬をやめました。もちろん、そのときそのときの主治医と相談しながらね。

    だから、最後まで認知行動療法を実行したわけではなくて、きっかけをつかんだだけとも言えます。

    少なくとも不思議なことに「今週はイライラしてるんだな、〇〇があったからだな」とそこから、ぐるぐる回る思考をとめるきっかけになったんじゃないかな。

    ストレスになる出来事をいつまでも頭の中で巡らせて、反芻して、疲れていくパターン。

    少し脱線しますが、社会(会社)って、そのストレスを一生懸命思い出させる仕組みのようなところがありますね。忘れたいのに忘れさせてくれない。

    ストレスや怒り、不安を数値化してグラフにする。何週間も落ち着いていたのに、悪化したの●●だなって、気付きやすくなるから、●●を避ければいい。完全に避けられなくても距離を気を付けてみることはできるかも。

    それは家族も同様。家族との距離は難しいよねぇって言うんですけど、だからこそ重荷になってる。

    別に縁を切れと言っているわけじゃないでしょ?

    原因のひとつだって分析したなら、距離を今よりとることでストレスはストレートに減るって意味。すべてを避けることもない。家族Aとの▲▲関係の話がイヤだって感じるなら、ピンポイントで避ければいい。避けられないような内容ならせめて短時間で切り上げる。「ごめん、むり」を発動。2番目のストレス源を避ける。具体的に理解できるから避けるポイントがわかる。

    私の場合、そこまでで十分でした。この書籍はあくまでも一般の患者さんでも使いこなせるもので、医療者の介入はなくてもいけます。もちろん医師がコンサルするケースもあるみたいですが。

    私の場合、長年のうつ歴の間に家族だろうが、パツっと切るすべを身に着けることができていました。因果なものでうつのおかげです。

    そこまで気を遣うことやあらんやと。

    でも、家族だからこそ言えないこととか気を遣うことがありますよね。かえってそれが募りやすい。

    それを発見して明確にすること。

    この先は私も未体験なのですが、新しい思考パターンを身に着けていくことになるみたい。

    私の場合は思考を捨てることとストレス源から離れることが大事だったので、特になりふり構わずでもないのですが、後者を実行したことが…もちろんリスクはありましたし、今も無縁ではいられませんけど、大きな前進には違いありませんでした。

    意外にも原因を明確にすること自体にストレスはなくて、それとは関係なく、回避できなければストレスを感じ、回避できればストレスが減って精神が安定するということ。

    だから、明確にしたことが何より大きかったわけです。

    また、機会があれば、認知行動療法の未経験部分についても研究してお伝えできれば。

  • 月讀神社(一支國)

    元祖月讀神社。

    ずーっとおかしいと思ってます。

    御祭神のお名前です。

    同一人物じゃないんですか?

    漢字のあてはあまりあてにならない(笑)なんとなく、漢字の意味を理解してあてたように見えなくはないのですが、月弓尊?

    ツキユミ。ツキヨミ。訛っただけ…とは言いませんけど、当時の発音でツキヨミとツキユミが明確に別物とわかる発音だったのか…?

    「母」は現代では「ハハ」です。室町時代には「ファファ」。奈良時代までさかのぼると「パパ」。

    母はその昔パパだったんです(笑)冗談はさておき、それくらい発音は変わっているし、現代のような区切りがはっきりした音節ではなかったような気もします。

    まず、現代の感覚でツクヨミとかツキヨミと発音していた可能性はゼロだと思うんですよね。西暦478年創建だとすると古墳時代ですけど、さきほどの例で言えば、室町時代より奈良時代よりの発音のはず。もちろん、中央の近畿と同じとは言いませんし、絶対違ったでしょうね。

    それに創建時からこの三柱だったのか…。